L2
こうして戻った左大臣家所有の須磨の館で、アントーニョは事の次第と帰京を許された事を知る。
「 よっしゃあ!!捕ったど~~!!!!! 」 バスリ!!と突き刺した銛の刃先には見事な鯛。 それをかかげながら、アントーニョはバシャバシャと波間から陸地へと戻る。
「これは…驚いた。 予定よりまだ少しばかり早い気がしやしたが、もう来なすったんですかい?」 外は快晴。 綺麗な海を見下ろせる小高い丘にその館は立っていた。 フランシスもかつて知ったる場所。子どもの頃に来た事がある。 それはそうだ。ここは元々左大臣家の持ち...
「トーニョのやつ、もう泳げるようになったかな?魚とか捕れるようになったかな?」 二条の屋敷に引き取られて早 3 年。 アーサーも成りだけはお年頃という年にはなってきたが、その中身はまだまだ子どもだとキクは思う。 アントーニョが須磨に出発して 3 週間。 ...
「やれやれ、あとはトーニョ呼び戻す使者出して終わりか…」 前時代の大御所二人を見送って、ギルベルトは大きく息を吐き出した。 「この件に関してはそうかもだけど、ギルちゃんの場合はこれからが始まりでしょ」 同じくホッとしたようにギルベルトの肩に片手を置くフランシス。...
「結局…あんたは惚れた女のために動くんやな」 御所から少し離れた静かな場所に建てられた館に向かう牛車の中で、ゆっくり流れる景色をぼんやりと目の端に入れながらエンリケはつぶやいた。
「久しいなぁ、昔は里帰りのたび膝に乗せて菓子やったもんやったけど…覚えとる?」 そう言って浮かべる微笑みは優しい。 尼君に事情を聞いていてさえ疑ってみたくなるほどには…。
ふぅ~…と思わずついたため息を、この敏感なんだか鈍感なんだか分からない、キクの幼い主は聞きとがめたらしい。 サラサラとそれだけは上達した綺麗な字をしたためていた筆を置き、キクを振り返った。
「須磨……」 小さい北山の雀っ子も、 3 年も経つと子どもらしさに少しの落ち着きが出てきた。 アントーニョが帰ると文机に向かって絵本を読んでいたアーサーは顔をあげて、そこは昔のままパタパタと駆け出してきて出迎えたが、深刻な顔のアントーニョに、当分須磨の田舎で謹慎をす...
「お、おまえ……何しとるんや~~!!!!」 血管が切れそうな勢いで叫んでいる右大臣。 「あれ?お祖父様何かご用?」 まだ寝ぼけ眼で目をこすりこすり祖父を見上げるエリザに 「何か用?やないわぁ~~!!! 自分何してくれとんのやっ!!帝に嫁ぐ身ぃでこんな...
「兄ちゃんおる?」 宮中でヘラリとそう問うアントーニョだが、さすがに東宮ともなれば会いたいんだけど?はいそうですか、と即会えるわけでは当然ない。 「こちらでお待ちくださいませ」 と、部屋に通され、アントーニョは一人月を肴に出された酒に口をつける。
「どうなさいました?ずいぶんと深刻なお顔をなさっておいでで…」 帰りの挨拶もそこそこに、珍しくお姫ちゃんことアーサーと遊ぶことなく自室にこもったアントーニョを気遣わしげに見送るサディクにさらに気遣わしげに声をかけるキク。 「ああ、うちの大将ですかぃ」 「いい...
あまりに周りが見えていなかったのだろう…ドン!と誰かにぶつかり 「ああ、堪忍な」 と、そのまま行こうとすると、 「ちょっとまって」 と、その誰かに腕を掴まれ引き止められる。
事件というのは唐突に起きるものである。 不幸もまた然り、前兆なし。 嵐の前触れはアーサーを引き取って早 3 年の月日がたったある初夏の日のことだった。
恋…それはアントーニョにとって初めてと言って良い感情だった。 そもそもが彼の恋心を伴わない恋愛遍歴は幼少時に端を発している。 実母は幼くして亡くなった。 かすかに覚えているその容姿は自分に似ていた。 だから母を亡くした寂しさは、鏡に映るどこか母と同じ面差しのある自分を見...
好奇心からでもなく、身体の関係ありきでもなく、まず気持ちの高まりから始まる関係は、エンリケ以来だった。 しかしあの時と違うのは、現状を維持が前提ではなく、育って行く心だ。
「まあこれでトーニョも懲りたよな…」 お姫ちゃんが帰っちまったんで、俺らも宿へと向かい、一休み。 宿までの道々無言で何か考えこんでいた大将は、ひどく思いつめたような顔で部屋にこもっている。
「北山?北山におるんやなっ?!」 まるで病人のようだった大将は、俺がお姫ちゃんの話をすると急に元気になった。
こうして隣まで足を運び、 「ちょいとごめんよ。」 と、声をかけると、どうやら身分を隠して地味な牛車で来ていても、それなりの身分のモンだとわかる大将の牛車に興味津々だったらしい若い女が好奇心に目を輝かせて走り寄ってきた。
話ははるか昔に遡る。 まだ若かった帝が見初めた身分の低い更衣。 それが大将のおっかさん、桐壷の更衣だ。