「久しいなぁ、昔は里帰りのたび膝に乗せて菓子やったもんやったけど…覚えとる?」
そう言って浮かべる微笑みは優しい。
尼君に事情を聞いていてさえ疑ってみたくなるほどには…。
ましてや何も知らないアーサーにとっては小さい頃から優しくしてくれた数少ない親戚だ。
初めて足を踏み入れる宮中で緊張気味にきょろきょろとあたりを見回していたアーサーは嬉しそうに言って走りだすと、御簾をまくりあげてエンリケに飛びついた。
「女御様に対してなんて失礼をっ!」
と憤る回りの女房達を、
「かまへん、かまへん。この子ぉは俺の子ぉも同然やねん。怒らんでやっといて」
と笑ってなだめるエンリケ。
ひどく和やかな光景に、キクはなんだか力が抜けた。
「ほら、菓子やろうな」
と、懐から懐紙を出して、コロコロと可愛らしい砂糖菓子をその上に乗せてアーサーに差し出す。
「懐かしいな、これ。お前里帰りした時は必ずこれくれたよな」
それを1つ摘んで口に放り込むと、甘いなっと嬉しそうに笑うアーサーに、
「自分はホント変わらへんな。頬もまだふくふくで赤ん坊みたいや」
と、エンリケはアーサーの金色の頭を優しくなでた。
まるで親子か兄弟のように和やかな空気。
「昔は里帰りから帰ろうとするたび、帰らんといて~って泣くさかい、これやって食っとる間に逃げるように帰ったな」
「ガキの頃の話だろっ」
ぷくぅっと膨れるアーサーに笑うエンリケ。
二人は延々と昔話に花を咲かせては楽しそうに笑い合う。
本当にこの優しそうな人が尼君が恐れた情のない人間…そしてうちの大将を陥れた張本人なのだろうか…。
うちの大将といる時ですら、アーサーがここまで穏やかな笑顔を見せ続けることはない。
この人から本当に逃げるべきなのだろうか…本当に?
あまりに楽しげな様子に呆然としている間にもうあたりが暗くなり始めた。
「アーサー様…そろそろ…」
出発予定は3日後。
でも今日帰らないと帰れなくなる気がする…。
恐る恐るキクが切りだすと、一瞬冷やりとした何かがキクに向けられた。
…目……温度のない…吸い込まれて消えてしまいそうな……
――ヒッ……
心臓を鷲掴みにされたような感覚にキクは思わず小さく悲鳴をあげた。
「キク?」
不思議そうに振り向くアーサーに、無理に笑顔を作ってキクはさらに促す。
「何でもありません。そろそろ暗くなりますし、お館に帰りませんと…」
一刻もはやくこの場から離れたかった。
幸いアーサーは何の疑問も感じず
「そうだな。文も書きかけだったし。早く出さないと自分の方が早くつきそうだし」
と、うなずく。
「じゃ、俺帰るな」
と、当たり前ににこやかに言うアーサーに、エンリケは綺麗に優しく微笑む。
「泊まっていき。二条にはもう誰もおらんのやろ?」
「うん。でももうすぐ俺もトーニョんとこ行くしなっ」
と無邪気に笑うアーサーに、キクは目眩がした。
それは言わないほうが……言ったら……
「やめとき?あれはあかんよ」
エンリケの手がゆっくりとアーサーの頬を包んだ。
「トーニョはあかん。あれはな、エエやつなんやけど、ちょっと女癖悪いねん。
今回の都落ちもそれが原因やしな」
キクは冷やりと背中に汗をかいた。
綺麗な笑み…なのにひどく恐ろしい。
「ああ、あれは誤解なんだ。エリザもフランも誤解だって言ってたしな」
そんな空気に全く気づくこと無く無邪気に言うアーサーに、キクは泣きたくなった。
「とにかく…あかんよ。元々自分の事は俺が引き取るいう話やったんや。
せやからもうこのままここにおり?」
声音は優しいがだんだん目に感情がなくなってきている。
そして…ソロリソロリと少しずつ下がっていく女房達。
まずい…本格的にまずいです、サディクさん…
キクは思わず脳内で思うが、いつもなら頼りにするサディクは今大将に付き従って須磨にいる。
ああ…どうしよう。
「それはエンリケの勘違いだぞ。
お祖母様も言ってらした。自分に何かあったらトーニョを頼れって」
「お祖母様も身体が弱って、色々勘違いなさってたんや」
「いや、意識はしっかりしてたし、大おじさまも一緒だった。
とにかく俺帰るな?」
「行ったらあかんよ」
飽くまで穏やかな声音。
「なんで?」
ここにいたっても何の恐ろしさも感じないアーサーがキクはすでに信じられなかった。
「自分の家族は俺やで?あれは他人や」
やんわり頬を掴んでたエンリケの手がアーサーの両肩を掴む。
「他人…だからだろ?他人だから伴侶になれる。一生共に生きていく相手になれるんだ」
「…わかったわ……」
「うん、じゃあ俺帰るなっ」
何故ここにいたってまで何も感じないのか…もういっそのことアーサーの鈍感さの方がすごいと思う。
「俺は法的に立場的には帝のもんやけど…実質的な伴侶になればええんやね」
「…エンリケ?」
ガタンっ!!と御簾が倒れる大きな音がした。
「ちょ、待って下さいっ!!!」
そこでようやくキクが弾かれたようにアーサーを床に押し倒すエンリケに飛びつくが、ものすごい力に突き飛ばされて、屏風に頭をぶつけて一瞬意識が途切れた。
その様子にさすがにアーサーもようやく異常を理解した。
「エンリケっ!何するんだっ!離せよっ!!」
バタバタ暴れてみるものの、体格の差、力の差は歴然としている上に、上に乗られている体制もあってびくともしない。
「なんでこんなことすんだよっ!!」
「優しゅうしてやったやろ…お前にも…トーニョにも…
可愛がって…ただ可愛がって…なのになんで他の奴と一緒に行くん?離れて行くん?
…契ったったらずっと側におるんか?」
「何言ってんだよっ!お前は家族だろっ?!家族はこんなことしないっ!
こんなのおかしいっ!!」
「なら、なんで離れて行くん?」
「だって皆そうだろっ!伴侶見つけたらそいつと行くだろっ!!」
「それやったらなんで俺だけ一人やねん。
…あいつは出てった、止められへん。
でも自分は渡さん…絶対に渡せへんわ」
自分のモノより大きな手が襟元にかかって、アーサーは現状を理解して身震いした。
にこりといつものように穏やかにわらっているように見えるのに、その笑みにはどこか感情が感じられない。
「やだっ!!やだっ!!離せよ、エンリケっ!!!」
「叫んだって無駄やで?
今、今上は療養中やしな、宮中では俺が一番力持っとる。俺の意志が全てや」
エンリケがそう言って襟元にかけた手にグッと力を込めた瞬間、
――ブッブ~!今一番の権力者は俺様だよ、残念っ
戸口で声がする。
佇むのは整った顔の銀色の髪に赤い目の男。
顎をしゃくると付き従っていた衛兵達がエンリケを起こして、同じくかけ出したエリザがアーサーをその下から助け出す。
「…どういうことや?」
暴れもせず抵抗もせずいるエンリケから衛兵は一歩下がって道をあけた。
「ん~、帝にかけあって位を譲ってもらった。
親父もいい加減帝職に飽きてきたらしくてな、楽しく楽隠居するわ~なんて秘かにそれ用に建ててた院にすでに引っ越しすんでんだけどな」
そう言って肩をすくめるギルベルト。
桐壷帝の譲位…隠居後住む院の建設…そんなことは一言だって知らされてはいなかった…。
帝としてのしがらみから持たなければならない妻は多くいるが、個人で望んで迎えた妻はお前だけだ…しばしばそう言われていても、そんな重大な事すら知らされていなかった…。
その事実にエンリケは静かに自嘲する。
「結局…勝手に俺を呼びつけて縛り付けたジジイですら、俺を一人置いていったんか」
それでも泣きもせず怒りもせず…静かに笑う。
感情的になるには、あまりに全ては今更だ。
あの日…まだ人生に色々な可能性の残っていた頃、亡くなった人間の代わりにと全てを奪われてここに連れてこられた日から、何かを望む事なんて無駄だとわかっていたのに…。
全てを失っても、同じく何も持たずに生まれてきた甥を…母のいない義理の子を愛し慈しんだ。
与えるだけ与えて生きていこうと思った。
どれだけ身を削ったとて構わない。
手の中の子どもを守り、慈しみ、育てられれば幸せだった。
なのにどれだけ献身的に与えても、無邪気に大好きだと抱きついてきた甥も、大人になどなりたくない、離れたくないと泣いた育て子も、結局大人になって外に共に生きる相手を見つけて、エンリケには得られなかった自由を手にして、エンリケを置いて出て行ってしまう。
それどころかエンリケから人生を、自由を、全てを奪った張本人すら自由に出て行くというのだ。
もう笑うしかない。
そんなエンリケの思考は
「ん、それなんだけど…」
とのギルベルトの声に遮られ、さらにその言葉の先は、壮年の男の声に遮られた。
「人聞きのわりい事言うなよ、ちゃんとこうして迎えに来てんだろうがっ」
少々情けなさそうな表情で頭をかくのはかつて桐壺帝と呼ばれたギルベルトの父、ローマ院である。
「ようやっと面倒くせえこと全部ガキに押し付けて楽隠居できるっつ~のに、女房連れてかねえでどうすんだよ。」
尊い身分、元帝でありながら、このおっさんほど雅と程遠い物はないと、このところの療養生活で久々に顔を会わせる自分の支配者を見て、エンリケは思った。
ほら、と差し出される浅黒い手は十数年前と変わらない。
「俺にはどうせ拒否権はないんやろ」
と、これも喜ぶでも泣くでも怒るでもなく、淡々とその手を取るエンリケに、ローマは
「まあ、そうつれないこと言うなよ。」
と、苦笑した。
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