あずま男の源氏物語@私本源氏物語_六の巻_3

ふぅ~…と思わずついたため息を、この敏感なんだか鈍感なんだか分からない、キクの幼い主は聞きとがめたらしい。
サラサラとそれだけは上達した綺麗な字をしたためていた筆を置き、キクを振り返った。

「サディクがいなくてキクも寂しいな」
と、おそらく本人は他意なく言ったのであろう言葉で、キクは年甲斐もなく赤面した。

ああ、もう言ってしまおう。
キクは物心ついてからそんな余裕はかけらも微塵もなかったため、恋人など持った事もないどころか、恋愛すらしたことがない。

いきなり自分に向けられたその言葉に声もなくパクパクと口を開閉しているキクに、アーサーは至極真面目な顔で言う。


「まあ大丈夫。
キクは美人だし、サディクだって少しくらい離れてたって心移りなんかしないから」

ああ、もう!何故他人ごとならそういう気が回るんですかっ!と叫びたい気分に駆られたが、そこはグッとこらえてキクはにこりと笑みを浮かべた。

「私より…アーサー様はご自分の心配をなさって下さい。
アントーニョ様はたいそう人気のある方ですし」
ああ、これで焦ってくれないか…と思って言うと、アーサーはあっけらかんと答えた。

「大丈夫。あいつヘタレだからな。
一ヶ月じゃ地元の女ほども泳げやしないし魚だって捕れやしないだろ?
自分より色々できない男と一緒になってやろうなんてモノ好きは俺くらいだ」

天下の源氏の君も、小さな伴侶にかかってはかたなしである。

しかしなるほど、さきほどの泳ぎや魚捕りの話はそちらにつながるのか…と、非常に回りくどくもわかりにくい主の心配の仕方にキクはホッとしながらも小さく笑った。
そうか…そうなのか。
わかりにくいが、アーサーの方もちゃんとアントーニョを伴侶として意識しているのか…。

「今回の一件が落ち着いたら、そろそろ正式にご結婚なさっても良い頃ですね。
キクも三日夜の餅などの準備をしなければ…」
と、少し具体的に話を進めてみると、アーサーの白い頬が一気にリンゴのように赤くなる。

「べ、別にしてやってもいいけどなっ!」
と言い捨てると、またクルリと文机の方へと振り返って、筆を取った。

どんなことを書いているのだろうか…と思い、きづかれないように茶をおくついでにそろりと覗き見ると、日常のもろもろと共になんと先ほどの一件が書かれている。

【そう言えば…キクが…俺がじゃないぞ、キクがだぞ。
今回の一件が片付いたらそろそろちゃんと結婚してやったらどうかなんて言うんだ。
キクはなんだか三日夜の餅の準備とかしたいらしくて……】

と、その素直でない、しかし素直に言うよりよほどわかりやすい言葉に、キクは慌てて部屋を出て廊下に行くと、そこでようやくクスクスと笑みをもらした。

ああ、別に片付かないうちでも良いかもしれない。
あと3日もしたら須磨に出発しよう。

そして向こうで結婚なんていうのもいいんじゃないだろうか。
色々なしがらみのない自然の中でというのもアーサーらしい。
須磨に行く時は餅の器などの準備もしていこうか…。

そんな楽しい空想をしながら、キクも機嫌よく日々を過ごす。

アーサーが無事アントーニョの伴侶になれたなら、キクとの時間も…特に夜はかなり減るだろうし、そうしたら趣味の執筆活動に時間をさこうか…。

(べ…別に私は恋なんて今更…ええ、別にサディクさんだって単に大将に必要なアーサー様に必要な人間だから私にまで優しくして下さるだけですしね…ええ、別にそんな事考えてませんよ…)

自分もアーサーのように近況を文にしてみようか…別に深い意味は無いのだ、こちらの様子は知らせた方がいいかもしれないし…書くなら自分のような身分のものが大将に直接なんて恐れ多いことだから、やはりサディクさんに…いや、だから、単に大将の伴侶の近習としての仕事で……

誰が聞いているわけでもないのに、こころの中でそんな言い訳を繰り返しながら、文箱を取ったキクの耳に、来客を告げる声がした。

うちの大将こと源氏の君が留守なのは皆知っているはずである。
ならば来ても承る相手がいないことなど誰にでもわかるはずだ……。

何か不安を感じてキクは文箱を放り出して走った。
そして予感は的中した。

兵部卿宮の紋の使い。

アーサーを迎えに来たのだと言う。

そして…行く先は宮中藤壺。





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