事件というのは唐突に起きるものである。
不幸もまた然り、前兆なし。
嵐の前触れはアーサーを引き取って早3年の月日がたったある初夏の日のことだった。
見覚えのある顔。
忘れもしない、継母の側に古くから仕える女房である。
「お久しぶりでございます」
と伏して言うその姿は、在りし日よりもだいぶ小さく思えた。
それもそのはず。
最後に彼女と親しく言葉を交わしたのは、実に11年前。
まだアントーニョが少年期を脱していない12の頃。
元服の日の前々日の事だったのだから。
「ほんま、久しぶりやね。こうして言葉交わしたんは元服前の子どもの頃やったから、大人になって改めて見ると、ずいぶん自分も小さく見えるわ」
当人達以外に藤壺とアントーニョの関係を知る唯一の人物。
会えば当時の事が思い出されて胸がツキリとでも痛むのかと思ったが、どうやら自分はすでに過去を振り切れたらしい。
胸中には懐かしさは広がるが、痛みは全くない。
「エンリケはどうしとる?元気か?」
と、聞いたのは懐かしさからだ。
身体こそ重ねてみたものの、結局彼は最後まで自分の保護者であったのだと思う。
大人になるのに、新しい世界に踏み出すのに怯える子どもに、大人になることは恐ろしいことではないのだと教えるために、抱かせてくれた。
それでも大人になったアントーニョが共に人生を歩んで行くのは自分ではないのだとまた教えるために、敢えて一切身辺に近寄らせないよう、突き放したのだろう。
正直…当時はそれがわからず、苦しみ、恨んだものだが、今となっては全て懐かしくも慕わしい。
「実は…アントーニョ様が好きだった菓子を丁度実家から送られて来た時に、アントーニョ様が宮中にいらっしゃるとお聞きして、それならと、この通り…」
通常なら帝に縁のある者同士。
菓子1つとっても恭しく高坏に載せて運ばれるものであろうが、幼い頃から側にいて実の家族のように可愛がっていた子どもに対して、エンリケは自分が口にするついでとばかりに、落ちない程度に懐紙に包んで菓子を渡してくれていた。
女房が出してきたのもかつてエンリケがそうしていた時のまま懐紙に包まれた砂糖菓子。
アントーニョが慣れ親しんだ菓子である。
「ああ、これっ。懐かしいなぁ」
気軽にひょいっとつまみ上げて口に放り込むと、ふわりと優しい甘みが口中に広がる。
幼少時の幸せの象徴のような味だ。
「なあ、エンリケに少し報告したいことがあるんや。
もちろん御簾ごしでかまへんし、お前もおっても全然ええから、会えへん?」
菓子の甘みに子供時代の保護者の甘く優しい思い出が重なる。
思い出すのはあの苦い初体験の日ではなく、ただただ親代わりの温かさに甘え、笑っていた幼少の頃の事。
もしエンリケもそうなのだとしたら…まだ自分を菓子で慰めてやっていた幼く可哀想な子どもと心配しているのだとしたら、大丈夫なのだと報告したい。
大丈夫。自分はようやく相手をみつけ、恋をして、幸せに暮らしている。
そう報告して安心させてやりたい。
エンリケにとってもアーサーは甥のはずだ。
もしかしたら会った事くらいないだろうか。
自分に縁がある者がアントーニョと幸せに暮らしていることを喜んでくれるのではないだろうか…。
そんな事を思いながらダメ元で聞いてみると、旧知の女房はにこにこうなづく。
昔はあれほど頼んでもダメだったものが、やはり幼い頃から側に仕えていてくれた相手だ。
あの頃とは違う自分の違いをわかってくれるのだなぁと、アントーニョは嬉しくなった。
11年ぶりの藤壺。
ずいぶん時がたっているのだが、その空気はあの頃となんら変わりがないように思える。
焚き染められた香。
下げられた御簾。
唯一…かつては御簾の向こう側にいた自分が今、こちら側にいる。
それは悲しいことではなく、誇らしいことなのだと思えるのは、アーサーに出会ったからだろう。
「久しぶりやな。ほら、菓子のおかわりやろうか」
と、相変わらずの穏やかな声がして、御簾の間から懐紙を載せた手が差し出される。
それを女房が受け取り、アントーニョの手に。
『もう子どもやないんやから…』
と言いたいところだが、せっかくの好意だ。
「この菓子…懐かしいわ。
まだ童やった頃、俺が泣いとったらよくくれたなぁ」
と、笑ってそれを口に放り込む。
「そうやな。お前泣き虫やったから」
と笑いを含んだ声。
いきなり上がる御簾にアントーニョが驚いて目を丸くすると、
「何を飴ちゃんみたいに目ぇまん丸くしとるん」
と、まるでからかうように笑いを含んだ声に、膨れるより先に心配になった。
「ちょ、御簾おろしておかんとええん?まずいんちゃう?」
というアントーニョの声に、エンリケは脇息に肩肘を付いて
「ええねん。今はお前と女房しかおらへんし」
と当たり前に穏やかな様子で言う。
いやいや、その”お前”が一番あかんのとちゃうん?と、アントーニョもさすがに思うわけだが、エンリケは
「それよりな、お前に話があるんや」
と、手にした扇をぱちんと閉じた。
「話?」
「…ん。今な、自分とこに俺の甥がおると思うんやけど…」
まさに自分のほうが話そうと思っていた事を先に言われて驚くアントーニョ。
「そうなんや。俺もそれ伝えようと思うて…」
「返したってな?」
身を乗り出したアントーニョの言葉はエンリケの言葉でやんわりと遮られた。
「は?」
「元々な、兄の正妻は情の怖い人やったし、兄は頭あがらへんから、あの子の母親が亡くなってからも里帰りのたび遊んだって可愛がってたんや。
で、少し大きゅうなったら俺が引き取ろう思うててんけど、母方の祖母が連れてどこか行ってもうてん。
こんな立場やからなかなか居場所探しだせんくてな。
そんな時お前関係の方であの子の居場所わかってホッとしたわ。
ほんまお前には世話になったな」
「ちょっと待ったってっ!」
「ん?」
思わぬ方向に進む話にアントーニョは慌てて口を開いた。
「あのな、あの子は俺の家で暮らしてるんや」
「ああ、そう聞いとるよ?」
「俺の大事な家族なんや」
「ああ、別に俺と違うて帝に嫁ぎにくるわけやない。またこうやって会いにおいでや」
「違うっ!違うんやっ!」
「違う?何がや?」
何か話が微妙に噛み合わない。
言葉が通じない。
焦りのようなものを感じながら、アントーニョは少し落ち着こうと小さく息をついた。
「あのな…俺はあの子をどこかにやるつもりはないねん。
あの子はあの子の後見人やったあの子の祖母の尼さんから俺が正式に託されてうちにおるんや」
「あの尼さんもなぁ…困ったお人や。自分みたいに若い男にちっちゃい子託しても困るやろ。
俺が引き取る言うたのに、勝手に連れ出して身ぃ隠してしもうて…」
「迷惑やない。あの子は迷惑なんかやないっ!
俺が一緒におりたくておんねん」
「…自分はおなごぎょうさんおるやろ?」
「あの子と出会う前のことや。今は宮中出たらちゃんと二条の家に帰っとるよ」
「あの子はまだ10やで?自分と遊ぶ年とちゃう」
「別にそういう意味で遊んだりせえへんわ。
ちゃんとしかるべき年になるまでは手ぇ出したりせえへんし…」
「…あの子はな、もともと俺の子ぉみたいなもんや。返し?」
「子どもは…いつか親元を旅立って行くもんやで?」
パシン!と、鋭い音がした。
脇息に扇を当てた音。
こんなに鋭い音をここで聞いた事はついぞなかった。
そしてこんなに冷ややかな空気も…。
「俺を抱いて、俺の子ぉみたいなあの子も抱くん?」
口調は相変わらず柔らかく、唇は笑みの形。
声を荒げるわけでも恫喝するわけでもない。
なのにひどく冷ややかで恐ろしい。
まるで今までとは別人のようなエンリケの思ってもみなかった言葉にアントーニョは凍りついた。
「今日はもう帰り」
うながされるままアントーニョは頷いて立ち上がった。
その背中に呪いのように降ってくる言葉…。
「お前はあの子を育てられへんよ…。きっとまたおなごで問題起こすやろ…」
早く…早くこの場から離れなければ、何か恐ろしいモノに捕まってしまう…。
そんなおかしな考えに捕らわれて、アントーニョは廊下を急いだ。
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