kmt 幸せ行きの薬
「先生、どうぞこちらに…」 と、普段は悠然としているしのぶがカチンコチンで上座の椅子を引く。 それに礼を言いつつ、 「ああ、お前さんはあれか、悲鳴嶼君のとこの事務所の子だな」 と笑顔を向ける桑島の表情は、弁護士会の重鎮というより、孫の友人を見る祖父の目だ。
「鱗滝さん、この度はご迷惑をおかけしております。 こちら、つまらないものですが、猫好きさん達の間で有名なお店の猫ちゃんが喜んで食べると評判の猫ちゃん用ケーキです。 成分表ももちろん明記してありますし、よろしければ猫ちゃんにと思って持参してきました」 と、最初に到着した代理人弁護士...
「私はぎゆうのお世話係してるから、気にしないでね」 とにこやかに宣言する真菰。
弁護士が訪ねて来て数日後…錆兎の巻き込まれっぷりはある意味すごかった。 本当なら冨岡義勇とはただの元隣人。 その従姉妹の角田マリとはただの隣人。 冨岡義勇の亡き父の代理人である弁護士なんて、一生相手を認識することもないくらいの人間だったはずだ。
世の中というものは全く思いも寄らぬ方へと転がっていくものである。 そんなことは、子猫になった時点で思い知っているはずなのだが、義勇もさすがにここにきてこんな形で実感させられることになるとは、思ってもみなかった。
錆兎が車に乗せるのをきっぱりと断ってくれた日の夜のこと。 毎日帰宅後はすぐ、錆兎は義勇をいったんリビングのソファに下ろすと背広からシャツとジーンズに着替えエプロンを付け、その後、
最初は朝。 しかし偶然だと思っていた。 錆兎は会社に出かけるときは必ず義勇を背広の左ポケットに入れて出社する。
──孤児の義勇、乞食のこじぎねっ 両親を亡くして5歳の時に引き取られた伯母の家の一人娘マリ。 彼女はよく義勇のことをそう言って見下していた。
人間、何が幸いするかわからないものである。 いや、すでに人間ではない身としては、この言葉はおかしいのだろうか…
「鱗滝さん、おはようございますぅ~」 錆兎が出社しようと家を出たところで、隣家の住人に声をかけられた。 錆兎の出社時間が早かったこともあり、前の住人である冨岡義勇とはあまり顔を合わせることがなかったが、その従姉妹であるこの女子大生角田マリとは実によく会う。 …というか、おそらく待...
数日後…興信所から手配していた人間の義勇の情報が届いた。 もちろん子猫のぎゆうが人間になったということではなく、ぎゆうがいたベランダの部屋の住人であった、冨岡義勇という青年のことである。
──はい、これちゃんとやってねっ!出ないと最終的にぎゆうが困るんだからねっ!! と、ある日真菰から手渡されたのは猫缶とドライフード。 そう、推定月齢3週間強。 ぎゆうもそろそろ離乳食を始める時期である。
──おかえり~、ぎゆうはいい子にしてたよ~。ミルクもいっぱい飲んだしね。 錆兎が応接室で取引先との会談を終えて大急ぎで部屋に戻ると、その間に真菰からミルクをもらってポンポンのおなかのぎゆうを真菰が抱きあげて出迎えた。
錆兎の朝はもともと遅いものではなかったが、ぎゆうを拾ってからさらに30分ほど早いものになった。 起きて顔を洗ってぎゆうのミルクを作って部屋に戻ると、ベッドの端で青い目をキラキラと期待に輝かせて待っているぎゆうを抱き上げて、手のひらに乗せて子猫用の哺乳瓶を顔に近づけてやる。 すると...
──…にゃあ…… ぽふ、ぽふ、と、頬に柔らかく温かいものが触れる。 ふわふわと心地よいが少しくすぐったいそれに錆兎がわずかばかり眉を寄せると、今度は遠慮がちにふわふわとしたものがスリスリと錆兎のこめかみのあたりに擦り付けられた。 それは目覚ましのアラームなんかよりもずっと心地よい...
鱗滝錆兎は社長である。 正確には5年前、大学を卒業と同時に祖父の経営する会社に入社。 3年の修業期間を経て、25で事業を祖父から引き継いだ。
みぃぃ…みぃぃ… 何度声をあげても口から出るのはやっぱり小さくか細い子猫のそれで、義勇はさきほどまでとは全く違う意味で途方に暮れた。 初志貫徹とばかりに飛び降りるにしたって、小さな子猫の体でははるか頭上高くなった柵まで手…もとい足が届かない。 そこで…では部屋に入ろうかと思ったら...
──本当に申し訳ないけど、もう限界なの…… と、言葉通りの申し訳なさを滲ませて義勇に言ってきた伯母は、義勇が5歳の時に亡くなった実母の姉である。 両親と姉が亡くなって以来、義勇は彼女の家に引き取られて育てられた。
彼女は優秀な科学者だった。 彼女の開発した医薬品は多くの人を死から救った。 だが、彼女が人であり神ではない以上、当然ながらすべての人を救えるわけではない。 そして…そんな彼女が救えなかった命の中に、彼女自身の愛娘の命がある。 夫が若くして事故死したあとに残された忘れ形見。 親族が...
kmt 幸せ行きの薬 目次
1_天才科学者の願い とある優秀な科学者は自身の娘が自殺したのをきっかけに、自殺するほど追い詰められた人間がすべてを捨てて逃げることによって幸せになれるようにと、薬の研究に没頭する。 そして完成した薬をこれから不幸に見舞われるかもしれないと思った一人の子どもにこっそり飲ませた。 ...