錆兎が車に乗せるのをきっぱりと断ってくれた日の夜のこと。
毎日帰宅後はすぐ、錆兎は義勇をいったんリビングのソファに下ろすと背広からシャツとジーンズに着替えエプロンを付け、その後、
と、しばらく義勇を撫でたり労わったりしてくれたあと、エプロンのポケットに義勇を入れて、自分より先に義勇のご飯を作ってくれる。
人間よりかなり鼻が良いらしいお腹がぺこぺこの子猫のぎゆうには、いつものご飯のいい匂いが漂ってきて、早く、早くと手を伸ばしたくなるが、そこはじっと我慢の子。
錆兎に余計な手間をかけてはいけないし、なにより錆兎に我慢のできるいい子だと褒められたい。
こうしてやっと出来上がった離乳食の皿を手に、ダイニングの定位置に下ろされると、さあ!お待ちかねのご飯だっ!と、義勇は目をキラキラさせて錆兎を見上げたわけなのだが、そこで無情になるチャイム。
錆兎はそれに少し迷ったように義勇に視線を向けて、──落ちたら危ないか…と、そこに一人…いや、一匹で残すのは危険だと、義勇を抱き上げていつも通りエプロンのポケットに入れると、足早に玄関に向かった。
そしてドアスコープから外を確認した錆兎は、はぁ…とため息。
──居留守は…無理だな。それに…何か情報が入ったのかもしれないしな…
と、小さくつぶやくと、靴箱の上の観葉植物の陰にある何かスイッチのようなものに手を伸ばした後、
「はい。なんでしょう?」
と、声をかける。
「あのっ、開けてくださいっ!」
と、聞き覚えのある声に、錆兎はまたため息を一つ。
ドアチェーンをかけてドアを開けた。
そうしてドアチェーン越しに伸ばされる手。
それにはタッパーの入った紙袋が握られている。
作り過ぎたから一緒に食べようというマリの言葉に、どうやら義勇の行方についての情報を期待していただけの錆兎はきっぱりと断りの言葉を述べた。
その後、ドアを閉めて家に入ってもしつこいマリに対してこれ以上うるさくするなら管理人に苦情を入れるというと、じゃあ料理だけでも置いておくからと、紙袋を錆兎の部屋のドアの前に置いて帰っていく。
伯父が名義うんぬんと言った日に義勇が行方不明になっているので、あるいは家主の許可なく勝手に住み着いているのがバレるのがまずいのかもしれない。
ともあれ、錆兎はそれも受け入れる気はないようで、迷惑だという旨のメモ書きを添えて、紙袋をマリが住み着いている義勇の名義の部屋の前に戻していた。
そうしてひと段落ついて、ポケットの中でぎゆうもどうなることかとハラハラしながら身を固くして事態を見守っていたので、安心してふぅ…と全身の力を抜いた。
そんな本当に些細なものを錆兎はしっかりとみているらしい。
「怖がりのお前を不安にさせて悪かった。
もう悪いやつは追い返したから大丈夫だぞ」
などと言う。
いや、それは違う!
義勇だって男なのだ。マリごとき…!
などと、まあ錆兎の元にいるからそんな強がりも言えるのだろうが、少しばかりの男としてのプライドが少しばかり刺激されて、”心外!!”と訴えてみたのだが、口から出てくる、にゃあにゃあという子猫の高い鳴き声では、そのあたりはさすがに伝わらなかったらしい。
義勇の不安を払しょくさせるように子猫の小さな体をだきあげて胸元に抱え込んでくれていた錆兎の指がゆっくり頭や顎を撫でてくれるのに、なんだか力が抜けて義勇はゴロゴロとのどを鳴らしてしまった。
こうなると、もうそれ以上意地を張る気もしなくなり、与えられるまま大人しく少し遅くなった夕食を摂り始める。
しかしながら…自分の夕食が終わって、錆兎が錆兎自身の夕食の準備をし始めた時にふと思った。
義勇のご飯は丁寧に手作りするくせに、自分の食事はご飯だけは炊飯器で炊いて、あとはレトルトや冷凍のプレートで済ませている錆兎に、自分が人間だったら食事が作ってやれるのに…と残念な気持ちになる。
そう、お金がなくて自分のために自宅でちゃんとした食事を作ることはなかったが、まかない目当てに飲食業でバイトすることが多かったので、義勇は人間の頃は実は料理が得意だった。
少なくとも、常に爪を長く伸ばしているマリよりは美味いものが作れると思う。
だけど、今、料理ができるのは人間であるマリの方なのだ。
義勇の猫の手では米一つ炊けない。
もしも…もしも錆兎が胃袋から落とされるような事態になったらどうしよう…。
別にマリや伯父夫婦に不幸になってくれとか思うわけではない。
贅沢を言えば義勇から離れた所で…それも無理ならせめて隣の部屋で幸せにやっていてくれる分には全く構わないのだが、この義勇がやっとたどり着いた楽園に足を踏み入れて欲しくない。
そのためならどうやらずっと養ってやっているのだからと義勇の資産をこっそり騙し取っていたことについて咎めだてもしなければ、なんなら今義勇の名義になっている財産の全てをやってもいい。
だから本当にこの場所だけは、この唯一の居場所だけは取り上げないで欲しい。
それは義勇の切実な望みだった。
0 件のコメント :
コメントを投稿