kmt 幸せ行きの薬
人間に戻って想いを伝えたい… と、その願いが叶ったのは良いが、錆兎はもういまさらだが女性の真菰にまで素っ裸を見られて恥ずか死ぬかと思った。
…あ、気づいたよ…… 誰かに抱かれている。 錆兎よりもだいぶん小さくて柔らかいその感触には覚えがあった。
普段はエレベータで1階につくとそこからは出口とは反対側にある駐車場へ向かうのだが、今日は早朝のランニング時と同じく出口の方へ。
赤ん坊…可愛かった。 小さかった、ふわふわしてた。 錆兎に似た綺麗な宍色の髪と、美人として名高かった義勇の祖母に似た愛らしい顔立ち。 あの子は確かに錆兎の子ではないのかもしれないが、自分がいなければ錆兎はあんな風に愛らしい子どもを持って幸せになれるのかもしれない。
「…接近禁止、忘れてますか?」 「忘れてませんよ。 でもマンションに押し入っているわけでもなければ、話しかけちゃダメなのはこじぎに対してで鱗滝さんに対してじゃなくて、こじぎには話しかけてないからセーフです」
こうして接近禁止も無事決まり、これでもう今日分かれたら今後マリに会うことはないだろうと心の底から安堵した義勇は、そのまま立会人の弁護士と錆兎と共に、マリの退去を手伝うことになった。
やっぱり怖い…緊張する… いったん錆兎の部屋の方に来た弁護士と今日の流れを再確認して、10時10分前に義勇は弁護士と錆兎と3人で久々に自分の部屋に足を踏み入れた。
朝… 人間になってからの義勇の朝は子猫の頃よりもさらに早い。 子猫の頃は起こすだけだったのだが、今は錆兎と自分の朝食を作ってから錆兎を起こすからだ。
そうして隣の部屋を売って錆兎と暮らすことにした義勇がまず始めなければならなかったのは、マリが置いたまま出ていった荷物の整理である。
珠世が訪ねて来て錆兎に諸々を打ち明けて、弁護士から資産の引き継ぎをしてもらって…それからは色々が怒涛だった。
「すまんな、でかくて…」 悲報!借りた錆兎の服がぶかぶかだったっ!!
「鱗滝さん、お話があります。そこに座って下さいな」 もう来てくださって結構ですと呼ばれて居間に戻るといきなり笑顔でそう言われて、正直錆兎は少しビビった。 綺麗な人だけに笑顔も美しいが、なんだかそのフレーズは叱られる時のそれのようで、緊張をする。
「ねえ鱗滝さん、30分ほどでいいからこの子と二人にして頂けないかしら? この子のことで少し集中して確認したいことがあるの。 安否が気になるようなら隣の部屋でペット用の見守りカメラか何かでみていてくださっても構わないから」
──ぎゆうはもう俺の家族なんです。 そう言った青年には珠世も見覚えがあった。 最近経済紙などでも顔を見る祖父から会社を引き継いだ若き社長だ。
一人暮らしが長くなり、テレビをつける時間が増えた。 見ているわけではない。 自分がたてる音以外に音のない生活がなんとなく物足りないだけだ。
「ぎゆう、寝てて食事遅れてごめんな」 錆兎が猫缶をもって寝室に戻ると、ぎゆうが眠たげに目を開けて、クアァァとあくびをしたあと、ゆっくりとした足取りで寄ってきた。
久々に風邪をひいた日…我ながら実に頑丈にできているものだと感心するが、一日粥を食って薬を飲んで寝て…としていたら、朝に計った時には38度あった熱が夜には平熱の36度5分に下がっていた。
数年ぶりに風邪をひいて寝込んだその日、幸せな夢を見た。 飼い猫のぎゆうが人間になって恩返しをする夢だ。
…お前が言葉が話せたらもっと楽しかったかもな… と、時折錆兎の口から洩れる言葉。 確かに義勇もそう思う。
当事者である義勇でも改めて聞くとまるでドラマのようだなと思う諸々。 つつましい生活を続けてきた貧乏学生には現実感のない大金の話。 なのに淡々と何の思い入れもなさげに話を進める弁護士達。 それと対照的にヒステリックに泣きわめくマリ。