幸せ行きの薬_30_嵐の引っ越し

珠世が訪ねて来て錆兎に諸々を打ち明けて、弁護士から資産の引き継ぎをしてもらって…それからは色々が怒涛だった。

まず錆兎の提案に従って、もう一人、真菰にだけはすべてを話しておく。
彼女は公私ともに錆兎の補佐をしてくれる信頼できる人間だから…ということだ。

実際、この荒唐無稽な話をしても、真菰はすべてを信じて受け入れてくれた。
そのあたりの驚くほどの頭の柔軟さはさすが錆兎の実の従姉である。

こうして細々したことも手伝ってもらえる味方を増やして、まず錆兎が提案したのは、伯母に捨てられるところだった義勇の荷物を部屋に戻そうということだった。

それを提案されて、本来はすべてが以前以上に戻ってくることを喜ぶところなのだろうが、義勇はなんだかとても悲しい気分になる。

ここ数週間の子猫生活はとても快適だった。
あんなに自分が誰かに愛されていると実感できる日々は二度と来ないだろう…。
それでもこれ以上錆兎に無条件に甘えて迷惑をかけるわけにはいかない…

そう心に思っただけで口には出していないのだが、頭の上から小さな笑い声と共に
「運び込む先が俺の部屋の方が良ければそれでもいいぞ?
冷蔵庫とか洗濯機とか重複する家電は諦めてもらうことになるが、それで良ければ一部屋空けてやる」
という夢のような言葉が降ってくる。
え?と義勇が驚いて上を見上げると、柔らかく微笑む藤色の瞳と視線がぶつかった。

「どうする?」
と聞かれて
「そうしたいっ」
と、即答すると、よしよしというように頭を撫でられる。

「あ…でも、できれば…」
「…子猫の頃のようにすべて一緒がいい、か?」
「うん!!」

まさかそこまでわかってもらえると思わなかった。
錆兎はすごい!すごすぎる!!


「じゃ、空けるのは部屋じゃなくてクローゼットだな。
ベッドはキングサイズだから俺のほうのを使うぞ?
書斎に使っている方を空けようと思っていたんだが、プライベートスペースが必要ないならそこにお前のデスクも運び込んで…あとは観葉植物を全部リビングに移してそこにお前の教科書その他を置くお前用の棚だな。
基本的には一つしか必要ない物はうちにある物を優先するが、思い入れのある家具とかがあれば言っておけ。
そういう物だけ運び込んで処分していい物は処分するから」

それに
「要らないっ!
錆兎と一緒に居られるなら何も要らないっ!」
と、ぎゅっと錆兎のシャツの裾をつかんで勢い込んで言う義勇に錆兎は
「…まったく…お前は子猫でも人間でもひっついているのが好きなところは変わらないな。
だが別に要るものは要ると言ってもいいんだぞ?」
と苦笑した。

「大丈夫だ。俺は拾ったからにはきちんと最後まで面倒をみる主義だからな。
今後お前の世界がどれだけ大きく広がっていっても、これからはずっと俺がお前の戻る場所だ」
と、それこそそちらの方が子猫時代から変わらぬ笑みと共に錆兎にそう告げられて、義勇は嬉しさと安堵で目の奥が熱くなる。


「…なら……」
「うん?」
「隣…手放してもいいかな…」
「ああ、お前がそれで良ければいいんじゃないか?
住まずに持っていても管理費と税金が出ていくしな。
広いが駅近と言うほどでもないから、住むには良いが資産運用にとても適しているとはいいがたいしな」

錆兎がマンションを処分したいという義勇の言葉にそんな風に答えるが、義勇にしたらもう資産運用とか正直どうでもいい。

たぶん…前回人間になってから子猫に戻ったように、一度子猫になるまでのハードルは高いがその後は割と自分の意志で子猫に戻れるようなので、いざとなったらそれこそ子猫になって今までのように暮らせばいいのだと思う。

それでもマンションを処分したい理由はただ一つ。
そこに空き部屋を作っておくと、またマリが転がり込んできかねないからだ。

子猫でいる間も十分怖かったが、こうして今人間に戻っている状況で彼女に会うのは怖すぎる。

以前に錆兎が知人の弁護士を呼んでの話し合いと情報のすり合わせをした時に錆兎の知り合いの女性弁護士が言っていたことを信じるなら、伯父たちがいなくなったあと、自宅を含めた伯父の資産を処分して残る金額は多くても2,3千万。
その金額でこのマンションを購入するのは不可能なので、彼女が割り込む余地のある従兄である義勇の部屋を売ってしまえば、彼女がこのマンション内に住み着く可能性は完全になくなるだろう。

不動産という意味で言うと義勇には珠世のマンションの隣に建つ実家の一軒家が残っているし、錆兎の部屋から大学に通えるなら隣の部屋がなくなっても全く問題がないどころか、問題が起きる可能性を排除できるのだ。


本来は子どもの頃に与えられるはずだった保護。
それを与えられないまま不安感を強く持って育ってしまった義勇にとって、恐ろしい相手が近づいてこないこと、そして心の底から自分に好意を持って守ってくれる錆兎のすぐそばに居られること…これが財産も名誉も要らない、何より幸せになれる要因なのである。


──…錆兎……

とりあえずこれからどうするかをほぼ決めて、実際に動くのは明日ということで話し合いを終えたあと、義勇は

──疲れたぁ…ちょっと猫に戻って一休みしていい?
と言うと返事も聞かずに子猫に戻る。

いや、正確には戻るのは人間に、そして子猫には変わるとか化けるというのが正しいのだろうが…
しかし錆兎と出会ったのは子猫の姿でなので、なんとなく錆兎との関係は子猫での方が長いのもあって、”戻る”というのがしっくりくる。

そうして子猫の姿になってソファに並んで座っていた錆兎の膝にぽてん!と前足をかけて飛び乗ろうとワタワタしていると、錆兎が笑って抱き上げて膝にのせて撫でてくれた。

本来なら子ども時代にたくさん与えられるはずだったスキンシップを子猫で甘えることで思い切り享受する。

「いまに人間の姿でも当たり前に甘えられるくらいにしてやるから…」
人間の時は虐げられすぎてリラックスできない義勇の気持ちをわかってくれて、錆兎はそう言いつつ今はとりあえず…と、子猫のぎゆうの小さな頭や顎の下を指先で撫でてくれた。

そんな錆兎の手の感触が心地よすぎて、実際そう遠くない未来にはそうなっているんだろうな…と確信しながら、ぎゆうはゴロゴロとのどを鳴らすのであった。



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