幸せ行きの薬_35_赤ん坊

「…接近禁止、忘れてますか?」
「忘れてませんよ。
でもマンションに押し入っているわけでもなければ、話しかけちゃダメなのはこじぎに対してで鱗滝さんに対してじゃなくて、こじぎには話しかけてないからセーフです」


あの騒動から約1年が経っていた。
義勇との二人での生活にも慣れてきて、最近は早朝に二人でジョギングをするのが日課になっている。

その日も早起きな義勇が朝食の下ごしらえを終えたあと、二人そろって色違いでおそろいのジャージにスニーカーを履いて、いつもと同じ30分ほどのジョギングコースを走って、ちょうど折り返し地点になる公園を一周していた時だった。

──鱗滝さんっ
と、かけられた声は忘れもしない、あれほど揉めて1200万以上という小さくはない額の横領金の返還を放棄してようやく疎遠になれた義勇の従妹のものである。


彼女の現状を考えればもう絶対に近づいてくることはないと思っていたので錆兎も義勇もすごく驚いた。

そして錆兎が彼女の呼びかけに対して口にして、それにさらに返ってきたのが冒頭の言葉だ。

詭弁だ!と怒鳴りつけたいところではあるのだが、彼女にしてもそれが通らぬかもしれないというリスクがあることは承知のうえの行動だろう。

両親が服役中で収入のない今の彼女の命綱ともいえる横領金を失うリスクを冒してまで訪ねてきた理由は何なのか…

そもそもが公園で待ち伏せていた彼女は一人ではなかった。
なぜか赤ん坊を抱いている。

とりあえずこうして待ち伏せられたことについては今後の安全を考えればやはり気になるので、錆兎は後ろに義勇をかばうようにして、
「それで?何の用ですか?」
と、いらだちを抑えつつ彼女に尋ねた。

その言葉にマリは満面の笑みを浮かべた。
そしてアフガンにくるまれた赤ん坊を錆兎の方へと差し出してくる。

「この子…あたしたちの子どもですっ。
子どもは認知して、あたしとは籍入れてくださいねっ。
親子3人で幸せに暮らしましょうっ!」

「はあ???」


ありえない。もちろんありえない。
この1年の間、そういう関係を持つどころかマリに会ったこともない。

しかし彼女が差し出してきた赤ん坊はなんとふわふわとした宍色の髪をしていて、顔立ちはマリというよりどこか義勇に似ている。
義勇は本人が母方の祖母似だと言っていたので、母方の従妹の子が従妹の祖母に似ていたとしても不思議ではないだろう。
とどのつまりは錆兎に似た宍色の髪と、義勇の母方の家系の顔立ちをした赤ん坊ということだ。

その事実に後ろに匿われている義勇が不安気にぎゅっと錆兎のジャージの裾を握り締める。

それに錆兎は小声で
「一応言っておくとな、お前が大学で授業を受けている時間は俺はずっと会社で仕事をしているし、休日は24時間お前と一緒だから、当たり前だがあれが俺の子とかはありえないからな?
会社内に居る時は俺は分単位で真菰に管理されているから、不安なら真菰に確認してみろ」
と言ってやる。
すると後ろでホッと力が抜ける気配がした。

それでそちらはOKと判断。
錆兎はとりあえずマリの対応に戻る。

「私はあの話し合いの時以来、あなたには会っていないはずですが?」

「会ったじゃないですか。覚えてないんですか?
あの時、交わした愛の結晶がこの子です」

「あなたに対して交わす愛はないし、あの時っていつのことです?
私のスケジュールは日中は秘書に分単位で管理されているし、それ以外の時間はずっと義勇と一緒で、それこそ分単位くらいの時間しか一人になることがないのでありえません」

「あの時はあの時よっ!!
現にこの子は産まれてるでしょっ!!」

「…あなたの子どもが産まれるのと、それが私の子であるということは別の問題でしょう?
この世に男が私しか存在しない世界ならとにかくとして、別の男と子どもをつくって産むことは可能ですから。
なんならDNA鑑定をしますか?
きちんとした形でDNA鑑定をして私の子だと認められたなら、認知を考えなくもないが、それとあなたとの結婚はまた別問題ですよ」

「DNA鑑定なんかしなくても、これは鱗滝さんの子よっ!!」

「私は覚えがない、あなたは俺の子だという。
双方意見が食い違っているなら、きちんとした形で調べて立証するべきでしょう?」

「調べなくても絶対にあなたの子だからっ!!!」
そうヒステリックに叫ぶと、マリは赤ん坊を抱えて走り去った。


「…錆兎……」
と、それを見送って不安げに自分を見上げてくる義勇に、錆兎は苦笑。

「一応真菰に調べさせておくからそんな心配そうな顔をするな。
俺の子であることはまずないから」
「…うん……」
「さ、行くぞ。
思いがけず時間を食ったから、せっかくの休日なんだし早く帰って飯食ってゆっくりするぞ」
「…うん、そうだな」

そう言って二人でまたジョギングを続ける。
そうして帰宅すると、錆兎は真菰にメールをいれて、義勇が作った朝食をいつもの通り一緒に食べた。



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