…お前が言葉が話せたらもっと楽しかったかもな…
と、時折錆兎の口から洩れる言葉。
確かに義勇もそう思う。
これが、そうだね、とか、そうそう、あの時は…とか、そんな風に相槌をうったり、さらに会話を広げたりできれば、今も楽しいがさらにもっと楽しくなるだろう、
だから最近たまにだが、人間に戻ってみたいな…と思う瞬間はある。
人間に戻って錆兎に美味しいご飯を作って喜んでもらったり、楽しく会話をしたりとか、そんな生活ができたなら…と思う時はあるのだが、一方で、人間時代には辛い思い出しかないので、あの辛い時代に戻ってしまったら…と思うと、幸せな子猫のままでいいと思う自分もいる。
そんなことをウダウダ悩みながらいたある日のこと、錆兎が風邪をひいた。
朝、いつものようにぎゆうが頭をすりつけたら、なんだか錆兎が熱い。
それでも目を覚ました錆兎は自分でも体調不良に気づいたらしい。
即熱を測って38度あることに気づくと、
…あ~、このところ忙しくて体力落ちてたかな…
と、ケホケホやりながら真菰に電話を入れていた。
「…あ~、真菰、今日は特に来客とか打ち合わせとかなかったよな?
…うん、なんか熱が出た。38度。
なあ、俺の風邪がぎゆうにうつることってないよな?
あ~良かった。
じゃ、まあ水分取って粥でも食って薬飲んで寝とく。
連絡事項とか諸々頼むな?
ああ、来てくれなくても大丈夫だ。レトルトの粥とか買ってあるから、うん」
自分の体調や食事よりもぎゆうにうつらないかを心配するあたりが、錆兎は本当に自分のことが好きだなぁと、長年の伯父一家の虐待で自己評価がすっかり低くなった義勇ですらそう思う。
ああ…看病がしたい。
大したことはできないが、冷たいタオルや粥を用意したりできたらいいのに…と思う。
しかし子猫の身の上では看病をするどころか、病人の錆兎に
「今日は猫缶でごめんな」
などと言われて、逆に自分の世話をやかれてしまうのだ。
本当に情けない。
ぎゆうはこの時初めて真剣に人間に戻りたいと思った。
錆兎はまずぎゆうのために猫缶をあけて食べさせてくれて、それからレンジでレトルトの粥を温めて食べる。
そうして薬を飲むと、そのまま倒れこむようにベッドに戻った。
今日はぎゆうもベッドに乗ったまま眠る錆兎に寄り添っていたが、時間が経つにつれて窓から差し込む日差しに錆兎が眠ったまま少し眩し気に眉を顰めるのに、せめてカーテンを閉じてやれればと思ったのだが、子猫の身ではベッドを降りることもできないので、カーテンまでたどり着かない。
何度も降りようと試みたが、高さ的に怪我をしてかえって錆兎に迷惑をかけそうだ。
ああ、人間に戻りたい…
切実にそう思った時だった。
ベッドの端からずるっと足を滑らせて、まずい!と身を固くした義勇だったが、なぜかそこで世界が小さくなる。
…いや、自分が大きくなったのだ。
一瞬呆然として、それから自分の両手に視線を向ける。
今までのふわふわの黒い毛の小さな前足ではなく、男にしてはやや小さめの肌色の両手。
人間に戻ったのか…と気づいた瞬間、自分が素っ裸なことに気づいた。
子猫になった時の服はおそらく風に飛ばされてしまっているし、そのほかの服はおそらく錆兎の会社の倉庫の中だろう。
子猫のぎゆうは錆兎に同居人として認められているが、人間の義勇はそれこそ錆兎がマリに口を酸っぱくして言っていたようにただの隣人だ。
まずい…このままではおかしな全裸の不法侵入者になってしまう。
しかたがないので、義勇はかつて知ったる錆兎のクローゼットの中から、シンプルな黒いシャツを引っ張り出して貸してもらうことにする。
下はどうしようかと思ったが、義勇にはやや大きめのそれは、太ももくらいまで覆ってくれるので、あとは錆兎が目覚めて許可を取ってから…と、とりあえず今はそれだけにする。
そうしてずっとしたかったようにカーテンを引いて錆兎が眩しそうだった日差しを遮ると、追い出される前に…とキッチンに向かって、白粥だけでは飽きるだろうと、冷凍にずいぶんと入れっぱなしのような冷凍野菜や鶏肉、冷蔵庫の根菜、缶詰などを使って、鶏出汁の中華風粥や野菜のリゾット、味噌味のおじや、その他常備菜などを作って、レンチンすればいいように1食ずつジップロックに入れて冷凍庫へ。
その後、洗面器に氷水とタオルを入れて寝室に戻ると、錆兎が半身起こして、自分のことを探していた。
「ぎゆうっ、ぎゆうっ?!!」
と、必死な形相であたりを見回しているので、つい、にゃあ、と、返事をしてみると、驚いたように振り向いた錆兎は義勇をみて固まっている。
どうしよう…これ…自分が子猫のぎゆうだなんて言っても、頭のおかしい不法侵入者だよな…と、泣きそうになりながら、思わず…
──え~っと…俺はぎゆうで……猫の恩返しだと思ってもらえると……
と、自分でも無茶な設定だと思いながら言うと、錆兎はぽかんと口を開けて呆けたが、すぐにふはっと噴出した。
「あ~、そうか。久々に熱出して夢を見てるのか。
なんだか楽しい夢だな。
おいで、ぎゆう」
と、いつもの笑顔で両手を差し伸べてくれる。
何も根本的な解決にはなっていないのだが、そう言われると脊髄反射で行ってしまう。
テチテチと歩み寄ってベッドわきのテーブルに洗面器を置き、そのまま撫でやすいようにベッドのわきに膝をつくと、錆兎は子猫の時のように、よしよしと頭をなでてくれた。
それに安心して
「えっと…日差しが眩しそうにしてたから…カーテンを閉めてあげたいって思ったんだ…。
でも、子猫のままだとベッドから降りれないから…」
と言うと、夢だと思っているらしい錆兎はそれに全く違和感を感じないらしい。
「そうか。
それでついでに冷たいタオルを用意してくれたんだな。
ありがとな」
と、またわしゃわしゃと頭を撫でて言った。
「うん…あと、ご飯も作っておいたっ。
レンチンするだけでいいように1食ずつ冷凍庫にいれてあるから」
と、そういうと、
「お前は本当に優しい良い子だな。ありがとな」
と、子猫の時のように褒めてくれる。
しかし次の瞬間、
「じきに覚めてしまう夢だが、なかなか面白いものだ。
今は人間になったお前との時間を堪能しようか…」
と笑う錆兎に、はっと思った。
そうだ、これが夢だと思うから錆兎も信じてくれるし受け入れてくれているが、現実だとわかったら義勇はただの見知らぬ隣人、おかしな不法侵入者だ。
そうしたらマリの時のように、迷惑だと錆兎に冷たい目で見られるんだろうか…
そんなの嫌だっ!
錆兎に嫌われるくらいなら死んだ方がいい!!
………
………
………
…にゃあ……
ぽふん!と、また体が縮まった。
ベッドがとても高くなって、さっきまで頭に触れていた錆兎の手がすごく遠い。
それに錆兎も呆然としている。
「俺の夢なのに思い通りにはいかないんだな。
お前と会話を楽しもうと思ったのに…」
と少し残念そうに眉尻を下げて、しかしいったんベッドから出て床にいる子猫のぎゆうを抱き上げると、錆兎はまたベッドに戻った。
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