幸せ行きの薬_13_つきまとい

最初は朝。
しかし偶然だと思っていた。

錆兎は会社に出かけるときは必ず義勇を背広の左ポケットに入れて出社する。

まあじきにぎゆうも大きくなるだろうから、ポケットに入らなくなったらぎゆう用のショルダーかウェストポーチでも用意するか…
などと言いつつも、今はまだ入るのでポケット。

電車だとさすがにゲージに入れずに猫連れはまずいかもしれないが、幸いにして錆兎は車通勤なのでそれで全く問題はない。

自宅にいる時には義勇の定位置であるエプロンのポケットから義勇を背広のポケットに移すと、錆兎は軽く戸締りと火の元を確認して外に出る。

その日もそんな当たり前の朝だったはずなのだが、その当たり前の空気を破ったのは、
「鱗滝さん、おはようございますぅ~」
という従姉妹マリの声だった。

その時点で嫌な予感がした。

錆兎はとてもかっこいいし、何より社長だ。
マリが好きにならないはずがない。

そしてマリの方はというと、自分が気に入った相手には大変愛想がいい。
容姿も幼い頃は特別に美少女というわけではなかったが、いつも可愛い服を着て可愛く着飾っていたし、中学卒業と共にこのマンションに越してから会っていなかったが、今では化粧をしているのか随分と顔立ちが変わって綺麗になっている。

少なくとも…錆兎だって猫よりは若い女の方がいいんじゃないだろうか…。
そう思うと不安になった。

もしマリが猛プッシュしてきて、錆兎がマリと付き合うようになったなら…また殴られたり蹴られたりするのだろうか…。
と、あの辛い記憶が蘇って義勇は錆兎の背広のポケットの中で硬直するが、錆兎は愛想よく挨拶をするマリに
「おはようございます」
と非常にあっさりした挨拶を返すのみで、ちゃっちゃとエレベータに向かって歩きだした。

挨拶をきっかけに盛り上がるどころか、実に冷淡ともいえるような箸にも棒にも掛からないような反応にマリは唖然とし、義勇はホッとする。


会話をするどころか立ちすくむマリを待つこともなく、錆兎はちゃっちゃとエレベータに乗り込んで閉じるボタンを押した。

閉まる扉。
そのまま下に降りていくエレベータ。

それが一階にたどり着く間、錆兎は
「人見知りか?
それとも香水の匂いがきつくて辛かったとかか?
猫が苦手な柑橘系の香水だったしな」
と、宥めるように頭を撫でてくれる。

なんと義勇が緊張していたことに気づいてくれていたらしい。

その理由は別に匂いではなかったのだが、まあそのあたりはよもや彼女に昔からいじめられていた冨岡義勇が今こうして子猫になって自分のポケットにいるのだなんて想像もしていないだろうから、わからなくても仕方がない。

それでも綺麗な若い女より、ただの猫の自分を優先してくれた錆兎の思いやりはすごく嬉しかった。


こうして若い女性に対する態度にしては随分と冷淡に返したため、もうマリがかかわってくることはないだろうと安堵したわけなのだが、義勇が思っていたより彼女はずっと懲りない性格だったようである。

次の朝も錆兎が出社する時間に合わせて家を出たようだ。
義勇も高校、大学とこのマンションに住んでいて一度も顔を合わせることがなかったくらいには、錆兎の出社時間は早い。

忙しい人であるというのもあるが、それ以上に朝型人間な彼は、仕事上の約束がある日以外は朝早く出社してその分夜はそこそこの時間で切り上げる主義らしい。

だから普通にしていれば連日かち合うことなどまずない。
マリはわざわざ錆兎が家を出るのをチェックしているに違いない。


こうして、初日は驚きに立ちすくんでいたが、翌日からは廊下を並んで歩いて同じエレベータに乗ってきた。
そして一方的にニコニコと色々話しかけてくる。


…あんたみたいに暗い人間、気持ち悪い。

日々義勇をそう罵ってきただけあって、マリは親しくない人間にでもにこやかに話すことができる。
世の中では義勇のように人見知りではなく、マリのように明るい人間の方が好かれるし選ばれるのだと言われ続けてきた義勇は、そんな風に明るく笑顔で錆兎に言い寄ってくるマリが恐ろしくてたまらない。

今は錆兎はマリのことを相手にしていないようだが、もしほだされてしまったらどうしよう…。
錆兎の家にマリが出入りするようになったら…と思うと、震えが止まらない。


そんな義勇の不安と怯えを、正確な理由はわからないまでも錆兎は感じ取ってくれているらしいのは幸いだ。

今朝も、猫だけじゃなく動物全般が嫌いなマリがそれでも錆兎の機嫌を取ろうと思ったのだろう。
義勇のことを、可愛いですね、と、撫でようとすると、褒めてくれたことには礼儀として礼を言いながらも、人見知りだから触れないでくれと、伸ばされたマリの手が義勇に触れる前にさりげなく防いでくれた。

その日はそれだけでなく、駅まで送ってほしいと駐車場までついてきたが、それに関しても、よほど親しい間柄でないと乗せない主義だから、と、錆兎は当たり前に断る。
その自分のプライベートには一歩も入れないという錆兎の姿勢に義勇は心から安堵した。


錆兎は社長をやるくらいだからとても堂々としていて人当たりもいいのだが、マリに対する態度を見ているとそれは公の部分であって、プライベートでは他人に踏み込まれるのが嫌いな性格なのかもしれないが…。

そう考えると、錆兎が義勇を引き取ってくれたのは、義勇が保護を必要としている子猫だったからで、もしも人間の頃に会っていたら、ただの隣人で終わってしまっていたのかもしれない。
それなら子猫の姿で出会ってよかったな…と、義勇はしみじみと思ったのであった。


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