──孤児の義勇、乞食のこじぎねっ
両親を亡くして5歳の時に引き取られた伯母の家の一人娘マリ。
彼女はよく義勇のことをそう言って見下していた。
私の言うことなんでも聞かなくちゃダメなのよっ!」
と、彼女の宿題をやったりするのは当たり前。
それを間違えていたらぶたれたし、それで泣いたら乞食のくせにうっとおしいと蹴っ飛ばされた。
伯父もよく義勇をバカにしたり怒鳴ったりはしていたが、大人の男の力で殴る蹴るをすればさすがに怪我をするし、そうなれば世間体がとてもよろしくないので身体的な暴力は行わなかった。
だから伯父が怒鳴りつけてくる時はひたすら心を無にして謝り続けていれば時間が苦難を流してくれたので、家の中ではマリが一番怖かった記憶がある。
心の痛みも体の痛みも慣れることはなかったが、少なくとも心は閉ざすことで守れても、体の痛みは傷つけられたところがジクジクと痛み続けた。
そうして中学を卒業して、高校になってこのマンションに住むようになってからは、バイトは辛かったし、そんな思いをして稼いでも費やせる時間ともらえるお金は少なかったのでマンションの管理費や光熱費を差し引いて残るお金は本当にわずかで、いつもひもじい思いをしていたが、それでも家に帰ると怒鳴られることも殴られることもなくて、天国のようだと思ったものだった。
そんななか、その本当にささやかな天国を取り上げられることになって、途方にくれて本当の天国に行こうとしたところに、なぜか今の子猫の姿になってしまったわけだが……
子猫になってからは本当に毎日が幸せで、それまでの辛い日々など遠く消えてしまったように思っていたのだが、そう都合よくはいかなかったらしい。
なんと隣の元義勇の家だった部屋にマリが越して来たのである。
そういえばあの日伯母が訪ねてきた時に、彼女が大学に通うのにここから通いたいから出て行ってくれという話をされたんだった。
もう子猫になったのだから義勇があの部屋で暮らすことはないのだし、部屋を明け渡すのは構わないのだが、義勇の私物はどうなったのだろうか…と、それは少し気になる。
資産価値のあるものはすべて伯父と伯母が持って行ってしまったが、あの部屋には亡くなった家族の写真だとか、金で買えない、しかし義勇には大切な価値のある物がわずかばかり残っていた。
それらを含めておそらく全て処分されてしまったのだろうと思うと、すごく胸が痛む。
それでも子猫である義勇にはどうすることもできない。
マリが隣に引っ越してきたことを知った日に、そんなことを思って沈み込んでいると、錆兎が当たり前に心配してくれて、いつもは栄養が偏るから日に一本と決めているチュールを特別にもう1本くれた。
言葉も話せない子猫になっているのに、ちゃんと義勇が落ち込んでいることに気づいてくれる錆兎はすごいと思う。
ああ…そうだ。
自分は子猫になってしまったのだから、よしんば写真を取り返せたとしたってどうすることもできないのだから、家族の思い出は心の中に…そして未来はこの優しい飼い主と生きていくべきなんだ…と、その時義勇は少しの切なさと大きな安堵の中でそんなことを思ったのだった。
錆兎が居てくれればすべてに耐えられる…と、義勇は思う。
言葉が通じる人間であっても言葉も心も通じ合えなかった伯母の家の人達と違い、錆兎は言葉にできない義勇の気持ちをちゃんと考えてくれるのだ。
だから少しくらいの悲しさには目をつぶるしかない。
にゃあ…
と、エプロンのポケットの中から呼びかければ、義勇の食事を終えさせて今度は自分のための食事を用意している錆兎が手と火を止めて、
──ん?なんだ?まだ何か悲しいことがあるのか?
と、しっかりと義勇に視線を向けて頭を撫でてくれる。
ああ…幸せだ…でも幸せなんだ…
と、そんな錆兎の対応になんだか実感できてしまって、すりりとその手に頭をこすりつけると、
──なんだ、甘えたかっただけか?お前は本当にかわいいな。
と、錆兎が笑顔を向けてくれて、ふんわりと心のうちにともった幸せの灯がほわっとさらに大きくなった。
しかし隣に巻き起こった恐ろしい嵐はそのまま消えてくれることはなく、その後も義勇の周りを吹き荒れることになるのである。
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