幸せ行きの薬_3_子猫の体験

みぃぃ…みぃぃ…

何度声をあげても口から出るのはやっぱり小さくか細い子猫のそれで、義勇はさきほどまでとは全く違う意味で途方に暮れた。

初志貫徹とばかりに飛び降りるにしたって、小さな子猫の体でははるか頭上高くなった柵まで手…もとい足が届かない。

そこで…では部屋に入ろうかと思ったら、今度は人間の時であれば当たり前に開けられたガラス戸に行く手を阻まれた。


最悪だ…
ベランダに閉じ込められた。

さらに悪いことに雨まで降ってきて、子猫の体温を急速に奪っていく。
寒い…

確かにこのままいたら凍死という形で目的を達成できそうではあるが、そこに至るまでが辛すぎだ。
死ぬならすっきり楽に死にたい。
じわじわと寒く辛い思いなんかして死にたくはない。

それでもちっちゃな子猫の体ではどうすることもできなくて、ひたすらに、みぃぃ、みぃぃとか細い声をあげていると、隣のベランダの戸がガラガラっと開いた。


「あ~、遅かったか…」
と、そこから飛び出して来たのは、隣に住んでる若いリーマンだ。

いや、でも、このマンションは賃貸ではなく分譲なので、義勇のように親が買ったものとかでなく自分で買っているなら、若くは見えてもそこそこの年なのかもしれないが…

まあ年齢が若いかそうでないかはいいとして、彼はどうやら雨に気づいて干していた洗濯物を取り込むためにベランダに出てきたらしい。
そして、隣の部屋のベランダで、か細い鳴き声をあげる義勇に気づいてくれたようだ。
お?という顔をして、それから隔て板の向こうから覗き込むようにこちらを見る。

「…お前…隣の家の子か?
ご主人はどうした?」
と言いつつ、湿った洗濯物を手に少し困ったような顔をして引っ込んでしまう。


ああ、行ってしまった…と、再び閉まる隣の家のガラス戸の音に、義勇はしょぼしょぼとうつむいた。

しかし彼は義勇を放置するつもりではなかったようだ。
それからすぐ玄関のチャイムが鳴る。
しかし家主の義勇は今子猫で部屋に入ることもできずにここにいるので、二度三度鳴らされたあとにチャイムの音もやんだ。

ああ…これでこのまま凍死確定か…と、なんだか悲しい気持ちで少しでも温かく…と、体を丸めて暖をとろうとした義勇だったが、なんと隣人はあきらめずにいてくれたらしい。

──お~い、お前…寒いだろう?
と、再度隣のベランダから声がかかって、なんと隔て板から外側に回り込むように身を乗り出した隣人が長い柄のついた網を伸ばしてきた。

これは…助けてもらえるのでは?
と、義勇が即網に駈け寄って自分から中に入ると、彼は

「おお~、お前ちゃんとわかってるんだな。賢いぞ」
と、嬉しそうに言って、義勇を落とさないように気を付けて網を自分のベランダの方へと引き寄せる。

体の小さな子猫だったのが幸いした。
網は義勇が入っていても危なげなく、柵の外側を通る時だけ少しヒヤヒヤしたが、無事隣の家のベランダに到着した。

「よしよし、寒かったよな。
ご主人が戻るまでうちで温まっていればいい」
と、隣人は大きな温かい手で義勇を網から出して、用意していてくれたのだろう、ふわふわの温かいタオルにくるんで濡れてぺしゃんこになった義勇の黒い毛並みを丁寧に拭いてくれる。

冷たい雨が柔らかいタオルに吸い取られると、次は洗面所に。

「どうしても怖かったら仕方ないけど、一度ちゃんと洗おうな?」
と、優しく声をかけながら、人肌ほどの湯を張った洗面所に義勇をタオルにくるんだまま、最初は足先だけゆっくりつけて洗ってくれる。

そうして様子を見ながら少しずつ体も湯の中へ。

本当の猫なら嫌がるのかもしれないが、義勇は元人間だ。
温かい湯が気持ちよくて、すっかりリラックスしていると、

「ああ、お前、もしかしてずっと飼われているから湯に慣れているのか…。
じゃあ、温まりがてら少し体も洗わせてもらうな?」
と、泡立てた石鹸で丁寧に毛並みを撫でるように洗われて、心地よさにゴロゴロとのどが鳴ってしまう。

それに
「根っからの室内飼いなんだな。
今回は何故ベランダに居たのかわからないが、災難だったな」
と、上から小さく笑みが降ってきた。

こうして全身を綺麗に綺麗に洗われて、さきほどまで包まれていたのとは別の新しいタオルで拭かれたあと、今度は丁寧にドライヤーで毛を乾かしがてらブラッシングされると、子猫になっているので体力が低下しているのだろうか…。

疲れと心地よさで猛烈に眠くなってきて、義勇はコトンと眠りに落ちてしまった。


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