幸せ行きの薬_4_子猫を拾った休日のこと

鱗滝錆兎は社長である。

正確には5年前、大学を卒業と同時に祖父の経営する会社に入社。
3年の修業期間を経て、25で事業を祖父から引き継いだ。

親は祖父の跡は継がず海外で仕事をしていて、その代わりに錆兎は幼少時から祖父の事業を継ぐべく、祖父に引き取られて養育される。

それでも祖父は祖父で、もし錆兎が望まないなら、別に跡を継がなくてもいいとは常々言っていた。
が、祖父の背中を見て育ってきた錆兎はやはり祖父の跡を継ぎたいという気持ちがあったので、それを目指して学んできて、無事引継ぎが終わって現在という感じである。

もちろん錆兎もまだ若いので、祖父もまだ完全に手を引いたわけではなく、会長として一歩引きながらも見守っていてくれて、そのもとでまだまだ修行中というのが正しい。

なので覚えること学ぶことが多くてとても忙しい。

それでもけじめとして社会人になると同時に祖父の家を出て、大学生時代に経済の勉強がてら始めた株でたまたま手にした大金をつぎ込んで買ったこのマンションで一人暮らしを始めた。

実家では使用人に任せっきりだったので家事は得意とは言えなかったが、幸い現代では優れた家電が多数ある。

米は炊飯器に放り込んでスイッチ一つで炊けるし、おかずは電子レンジがあれば買ってきたものを温めればいい。
洗濯は普段着や下着は洗剤と共に乾燥機付きの洗濯機に放り込めばボタン一つだし、ワイシャツはクリーニング。
ややしわになりやすいものは脱水の時点で取り出してしわを伸ばすように干すか、あるいは軽くアイロンをかける。

普段は寝に帰るだけの部屋なので、それほど散らかることもなく、掃除は軽く掃除機をかけるだけで済むし、あまり家事に時間をかけることはない。

ただ、しわになる洗濯物だけは平日は帰宅が夜になるため、ほかの洗濯物と別にして休日にまとめて洗濯をして干すことにしていた。

今日は休日だったので、朝から綿のシャツなどの洗濯をするため洗濯機をまわす。

薄曇りだったので、降らないといいなと思いつつベランダに洗濯物を干して、そのまま久々に換気扇シートを変えたり窓を拭いたりと、普段より少しだけ丁寧に掃除をして、ふと窓の外を見て気づいた。

雨が降っている。

やばいっ…と慌てて洗濯物を抱え込むも、しっとりと濡れていて、ああ、洗い直しか、これは…とがっかりしつつ部屋に入ろうとすると、どこからか、みぃぃ…とか細い鳴き声が聞こえた。

おかしい…と思う。
だってここは5階だ。
何故猫の鳴き声がする??

壁は普通に厚いので室内で飼っているペットの声なら聞こえないだろう。

…とすると…?
錆兎は声の聞こえる方の隣のベランダを、隔て板から身を乗り出すようにして覗き込んだ。

そしてそこに生まれてそう日も経っていないであろうくらいには小さい子猫が鳴いているのが見える。

綺麗な漆黒の子猫で、本来はふわふわであろうその毛が雨に濡れてびったりと体にはりついてしまっているせいか、随分と小さく儚く見える。
いや、プルプルと震えながら、みゃあ、みゃあ、と、か細く鳴くこの小さな生き物は、実際、弱く儚いだろうし、放置すれば簡単に死んでしまうだろう。

それを放っておくこともできずに錆兎は即室内に取って返すと濡れた洗濯物を床に放り投げ、廊下側から外へ出た。

そして隣の家のチャイムを鳴らす。

何故あんな子猫が一匹でベランダに居るのかはわからないが、あるいは子猫が出たがったため日向ぼっこでもと思って外にだしたまま忘れているのかもしれない。

そう思ったわけなのだが、2回3回とチャイムを鳴らしても反応がないということは、留守なのだろう。

しかしいつ帰ってくるかもわからない飼い主を待っていたら、下手をすれば子猫が死んでしまう。
と、そこで錆兎は焦る気持ちを押さえつけながら、必死に考えた。

とりあえず自分の家で保護するか…
そう思って錆兎はまた自宅へ戻る。

隣の家とは隔て板で仕切られているのだが、ここが5階なのを考えるとベランダの手すりを外側から乗り越えて隣の家のベランダに移動するのはさすがに危険すぎる。

さて、どうするか…と悩んでいたが、ふと部屋の隅においたまま片づけ忘れていたラクロスのスティックが目に入った。

そうだ…これで子猫をすくいあげるか……

子猫はこちらの方に居たので、体を目いっぱい乗り出せばぎりぎり届くかもしれない。
怯えて逃げられたらそれまでだが、やってみる価値はある。

即断即決、善は急げな性格の錆兎は、思いついた瞬間にスティックを手に取って再度ベランダへ。

移動していなければいいが…と思って隣家のベランダを覗くと、子猫はまだ同じ場所でプルプル震えていた。

──お~い、お前…寒いだろう?
と、声をかけると、小さな体を丸めてプルプル震えていた子猫が顔をあげて、まんまるの青い目で錆兎を見上げてくる。

いまだ…と、錆兎は驚かせないようにゆっくりとスティックを子猫に向かって伸ばした。
するとこの子猫は随分と賢いようで、錆兎の意図を察したかのようにパフっとスティックに小さな前足をかけると、ぽてぽてとやや苦労しながらも自分から中に入ってくれる。

思ったよりも順調に行きそうな救出劇に思わず頬を緩ませながら、錆兎はそれでも子猫を怯えさせないように
「おお~、お前ちゃんとわかってるんだな。賢いぞ」
と、柔らかく声をかけてやりながら、細心の注意を払ってスティックをこちらに引き寄せて、子猫を回収した。

弱っているのか元々大人しい個体なのか、スティックの中から錆兎が小さな体を抱き上げても、子猫は特に抵抗する様子もなく、大人しく身を預けている。

ただそう長い時間ではないはずなのだが、まだ小さい赤ん坊が冷え切るには十分すぎる時間を雨に打たれて過ごしていたせいか、プルプルと震える体は冷え切っている。

なので、錆兎は子猫を抱きかかえて部屋に戻ると、まずは乾燥機から出したばかりでふかふか温かいタオルでその体を包んで、丁寧に拭いてやった。

その後、できればぬるま湯につけて温めがてら洗ってやりたかったのだが、水を嫌う猫というのは多いし、知らない人間の家にいきなり連れてこられて緊張もするかもしれないとも思う。

だから反応を見つつと思って、その方が安心するだろうしタオルで全身を包んだまま洗面所へ。
そして注意深く温度をみながら洗面所に湯を張って、まずは汚れた足先を湯につけて洗ってやった。

子猫はそれでも抵抗する様子はない。
なので徐々に体もつけていくが、子猫は本当に抵抗しない。
…というか、風呂が好きらしい。

泡立てた石鹸で体を洗ってやると、気持ちよさそうにゴロゴロとのどを鳴らして錆兎の手にぺたりと身を摺り寄せる。

これは可愛い…
抵抗しないのは緊張しているとか弱っているとかではなく、大切に育てられて人慣れをしているからなのかもしれない。

体を洗い終わって湯からあげて、タオルで簡単に水気をふき取ったあと、ブラッシングをしながらドライヤーをかけても、怯える様子もなく心地よさそうに目を細めている子猫の愛らしさときたら、プライスレスだ。

濡れてぺたんこになっていた黒い毛が乾いてふわっふわになったので錆兎がドライヤーの電源を切った時には、こんなにうるさい音がしていたというのに子猫はぴすぴすと鼻を鳴らしながら爆睡していた。

それを起こさないようにそっと抱き上げると、錆兎はとりあえず…と、子猫を柔らかいタオルを敷いた果物籠に移動させる。

ペット可な物件ではあるが錆兎は特に何も飼っていないため、子猫のための諸々など当然ない。
だが、飼い主がいつ帰ってくるかわからない以上、猫用ミルクくらいは用意しておいてやった方がいいのかもしれない。

なんだか随分人懐こい子猫で、すでに情が移りかけているところに猫用グッズなんか買い込んだ日には、飼い主の元へ返す時に落ち込むのは目に見えているのだが、そんな自分の寂しさと子猫の命を比べることなどできるはずもなく、錆兎は必要そうなものを購入するためにペットショップへ出かけるべく、子猫が寝ている間にと急いで服を着替えることにした。

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