幸せ行きの薬_5_飼い猫(仮)名前はぎゆう

──…にゃあ……

ぽふ、ぽふ、と、頬に柔らかく温かいものが触れる。

ふわふわと心地よいが少しくすぐったいそれに錆兎がわずかばかり眉を寄せると、今度は遠慮がちにふわふわとしたものがスリスリと錆兎のこめかみのあたりに擦り付けられた。

それは目覚ましのアラームなんかよりもずっと心地よい目覚めを与えてくれる。


──おはよう、ぎゆう。お前はまったく賢いな。今日も起こしてくれてありがとう。

錆兎は子猫を驚かせないようにゆっくり半身を起こしながら、小さな黒い体を抱き上げた。
そしてその額にちゅっと小さく口づける。
顔を近づけた子猫は温かくて柔らかくて…そしてほんのりミルクの匂いがした。

起きてしまうと自分より先にこの小さな子猫の胃袋を満たしてやらねばならないと、錆兎はベッドから出てパジャマを脱ぎ捨ててベッドに放り投げるとシャツを着てキッチンへ。

子猫はこの時たいてい降ってきたパジャマにじゃれついているので、その間に急いでミルクを用意。
寝室に戻るのが最近の日課だ。

匂いがするのか、それが毎日だから察するのか、あるいはその両方か。
錆兎がキッチンから戻ってくると、子猫はそれまで体に巻き付けてゴロゴロしていたパジャマを放り出して、ベッドの端までぽてぽてと寄ってきては、いっちょ前にしっぽをピーンと立てて、期待に満ちた視線で錆兎を見上げている。

ただ、大人しくて聞き分けは良いのだが少しばかり不器用で、たまに勢い余ってベッドから転げ落ちそうになるので、そのあたりは気を付けてやらねばならなかった。


子猫…ぎゆうを拾ってからすでに1週間が経とうとしていた。
拾った初日、もしかしたら数時間で無駄になるかもしれない…と思いつつも必要だからと買った猫育成グッズの数々はいまだ重宝している。

まず夜になっても隣人が帰る様子がなかったので、呼びかけるのに名がないと不便だと思って、錆兎は子猫に仮の名をつけることにした。

勉強だとか物理的な作業は得意でも、その手の感性を要する作業は得意ではない錆兎は、子猫を表札で知った隣の住人、『冨岡義勇の飼い猫』という言葉を縮めて、【ぎゆう】と呼ぶことにする。

実際は飼い主がペットに自分と同じ名前を付けることなどないのだろうが、【ぎゆう】は賢い子猫なのだろう。
錆兎が『ぎゆう、』と呼ぶと、それが自分を呼んでいるのだと理解したらしい。

──にゃ?
と、高く可愛らしい声で返事をしつつ、寄ってくる。


月齢はわからないが、体重や身長を測ってネットで調べたところ、だいたい1週間経つか経たないかくらいらしい。

本来ならまだ母猫が必要な時期なのだろうし、もし親猫が室内に放置されているとしたら、あまりに留守が長ければ成猫だろうと死んでしまう可能性もある。

だから、一応管理人にぎゆうを保護した時の状況と事情を話して、親族から彼に連絡を取ってもらったのだが、連絡がつかないらしい。
そこで、親族である伯父伯母の立ち合いの元、マスターキーで室内を確認してもらった。

しかし不思議なことにその部屋には猫関連のものが一切なかったということだ。
どういうことだ?
ぎゆうは隣の家の猫ではないのか?

事情が事情なので彼の亡母の姉だという伯母と話をさせてもらったが、少なくとも彼女と夫である伯父は錆兎がぎゆうを拾った日に甥を訪ねて来ていて、その時には猫を飼っている様子も猫を飼っているという話もなかったので、甥の猫ではないと思うと言われた。

隣の部屋は事故で亡くなった隣の住人冨岡義勇の親が義勇に遺したものなのだが、伯母の娘が大学に通うのに部屋を探しているという話をしたら、義勇から親が亡くなってからずっと育ててもらった恩があるので、ぜひ譲渡したいという申し出があって、近日中に住人が入れ替わる予定で、その娘は動物が好きではないので、置いて行かれても困るのだが…と言われて、錆兎は内心喜びつつ、それなら自分が飼いますと申し出た。

もしかして娘に部屋を明け渡すため、家を探しにあちこち泊りがけで出歩いているのだろうか…。

これだけ時間がかかっているのは、あるいは、引っ越しのタイミングでぎゆうを飼うことにしたので、新しい住居もペット可の物件をと探しているからかもしれない。
そうなると…隣人と連絡がついたらぎゆうを返してほしいと言われる可能性もある。

だがもしそうなら、こんな子猫を人のいないベランダに放置なんてとんでもないことだ。
1週間も戻らなかったなら、雨に打たれなかったとしてもエサも水もなくて余裕で死んでしまっている。

そう考えると、ぎゆうが隣人が飼うつもりでいた猫だろうとそうでなかろうと、錆兎はぎゆうを手放す気はしない。
これはもううちの子だ。


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