幸せ行きの薬_1_天才科学者の願い

彼女は優秀な科学者だった。
彼女の開発した医薬品は多くの人を死から救った。
だが、彼女が人であり神ではない以上、当然ながらすべての人を救えるわけではない。

そして…そんな彼女が救えなかった命の中に、彼女自身の愛娘の命がある。
夫が若くして事故死したあとに残された忘れ形見。
親族がいなかった科学者にとって唯一の家族…

来る日も来る日も研究所にこもっていた彼女にその連絡が来たのは、とあるうららかな春の日のことだ。
満開の桜が風に舞う美しい昼下がり…
彼女の一人娘は自宅マンションの屋上から身を投げ出して、15歳の短い生涯を閉じた。

遺書には娘に嫌がらせを続けた同級生たちの名が連ねられていたが、学校側はいじめを認めず裁判に。
戦い、疲弊していく科学者。
それでも長い長い時をかけて裁判に勝ち…わずかばかりの金と学校側の今後の再発防止策の説明…そして、娘はどうやってももう自分の手には戻らぬのだという絶望が、彼女に残されたのだ。

そう、死んでしまってはすべてが終わりだ。
生きてさえいれば…一時的にそれまでのすべてをかなぐり捨てることがあったとしても、やり直しのきくこともある。

その、すべてをかなぐり捨てるすべが、残念ながらほとんどの人間にはないだけだ。


裁判に勝利したその日から、彼女はそれまで続けていた医薬品の研究をすべてやめた。
彼女が命を繋いでいくのに十分な蓄えはある。

だから彼女はただ一人、そのすべてをかなぐり捨てることのできるすべを模索するための研究を始める。

そうして長い時を経て、天才と呼ばれたとある科学者が心血を注いだ薬が完成した。
だが、できたのはたった一人分のみ。

ちょうどその日は近所で交通事故で亡くなった若い夫婦とその娘の葬式があった。
たいそうな資産家ではあったが、遺されたのはほんの5歳の少年一人だったので、夫側の親族はいなかったのもあり、喪主は妻の姉。

本当に近所を通り越して隣家だったので、香典の一つも持っていこうかと香典袋を買いに家を出た科学者は、雨に濡れている隣家の子どもに目をとめた。

そうして、雨のさなか、隣家から歩いてほんの1,2分の所にある公園で泣いている子どもに傘をさしかけてやると、悲しみに沈んだ青い目を科学者に向ける少年。

「…お隣の家の子…よね…?
…どうしておうちにいないの?」
と、必要ならすぐそこではあるが送って行ってやろうと思って声をかけると、少年は大きな丸い目からポロリポロリと涙の粒をこぼしながら

「伯母さんが…ね、メソメソしているだけなら邪魔だからって…。
だから泣くところがないから、ここにいるの」
と、うつむいた。

それを聞いて色々を想像して、ああ…これは苦労するな…と、科学者は思った。


「…そう。…きっとお葬式の準備で忙しいのね…。
じゃあ、おばさんの家で待ってましょう。
いい時間になったら送って行ってあげるから…」
と、手を差し出すと、疑うこともなく素直に小さな手を預ける子ども。

自宅についても泣き続ける少年に、科学者は大切に大切にしまってあった、まるで少年の目のように綺麗な青い透明の飴を、その小さな口に放り込んでやった。

「これはね…あなたがどうしても辛くて我慢ができなくなった時に、あなたをその辛い場所から逃がしてくれる魔法のお薬。
そうして一度逃げてお休みをして、元気になって戻ってくるためのお薬なのよ?」
と、その小さな頭を撫でながら言ってやる。

こうして世に知られればとんでもない価値になるであろうその薬は、近所の小さな子どものお守りとなった。

そう、彼女がそれを作った理由は、名声でも金でもない。
傷つき苦しむ小さな命を救いたい。
ただそれだけだったのだから、それは確かに正しい使われ方をしたのである。





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