ああ、失敗したっ!まだ動かすのは早かったかっ…
頬に次いで額、そして胸元と確認して、明らかに通常時よりも高い花嫁の体温にアントーニョはほぞをかんだ。
ふわふわと頼りなく少し目を離すと消えてしまいそうな風情は、アントーニョの庇護欲をかなり刺激し、その心をがっちりは掴んだものの、同時にひどく不安感を煽る。
大急ぎで呼ばれた医師は、疲労その他で身体が弱っているところに引いた風邪だろうと判断したが、アントーニョは納得がいかない。
だってこんなに苦しそうだ。
そんな軽い病気のはずはない…と、思う。
自分が風邪をひいた時の事を思い出して見ても、こんなに死にそうな様子ではなかったはずだ。
まだ少女にも見えるような可愛らしい顔立ちに不似合いな太すぎる眉を苦しげに寄せて、浅く荒い息を吐く唇。
アントーニョより数回り小さな白い手が、ぎゅっとふわふわとした真っ白な寝間着の胸元を掴んでいるので、あるいは苦しいか痛いのかと、非常に気になる。心が痛む。
「…アーティ?アーティ、どこか痛いんか?苦しいんか?親分に教えたって?」
普段は大斧を振り回している武骨な手だ。
不用意に触れれば壊してしまうかもしれない。
そんな不安に駆られて、汗ばんだ金色の髪が張り付いた広い額にそっと…可能な限りそぅっと触れる。
その感触にか言葉にか、白い瞼が開いて、ゆっくりとその下のペリドットがアントーニョを見あげた。
熱のために潤んだ大きな瞳はとてもきれいで…しかしそのまま溶けて消えてしまいそうで恐ろしさも感じる。
そう、恐ろしい。
今まで幾多の人命を奪い、砦を破壊し、屍の山に立つことにもなんの恐怖さえ感じた事のない王が、今目の前にあるこの小さく儚く美しい存在が消える事に酷く恐怖した。
胸にナイフを突き立てられ、ぐりぐりと心臓をえぐられるような痛み。
それは手足どころか背中をざっくり斬られても崩す事のなかった笑顔をあっさり消し去り、苦痛に思わず顔をしかめてしまうほどの痛みだった。
そんな痛みにさいなまれながらも目を離す事が出来ず小さな花嫁を見下ろしているうち、花嫁はぼんやりとしていた意識がはっきりしてきたように視点が定まってくると、ビクッ!!と小さな身体が飛びあがった。
勢いで半身を起して倒れ込む身体を支えると、大きな目からそのままじわりと涙があふれ出し、小さな唇からうわごとのように…ごめんなさい…ごめんなさい…と、消え入りそうな声が漏れる。
「なん?!どないしたん?!」
思わず震える身体をだきしめると、ひゅぅっと喉が鳴って、それからゼッゼェッと苦しげに喉元を押さえて身を固くした。
見る見る間に蒼褪めて行く顔色に、アントーニョも全身から血の気が引く。
「ドクターっ!はよっ!!!」
声の限り怒鳴ると、隣室に控えていた老医師が飛び込んできた。
「急に苦しみだしてんっ!!息出来てないみたいやっ!!」
ズキン、ズキンと胸の痛みに加えて眩暈と吐き気がしてくる。
しかし自分の不調を訴えている場合ではない。
もしここで自分が不調を訴えれば医師は迷わず自分を優先するだろうし、そんな事をしているうちに大事な花嫁が死んでしまう。
アントーニョはともすれば崩れ落ちそうになる足にグッと力を込め、拳を握りしめて不快感に耐えた。
ただひたすらに怖かった。
目の前で医師が静かな声で花嫁に何か言っているのを瞬きも出来ずに凝視するしか出来ない。
…吸って…吐いて…吐いて…そう、お上手です。
どうやら呼吸を促している。
そしてどうやらそれは適切な処置だったらしい。
しばらくしてすっかり呼吸が落ち着くと、医師が少し休むようにうながしていた。
それに頷くと花嫁は静かに目を閉じる
同時に、アントーニョの眩暈と吐き気も消えて行った。
「もう…大丈夫なん?」
安堵で力が抜けて、椅子に倒れ込むように座るアントーニョ。
少し離れた所に立つ医師に視線を向けておそるおそる聞く。
それに対して医師は少し考えて、言葉を選びつつゆっくりと答えた。
「さきほどのは過呼吸と申します。
簡単に言うと、空気を吸い過ぎて呼吸が苦しくなる現象です。
原因は色々ありますが…今回の正妃様に限って言えば、おそらくストレスと緊張から来たものかと思われます。」
「…かこきゅう……」
アントーニョはその言葉を繰り返した。
なるほど、それでなくても森の国からこの国に連れて来られたばかりで、慣れる間もなく疲れを取る間もなく、体調も万全でないのにまた、自分の部屋からこの後宮へと移したのが悪かったのか…。
「おおきに。下がってええで。なんかあったら呼ぶわ…。」
と、医師を下げ、アントーニョはそのまま椅子をベッドのすぐ脇までひきずって、花嫁の眠るベッドを覗き込む。
それでなくとも高熱で体力が削られているところにこれで、グッタリと横たわっている花嫁の痛々しさにまた胸がずきずきと痛み始めた。
守ってやらな……俺が守ってやらなあかん…
身体だけではなく心も全て。
幼い花嫁が心の底から安心して笑って暮らせるように…。
アントーニョはそう決意して、心細げにブランケットの上をさまよう小さな手をぎゅっと握りしめてやった。
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