実は納得もできてない。
だっていつものように朝起きて一緒に朝食を摂って、2人が暮らしていた小さなアパートを出てプロイセンが仕事に行くのを、彼女はいつもと全く変わらぬ様子で見送ったのだ。
それなのに帰宅するといつもなら灯りがついている部屋が暗くてシン…と静まり返っていて、灯りをつけると不思議な事に彼女がいた形跡が消えていた。
2人で一緒に選んだシンプルだがおそろいの食器はすべて消え、何故かその際に処分したはずの彼女が来る前にプロイセンが1人で使っていた食器が食器棚に並び、クローゼットの中にもあるのはプロイセンの着替えだけで、彼女のものなんて靴下一足すら残ってはいない。
全てが10年前に戻ったようなその部屋で、唯一の彼女がいたという痕跡は、皮肉な事に
──10年間、本当にありがとう
という別れの書きおきだけだった。
ここまで完璧にされるとさすがに誘拐や事故ではなく、覚悟の失踪なのだろうと言う事はわかったが、プロイセンだってそれで納得できるわけはない。
その夜はもちろん、それから1週間、仕事を休んでまで彼女を探したが、驚くほど彼女の足跡は辿れなかった。
…というか、手の中の書き置きがなければ、本当に彼女の存在自体が夢だったのではないかと、現実主義のプロイセンでも思い込んでしまったかもしれない。
だって、なんとも不思議な事に、自分以外の誰も彼女の事を覚えてはいなかったのだ。
確かに何度も一緒に買い物をした八百屋のおかみさんも、休日はよく2人でランチをしたカフェの店員も…その他、確かに2人で10年間一緒に利用した店や出会った人々全てが彼女の存在すら記憶していなかったのだ。
まるで狐に化かされたような気分だが、それでも彼女が確かに存在していたのをプロイセンは知っている。
プロイセンが求愛を受け入れた時の彼女の驚きにまるくなった大きな目。
──…ほんと…に?
と、おそるおそる聞いてくるのに頷くと、その目からぽろりと水晶のような透明の雫が零れて落ちた。
それを指先で拭ってやった事も覚えているし、なにより、震える彼女をだきしめて重ねた唇の柔らかさ…あの感動を忘れることなんてできるわけがない。
その後の事だって全て…そう、全てあますことなく覚えている。
だってプロイセンだって初めてだったのだ。
そしてそれが今までプロイセンの唯一の女性関係だった。
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