夏だと言うのに寒気がした。
街に入って半刻ほど過ぎた頃、ゾッとするような空気を感じて錆兎は後ろに付き従う真菰に小声で警告する。
(…真菰……これは…やばいかも知れない……)
(…だね……)
と、意思確認をしながら、2人の視線は人目を避けるように屋根伝いに進む自分達の斜め前方、1人で堂々と人気のない道を歩く護衛相手に向けられた。
なので最初は当たり前に【柱】を送り込んだりはしない。
その代わりに普通の隊員を何人も送り込んだが、女は消え、男は死んだ。
なのに鬼の姿がつかめない。
生存者がいないからだ。
そこでいよいよ【柱】投入とあいなったわけだ。
空の赤みが徐々に引き、空はすっかり青黒く色を変えた。
そこに浮かぶ月は綺麗な丸い形。
館では夕焼けで義勇と並んで眺めていた頃を思い出したが、綺麗な月を見てもやはり眠れぬ夜に二人して縁側で見た月を思い出すので、結局自分の少年期は義勇で埋め尽くされていたのだろう…と、錆兎はそんなことを思って小さく笑みをこぼす。
優しく幸せな時間…
ありえないことだが、自分達が生きているうちに鬼舞辻を倒して鬼が完全に消えるようになったのなら、それを取り戻せたりすることもあるのだろうか…
ああ…だめだ。
また何か感傷的になっている。
錆兎は雑念を振り払うように小さく頭を振って、そして現場の街に足を踏み入れる見慣れた姿を隠れて追った。
大切な…この世で一番大切な、錆兎の最優先で守るべき者…
生きろ、生きて頂点の【柱】まで駆け登れ
そう言ったはいいが、おそらく色々がいっぱいいっぱいだった幼馴染は、本当にそれ以外のことを狭霧山のてっぺんくらいまで放り投げたようだ。
元々はサラサラで綺麗だった髪は、義勇が【水柱】となって錆兎がその専属の水の【影柱】として義勇のために自由に時間が裂けるようになるまでは、本当に最低限困らぬ程度に手ぐしで流す程度で、たまに義勇が眠ったあとに錆兎が梳かしに行ってやらないと鳥の巣のようになっていたし、なぜか羽織は綺麗に保つものの、下の着物には無頓着で、これも錆兎がたまに時間をみつけて、ほつれを直したりしてやっていた。
言葉はもともと少なかったが、今はさらに最低限しかしゃべらないので、よく揉める。
揉めても気にしない。
誰に嫌われても、鬼退治に支障がなければかまわない…そんな風に思っているようだった。
あとは…そう、表情筋が完全に死んでいる。
錆兎といた頃の義勇は、やはり大人しい子どもではあったが、少なくともよく泣く子どもではあった。
しかも静かにそっと…でも悲しそうに涙をこぼすので、どこか放っておけない。
あの表情を周りに見せたなら、それこそ鬼でもまぎれこんでいるのではない限り、絶対に他が放っておかず、嫌でも多数の助けの手が伸びてくると思うのだが…
違うんだ、義勇は本当は優しくて傷つきやすい奴なんだから、ちゃんとそれをわかって優しく接してやってくれ…と、何度歯がゆく思ったかわかりはしない。
あまりに心配すぎて、思わず義勇と行動を共にする機会の多い【蟲柱】の少女に、義勇にしているのと同じく幻術で夢という形で、説明と説教をしに行ってしまった。
もっとも、少女は翌朝目を覚ました時に非常に複雑な表情で
──冨岡さんの友人の妄想聞いてばかりいたから、夢にまで見るようになってしまいました…私まで妄想の世界の住人にならないように気をつけなくては…
と、頭をかかえていたので、功を奏したとは言えず、一度きりでやめておいたのだが…
まあとにかくそんな風に、錆兎が言った事以外、あまりに何もしようとしないのがとても心配で、鬼退治に没頭せざるを得ない現状は仕方ないにしても、どうすればもう少し義勇自身の楽しみをみつけてくれるのか…ということが、錆兎の今の課題である。
少なくとも、それを見つけて少しでも人生を楽しんで幸せになる義勇を見るまでは義勇を死なせることなど論外なのは当たり前として、自分も絶対に死ねない。
たった1人で夜の町中を歩く後ろ姿を見ながら、錆兎はその思いを強くした。
…が、それもほんの半刻よりも短い時間だった。
急にあたりの闇が濃くなったように感じて、ぞわっと背に冷たいものが走った。
後ろを歩く真菰も同じだったのだろう。
身を固くして緊張の糸を張り巡らせる気配がする。
自分達より数歩先に行く義勇も当然それには気づいて足を止めた。
──なんだ、男かぁ…。命令とは言え、せっかく外まで出てきたのになぁ…残念
闇の中から血が広がる。
いや、血のように紅い帽子をかぶった男…。
にこにこと屈託のない笑みを浮かべ、敵意も見せず、まるで旧友にでも相対しているように、穏やかに優しい声音で話す。
なのに全身から冷や汗が吹き出した。
…こいつは危険だ…
と、錆兎の全神経が脳に向かって訴えかけてきている。
おそらく全力でやっても敵わない、撤退させる。
瞬時にそう判断して真菰に伝えた。
2人で共闘しろ…とは、真菰も言わなかった。
彼女も理解している。
”自分も含めて3人で全力で戦っても、数刻後には3体の遺体が転がっているだけだ”
ということを…。
普通の鬼は【柱】が屠り、その【柱】を十二鬼月と呼ばれる鬼の頂点の中でも上位の半分、上弦と呼ばれる鬼たちが殺す…
それが鬼と鬼殺隊のこれまでの歴史だ。
【柱】と言えども相手が上弦ともなれば、準備もなく戦えば大人に向かう赤子のように、たわいもなく殺されるしかない。
しかも…さらにまずいことには、鬼の虹色に光る左目に刻まれた階級は”弐”。
つまり、6人いる上弦の鬼の中で2番めに強い鬼ということだ。
なるほど、この全身が総毛立つような緊張感と寒気も当然のことである。
(…今までの運の良さとひきかえに、運の悪さが一気にきたか……)
震える身体を叱咤して、チャリ…と抜刀をしながら錆兎は思う。
せっかく義勇と共闘してもその記憶を封じられるほどの幻術を真菰が身につけてくれたというのに、それを一度も試せることなく死ぬことはあまりに心残りすぎる。
本当に死んでも死にきれないと言うか、今度こそ幽霊になるんじゃないだろうか…などと思いつつも、その脳裏の半分は、出ていくタイミングと、突然出てきた自分に気を取られて鬼が義勇のことを忘れている時間が少しでも長くなるには、どの型でどういう戦いを組み立てればいいかということで溢れかえっていた。
狙うのは倒すことではなく、義勇を撤退させる時間を稼ぐことだ。
それでも生半可な攻撃では気づかれる。
殺す気で…しかし自分が少しでも長持ちするように……
そうしてどう動くかを大方決めると、錆兎は出ていくタイミングを窺った。
そんな風に錆兎が考え込んでいる間に義勇はとっくに相手に切り込んでいるが、鬼からは全く殺気はしない。
どうやら氷を扱う鬼らしく、次々と氷で人型の氷像を作って、その攻撃を封じていて、たまにそれを突破してくる義勇の攻撃を防ぐことはしても反撃はせず、何事もなかったかのようにおしゃべりに興じている。
「わぁ…【水柱】と対峙するって俺は初めてなんだけど、キレイなものだねぇ。
でも知ってる?氷ってさ、水を凍らせたものだからね。
俺を倒すにはあまり効果的じゃないかなぁ…
まあ同じ性質からデキてるものだと、逆も然りなんだけどね」
ニコニコと話す上弦の弐。
それに全く耳を貸すことなく、ただ、
──倒す…
とだけ言い放って、切り込んでいく義勇。
しかし
「君さあ…人の話聞かない子って言われることない?
俺たちがやりあっても持久戦になるだけだから、どう考えても君が不利なんだよ?
まあ…俺はいいけどね。
君は男でも陰の気が強いみたいだから、あの方の試みの対象として適した人材だし、疲れたらちょっとだけ痛い思いはさせて眠らせるけど殺しはしないで連れて行ってあげるからね」
との言葉に、ピタっとわずかに動きを止めて、
「俺はお前が嫌いだ。鬼も嫌いだ。行かない」
と、これまた端的に言い放って、刀を構え直した。
色々気になる話だ。
まず属性について…上弦の鬼の方にも若干の得意不得意の相手がいるらしい。
少なくとも上弦の弐は氷属性だから水が相手だと互いに相殺されやすく、持久戦になりやすい。
強いて言うなら、水を加工できる分、相手のほうが若干は有利なのか?
あとは鬼舞辻が新しく何かを企んでいて、それに陰の気が強い人間が必要ということ。
それは何なのか?そもそも陰の気とは?
義勇1人で漏れないからと思って話しているのだろうから、これは絶対に鬼殺隊の方へと報告しなければならない情報だ。
──真菰…絶対に生きてお館様へ報告だぞ
と、小声で念押しをすると、
──わかってる…
と、真菰はやはり小声で言ってうなずいた。
ともあれ、鬼舞辻が何を考えているにしても、それに義勇を利用させるわけには絶対に行かない。
そろそろ義勇に疲労の色がみえてきたこともあるし、突入するなら今だろう。
氷には水は効果がでにくい…なら幻を乗せて一撃だけ他の属性で行くか……
錆兎も基本的には水の呼吸法を使っているが、”影"が好んで使う幻の呼吸法は水、火、風を混ぜて練り込んだものなので、得意とは言えないが、火と風に関しては基本の壱の型なら学んでいる。
もちろんその二つに関しては本職の足元にも及ばない程度のものではあるが…
だが今回は倒すことが目的ではないので、撹乱出来ればいい。
威力が弱くても幻術でごまかしながら、なるべく長く相手に自分の攻撃法をわからせないで時間を稼ぐことが重要だ。
…行くぞっ!あとは頼むっ!!
と、真菰に声をかけ、錆兎は身を隠していた民家の屋根から飛び降りて、
──壱ノ型 不知火…っ!!
と、自分に注目が行くようにことさら大きな声を出しながら炎の壱の型を発動した後、上弦の弐の視線がしっかり自分に向いたのを確認してそれに無言で幻術を乗せる。
いっきに倍増して見える炎。
どうやら本人が言っていた通り、属性で多少効力に違いがあるようだ。
水の型ではなかなか崩れなかった氷像達が、まるで水飴のようにドロリと溶けていく。
え?と驚いた顔の上弦の注意が完全に錆兎に向いたその瞬間、好機!と、真菰が無防備に錆兎に驚きの目を向けている義勇に幻術を施す。
しかし、それで全て順調に入れ替え劇が終わったと思ったのは甘かった。
想定外の事態が起きたのはその瞬間のことである。
──玖ノ型 煉獄!!
と言う声と共に、錆兎の後ろから、炎の渦が彼の横をぎりぎり駆け抜けて上弦へと向かっていった。
誤変換発見しました(^^ゞ「タイミングを伺った」→窺った の誤変換かと思いますのでご確認ください。
返信削除ご報告ありがとうございます。修正しました😄
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