義勇さんが頭を打ちました_08

…ゆ……ぎゆ…う……

心地よい声…みそ汁の良い匂い。
ああ…今日は休みだったか…

いつも休みの日には錆兎が朝食を作ってくれることになっている。
せっかく体を休められる日にそれはあまりに申し訳ないから…と、義勇は自分がやると何度も申し出たのだが、優しい錆兎は義勇だって完全に体を休める日があってもいいはずだと主張して、それでは2日以上休みが続く時だけ、という事で、朝食のみお願いすることにした。

正直、自分が作るよりも錆兎が作る飯の方が美味い。
義勇はそう思うのだが、そう主張するたび、2人とも料理は同じ師範から同じように教わったのだから同じ味だと、錆兎に苦笑される。

最近はそんな風に狭霧山時代の話を出されると困ってしまう。
何故か、と、言われると、これはもう、知らないふりをしなければならないからに他ならない。
義勇が知らない…いや、正確には覚えていないだろうと思って教えてくれる錆兎に申し訳ない。

そう、義勇の記憶はすでに戻っているのだ。


それならそうと言えばいい。
だが、義勇には記憶が戻ったと言えないわけがあった。

それは真菰…と、錆兎が嬉しそうに言葉に乗せる女性。
義勇が頭を打ったあの日、錆兎が親し気に話していたあの女性のためである。

あれから義勇が覚えていることも覚えていないことも、錆兎は色々教えてくれた。
その中にあの女性の話もあった。

義勇が狭霧山に来る寸前に最終選別を受けて隊士になった姉弟子で、錆兎よりも2歳ばかり年上の20歳。
錆兎が狭霧山に来る少し前に先生の弟子になったということで、義勇が来るまではずっと一緒で…つまりは義勇が錆兎に対して持っているのと同じような感情を持っているのだろうと思われる。
だって相手は愛らしい女性なのだ。

隊士になってからすれ違ってばかりでなかなか会うことがなかったが、あの日、久々に会えて話し込んでしまったらしい。

錆兎はそれ以上は言わなかったが、義勇の記憶が戻ったらちゃんと紹介するからとは言われたので、絶対に記憶が戻ったことは隠さねばならない。

だって紹介されたら最後だ。

義勇の記憶が戻ったら…と、そう言うのは、優しい錆兎は記憶が戻らないまま不安定な義勇に、これ以上戻らぬ記憶に関係する何かを増やさぬよう気遣ってくれているからなのだろう。
だから記憶が戻ったら彼女もこの家に来て、錆兎の横に居るのは常に彼女になってしまう。
それは絶対に嫌だ。

もし自分が女性だったなら、家事も任務も死ぬほど頑張れば、あるいは錆兎の嫁の座を争うこともできるかもしれないが、相手は嫁になれる女性で自分は同性の男となると、どんなに努力をしたところで勝負どころか、同じスタートラインにすら立てない。

そうなれば義勇に出来ることはただ一つ。
錆兎が彼女を紹介して一緒に暮らす機会を避けることだけである。


とは言っても、錆兎がいつまで待ってくれるのかはわからない。
義勇が記憶を失って落ち着かないから…と思ってはいても、ずっとその状態が続けば記憶がないなりに落ち着いたとみなされる日もくるかもしれない。

そうなれば記憶が戻らなくても真菰を呼んで紹介されて、今のこの幸せな生活は終わってしまう。

今のこの時間は本当ならあの日に終わっていたところ、記憶を失ったことによってできた猶予期間なのだ…。
そう思うと辛くて悲しくて、胸の痛みに服の胸元をぎゅっと掴んで涙をこらえてしゃがみ込んでいたら、錆兎に見られてたいそう心配された。

そして、身体の具合が悪いのなら鬼狩りをやめないか?と打診されたのだが、それは真菰と暮らすから狭霧山に帰れということなのだろうか…と思うと、ひどく焦ってしまって、泣きながらやめない、頑張るから見捨てないでくれと縋りついてしまった。

真菰は可愛い女性であるばかりでなく、腕力はないが非常に敏捷性に優れた剣士だということなので、せめて彼女に出来る程度のことはできないと、狭霧山に返されてしまうかもしれない…。

そんな恐怖に怯えながら、義勇は家事に剣術にと必死に頑張った。



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