義勇に電話して自分だと名乗ると、開口一番それを言われた瞬間に、村田は絶望した。
そしてまた思う…前門の虎(真菰さん)後門の狼(鱗滝課長補佐)…と……
モブにしてはあり得ないレベルで華々しく散る事になるだろう。
しかし村田に拒否権はない。
そうして覚悟を決めて義勇に電話したら、いきなり冒頭のセリフだ。
…ああ、俺の人生終わったかも……
と、頭を抱えたくなっても無理はない。
それでもここで“否”と返すと言う選択肢はない。
それをやったら真菰はもちろん、おそらく理不尽ではあるが鱗滝課長補佐にも殺される。
「いいよ。今まだ会社だから、少し遅くなるけど。
場所わかる?
わからなければ駅まで迎えに行くけど」
と言って、時間と待ち合わせ場所を決めていったん電話を切る。
そしてまた真菰に状況説明のメール。
出来れば真菰にも介入して欲しい。
真菰ならば義勇と知らない仲でもない上に、課長補佐の従姉妹なので間に入るには自分よりも適任なのではないかと思う。
と言うことも添えておく。
だって怖い、鱗滝課長補佐怖い。
今度こそ殺されるかもしれない。
村田も必死である。
すると返ってきた真菰の返答。
『わかったわ。でも錆兎の方からも話を聞かないとだから、まずあんたは義勇君の側の話を聞いておいて。
その上であたしを呼んでも良いか許可を得なさい。
あたしを呼ぶ理由は、あたしは錆兎の事をよく知っているから、離れるにしても戻るにしても、相手を説得しやすいからとでも言って。
あたしはまず錆兎から事情を聞く前に、義勇君を確保するために村田に義勇君に連絡を入れるよう指示すると言うから。
そうしたらあんたのせいじゃなくなるでしょ。
で、そのあと錆兎から話を聞いて、まずあたしが義勇君に会うと言う形にするわ』
さすが真菰主任…さすがだ…と、村田は涙する。
これで課長補佐に粉砕される可能性は少しは軽減したはずだ。
あとは自分が真菰を呼ぶ事を義勇に納得させれば、自分自身の身の安全は半分以上確保できたも同然だ。
こうして村田はだいぶ軽くなった足取りで、自分のアパートの最寄り駅を目指して電車に乗った。
「たびたび迷惑かけてごめん……」
待ち合わせの場所に行くと、両手にボストンを持った義勇が佇んでいる。
「いや、全然大丈夫だよ。
今の俺があるのはお前のおかげだし、本当に気にしないで」
と言ったのは保身のためじゃない。
本心だ。
だってあの面接の日、義勇が手を差し伸べてくれなければ、自分は絶対に面接で落ちていた。
だから村田はいつだってその時の恩を忘れた事はない。
怖い怖い課長補佐の事がなければ、1週間でも一カ月でも、なんならずっといてくれても構わないくらいだ。
ただ何度も繰り返すが課長補佐は怖い。
あの人、怒らせるとまじやばいよ…と思う。
村田は一般ピープルの生活が身に沁みつきすぎて、学生時代から住んでいるボロアパートにそのまま住みつつ、普段は徒歩30分くらいの距離を歩くのだが、社会人になってからは給与も良いので、今日は荷物も多い事だしと迷うことなくタクシーを捕まえた。
とはいっても、まあ自腹ではないのだが…
車が見慣れた自分のボロアパートにつくと、まず義勇を先に降ろして自分が精算して領収書をもらう。
この手の事にかかる経費は、あとで真菰に請求するように言われている。
真菰がそれを見て会社に請求できる物は会社に、出来そうにない物は自腹を切るらしい。
それで良いのか?と思って聞いてみると
「上司から言われて動いている案件に関しては、絶対に自腹切っちゃだめよ?
どんな些細なモノでも請求しなさい。
もしそれが会社の経費で落とせないようなものだったとしても自腹切るのは指示した人間。
あたしは命じたからにはあんたの行動を金銭も含めて責任取るのが仕事なんだからね」
と、なかなか男前な言葉が返って来た。
社内では鱗滝課長補佐が面倒見の良い素晴らしい上司とよく言われているが、村田からすると、真菰だってすごく良い上司だと思う。
まあ…しばしば脱線したり無茶な事を命じてきたりはするが……
自宅にあげると飲み物を出し、とりあえず落ち着いてもらう。
義勇はまず
「たびたび迷惑かけて本当にごめん…」
と、待ち合わせた時と同じ言葉をもう一度言って頭を下げるので、村田もまず待ち合わせの時と同様に、今の自分があるのは義勇のおかげだから全然問題はないのだと、繰り返す。
その上で聞いてみた。
「たぶん…このままだと前回みたいに課長補佐が迎えに来ちゃうと思うから、聞いていいか?
俺はさ、部署も違うし見た通りなんていうか…思い切り周りに埋もれるような存在感のない人間で、みんな俺を気にしないし、俺が何か知ってるとか思わないんだ。
そこをね、真菰さんに買われて秘書役に抜擢されたんだけど…。
あの人はスタンドプレーが多い人で、半プライベートな人脈とかがすごく仕事に結びついてるんだけど、私的な部分が多々あるから、実績がある程度出るまではプライベートな人脈って言えないとか色々あるんだ。
だからお供も口が堅くないとダメだし、突っ込まれやすいような人間もダメって事で…俺だと『俺なんにも聞かせてもらってないんです』って言うと、納得されちゃうのが良いらしい。
だから自分で言うのもなんだけどさ、秘密の保管相手としては俺ほど最適な人間はいないと思うんだ。
冨岡、前回もそうだけど、課長補佐と色々ありそうだしさ、もし良かったら話してみない?
俺は本当にお前には恩を感じているから、お前が嫌なら絶対に他言はしないし、もし何かこうしたいという方向性の事があるなら、俺が無理でも真菰さんに相談すればなんとかしてくれる。
真菰さんは鱗滝課長補佐と従姉妹だから、彼を動かすこともできると思うよ?
話すだけでも吐き出してしまえば楽になる事ってあるしさ…どうかな?」
ここまで言い切れるのは、真菰の後ろ盾があるからというのはあるが、心情的な部分は本心である。
「あの面接の日…俺、恥ずかしいし、悲しいし、不安と絶望と…色々グルグル回ってて、本当に消えてしまいたいくらいの気分だったんだ。
そんな時、声をかけて手を差し伸べてくれたお前が天使に見えた。
だから俺はお前が何か困っているなら力になりたい」
さらにそう付け足すと、義勇は少し迷うように視線をさまよわせた。
何かとても言いにくい事なのだろう。
無理にききだすのも…と、村田が我慢強く待っていると、やがて小さくため息をついて、
「聞いてて気持ち良いものじゃないと思うけど……」
と前置きをして、村田に視線を向けた。
そこからは驚きの連続だった。
まず課長補佐と結婚しているのが義勇だったというのに驚く。
いや、あの溺愛っぷりを見れば義勇を差し置いて他の女と結婚したと言う方が驚くところだったのかもしれないが…
そして鱗滝課長補佐のファンの女性陣が恐ろしいのでそれを隠したいと言うのは納得。
何度か見かけた事があるが、鱗滝課長補佐のおっかけは恐ろしい。
ギラギラしていて、まさに肉食系と言った感じだ。
まあ自分みたいにモブを体現したような人間には目もくれないので自分にとっては無害だが、確かにあんなのに日常的に追いかけられていたら女性に興味がなくなっても仕方ないのでは…と、そこは秘かに同情するし、あの女性陣に敵意を向けられたらと思うと、入籍を隠したくなる義勇の気持ちもよくわかった。
そして課長補佐が妻だと見せた写真はなんと課長補佐の意向で女性避けにわざわざ義勇が女装した写真だと言うから驚きだ。
なにしろ村田自身は実物を見ていないが、会社の男性陣が口を揃えて絶世の美女だった、さすが課長補佐だと大絶賛していたのだ。
あれだけ課長補佐命の美女軍団が、それでも“あんなブス”と言う言葉は使っていなかったのを考えても、おそらくよほど美人だったのだろう。
課長補佐が好みそうな…しかし、実際に出くわして身バレしないという事を考えると、なかなか妙案だなと、村田は感心した。
しかし、さて、そうなると今回の家出の理由はなんなのだろうか…。
村田は実は課長補佐が入籍したので自分が邪魔になるのでは…と思っての家出かと思っていたのだが、入籍した相手が義勇自身だということだから、それはないだろうし。
そう思いはしたものの、まあこちらから無理に聞きだすのもと思って、話に相槌だけは打ちつつ黙って聞いていると、やがて話はそのあたりの方向へと向かう…が……
──俺のせいで結婚式も挙げられず誰にも祝福されない結婚なんて、錆兎に申し訳な過ぎて……
と、それが家出理由だと言うので、村田には意味不明だ。
だって別に課長補佐は義勇が伴侶な事に何も問題を感じていないらしいし、義勇がオープンにしたいと言ったなら、全力で…それこそ世界の中心で叫びそうな勢いで広める気がするのだが…
とりあえずそれは課長補佐の方の話として、問題は義勇の気持ちだ。
でも結局前回の家出も村田からするとどこをどう考えたらそんな結論に行きつく?と思うような理由だった気がする。
それを指摘する前に連れ帰られてしまったので、今回も同じなのか知った上で対処しようと、義勇が話すのをひたすらに黙って聞いていた。
そして…
「このまま俺といると錆兎に迷惑だと思うんだ…
だから出来れば別れてあげたい……」
と、最終的に義勇が口にした時点で、頭を抱えたくなった。
これたぶん…しょっちゅうこんな感じに斜め上ではなく斜め下あたりにずれた方向で暴走して、勝手に迷惑だから別れなければ…という義勇を課長補佐が必死に軌道修正しているんじゃないだろうか……
でも当事者同士だと、義勇いわく“錆兎は優しすぎるから”ということで信じない気もするので、第三者を入れたい。
…が、自分では役不足だろう。
真菰に入って欲しい。
というか、彼女なら絶対にイケル気がする。
ということで、村田は考える。
そして敢えて義勇の行動を止めるような事は言わず、
「課長補佐に関して何か通したいなら、うちの上司の真菰さんに入ってもらえばいいんじゃないかな?
課長補佐の従姉妹だから説得も上手く出来ると思うし、冨岡の要望に関しては俺が真菰さんとの間に入って通してもらうから。
自分で言うのもなんだけど…真菰さんには結構信頼してもらえてるし、俺が言えば聞いてもらえると思うよ」
と、提案してみる。
義勇はその提案に少し悩んでいるようだったので、村田がさらに
「真菰さん、今回の撮影で冨岡のことも結構気に入ってて、何か困った事があったらぜひ力になりたいから、もし自分に直接手を出させたくないようなら、俺を通してでも良いから力になるから言ってくれっていつも言ってくれてたんだ」
と言うと、やっぱり少し迷って、でも結局頷いた。
…ああ…これで大丈夫。助かった……
と、それを見て村田は思った。
義勇の件の解決に関して…そして、自分の命の保証に関しての…両方に対して…
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