この資料をまとめてから…と、思っていると、降ってくる声。
「あ…鱗滝さん。あと少しなので…」
と、先に行っていてくれと言おうとすると、
「ダメだ!休みはきちんと休め。あと少しなら休み取ってからやれば良いだろ」
と、半ば強引にノートPCを目の前で閉じられてしまう。
そうなるともう仕方ない…とばかりに、義勇も立ち上がって一歩前を行く直属の上司の後ろから、何故か自分と並んで歩く課長の横を歩いて食堂に向かった。
1年半ほど前に内定をもらって、当初はずっと入社を楽しみにしていたのだが、入社直前の3月下旬から、ひどく入社するのが怖くなった。
というのも…おそらく入社後に直属の上司になるであろう人物に、あろうことか、女装姿を見られたからだ。
そう、ネットで知り合ったお姫様がリアルで会ってみれば実は女装男子で、一緒にと懇願されて女装で出歩いたら、しつこいナンパ男達に拉致られかけた。
そこでまるでドラマのヒーローのように颯爽と登場したのは、お姫様の実兄とその友人だった。
そこで助けてもらって落ちついたところで相手を確認して驚いた。
なんと、その、兄の友人が鱗滝課長補佐だったのである。
それに気づいた時には人生が終わったと思った。
さすがに女装姿はダメだろう…そう思ったわけなのだが、なんと義勇だと気づかれなかった。
すごい!さすがに本職の女性役の役者の化粧法!!
と、お姫様ことミアの化粧の腕に感謝をしつつ一旦は安堵したわけなのだが、少し時間がたつと、また心配になってくる。
あの瞬間はバタバタしていたから気づかなかっただけかもしれない…
だが、落ちついたら、あれ?と気づかれたらどうしよう…と。
そう考えると、もし顔を見て気づかれたらと、それ以上鱗滝課長補佐と顔を合わせるのが怖くなった。
それでも入社まであと数日しかない状態で、他に就職先を探すことなど出来るはずもなく、義勇はビクビクしながら、入社当日を迎えたのである。
しかしそうして予想した通りシステム開発部の鱗滝課長補佐の下で働くことになって早半月。
最初の1週間ほどこそ、いつばれるかとハラハラしながら日々を送ったが、さすがに普通に自分が内定を出した新入社員が女装して街を歩いていたなどとは、考えてもみないのだろう。
なんとあれからもバレていなかった。
そんなことより、入社してみてわかったのだが、鱗滝課長補佐はイケメンなだけではなくて仕事が出来てコミュ力も高くて女性にたいそう人気があるので、そんな人の直属の部下で常にその業務の雑務を担当ということになった義勇に対しての、女性陣の羨望の眼差しが痛い。
義勇が男で同性だからまだ無事に過ごしているが、女性だったらいびり倒されていたんじゃないだろうか…と、恐ろしく思うほどだ。
なのに随分とフレンドリーな若い課長補佐は、自分が面接をして選んだと言うのもあるのだろう。
ずいぶんと義勇を可愛がってくれていて、やたらと頭を撫でてくる。
まあ…成人男子にやることではないと思うのだが、とてもカッコ良くて仕事も出来て頼りになる、理想の上司を絵に描いたような課長補佐にされると腹も立たない。
仕事以外でも入社したばかりで色々慣れない義勇を気遣ってくれて、昼食とかも一緒してくれるし、何かにつけて困ったことはないかと訊ねてくれる上司の厚意に応えたくて、義勇も積極的に仕事に取り組むだけではなく、少しでも役に立てるようにと休憩時間には課長補佐に持参した紅茶を淹れたりしていたら、なんと課長補佐がそれに合った菓子を用意してくれるようになった。
するとそれを見ていた女性社員達が、何故か義勇にお菓子を差し入れてくれようとしたのだが、課長補佐は意外に子どもっぽいところもあって、
『義勇は俺が育ててる俺の子だからな』
などと、半分冗談のように言いながらもそれを嫌がるそぶりを見せるので、みかねた宇髄課長が
『美味そうな菓子だな。俺がもらってもいいか?』
と、間に入ってくれて事なきを得るような一幕もあって、それ以来なんとなく休憩時間は抱え込まれている。
それについては宇髄課長いわく、『あいつは体育会系だから、下のモンの面倒見がいいんだよ』ということで、なるほど、と思った。
そうやって面倒見が良いから、義勇だけではなく男女を問わず慕われているのだろう。
「義勇君、何か飲む?」
と、部署内でも綺麗どころとして名高いお姉さま達が、にこやかにメニューを差し出してくれている。
今日は新人歓迎会だ。
なので主役と言えば主役なのだが、他にも3名ほどいる同僚の新人を差しおいて、特に人気のある女性陣が全てこちらに来てしまっているので、なかなか視線が痛い。
それでなくてもお姉さまがたには、他の同期達は名字なのに、義勇だけ“義勇君♪”と、語尾に音符マークでも付きそうな勢いで呼ばれているところにこれだ。
そういう目で見られるのも仕方がないと言えば仕方がない。
だが、義勇に言わせれば、それは義勇の隣にいるイケメンのせいなのだ。
決して義勇のせいではない。
鱗滝課長補佐…
顔が良くてスタイルが良くて頭が良くてコミュ力が高くて、仕事もできるし、給与も良い。
さらに…一説によると非常に運動神経もよろしいだけではなく、料理も出来れば楽器も華麗に扱うらしいという完璧さだ。
そんな欠点がないのが欠点なんじゃないかと思ってしまうほど完璧な男が直属の上司で直属の部下だからという事で随分可愛がってもらっているので、彼の気を惹きたいちょっと自分に自信のある美女達は、彼が可愛がっている義勇を可愛がる事で彼の寵愛を得ようとしているのだと思う。
──こいつは俺が育ててる俺の子だからな
なんて、まるで育児に勤しむシングルファザーのような事を日々言うので、お姉さま達が一緒に育てたいとか思ってしまっているだけなのだ。
たまに同期だけになるとそう弁明をするのだが、それでも、
──役得すぎだろ、ちきしょー!!
と、日々言われている。
本当にその件についてはとばっちりだ、と、日々思う。
そんな新入社員生活も半月ほど。
少し遅めの新人歓迎会の席のことである。
たぶん課長補佐はモテすぎて、女性陣の誘いを断るのが面倒なのだと思う。
今もそんな美女の誘いなど全く興味なさげにビールを飲みつつ、義勇とは反対側の隣に座っている宇髄課長と談笑しているが、部下が下手に懐柔されて巻き込まれるのが嫌なのだろう。
片手にジョッキを持ったまま、
「飲ませすぎても困るし、義勇の分は俺が頼むから放っておいてくれ」
と、お姉様がたの差し出すメニューをつ…と、もう片方の手の指先で制して言う。
しかし美女軍団はあきらめない。
それでは…と、
「ああ、なんだか確かにあんまりお酒飲ませたら危なそうだもんね、義勇君。
じゃあ、ソフトドリンク頼む?」
と、さらに笑顔でメニューを差し出してくる。
だが、これは秘かに彼を不快にさせたらしい。
鱗滝課長補佐は
──…俺が頼むからって……言ったよな?
と、やや声を低くして視線だけをそちらに向けた。
口元は笑っているが、目が笑っていない。
そして…凍りつくような冷やかな空気を醸し出すので、さすがにまずい空気を感じ取ったのだろう。
「じゃあ、もし何かあったら声をかけてね」
と、義勇にひらひらと手を振って離れて行った。
正直いつも温かな笑みを浮かべているから気づかないが、完璧に整い過ぎたその容姿はそういう笑みを浮かべて居ないとひどくキツイ印象を与える。
機嫌のよろしくない課長補佐は怖い……
女性陣を寄せ付けるきっかけとなった自分の事も怒っているのだろうか……
そう思い始めると、乾杯のあとに課長補佐が選んでくれたビスコタ ホット チョコレートという名の甘いチョコレート味の温かいカクテルのグラスに添えていた両手が震えた。
ちびちびと飲んでいたそれはもうほぼ空だが、グラスはほんのりとまだ温かいのに、手が寒い気がする。
普通に悪意を向けられることに弱い上に相手は一番身近な上司だと思うと余計に恐ろしくて、泣きたい気分になった。
…もちろん、幼子ではなのだから、こんなところで泣くわけにはいかないが……
すると、手に軽く温かいものが触れる。
少し固い指先。
顔をあげると課長補佐が少し困ったように微笑んでいた。
「ごめんな。別に義勇に怒ってるわけじゃないからな?
そんなに緊張しないでくれ」
そう言うと、彼はいつもするように、義勇の手に触れていた手でくしゃくしゃと義勇の頭を撫でる。
「お前、頭も良いし気も利くし仕事も覚えるの早いし色々一生懸命やる良い部下だからな。
こういう席に慣れるまでは酒で不都合が起きないように俺がきちんとコントロールしてやりたいんだよ。
自分の限界とかわかるようになったら、別に自分で選ばせても、勧められるものを飲ませても良いんだけどな」
そんな言葉に力が抜けた。
気づけばいつもの課長補佐に戻っている。
ホッとして
「なんか怒らせて見捨てられて窓際にでも飛ばされるかと思いました」
と、冗談交じりに──実は半分本気で思っていたのだが…──言えば、
「そんなわけないだろう?
義勇は俺が初めて面接で採用決めて初めて1から手元で育てることにした、俺の子どもみたいなものなんだからな」
と、笑みをこぼす。
それを横で聞いていた宇髄課長が
「おいおい、お前が5歳の時の子かよっ?
そこはせめて弟だろうがっ」
と、ケラケラと笑いながら言うと、課長補佐は、そうだなぁ…と、じ~っと義勇に視線を向けて、そして
「でも義勇、22に見えなくないか?
スーツ着てなかったらどう見てもティーンズだろ」
とまた頭を撫でまわし、宇髄課長に
「それには同意だけどなっ…ミドルティーンだとしても、お前も小学生じゃねえか。
やっぱりせいぜい年の離れた弟だろっ」
と、突っ込みをいれられた。
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