ギルベルトにそっくりなフリッツをアーサーは溺愛するし、そのフリッツはアーサーに瓜二つのエディに夢中。
そんな子どもたちをエリザがたまに一人で預かって、ギルベルトとアーサーの二人きりの時間を作ってやりながら、その二人のやりとりを見て、日々楽しんでいる。
元々仲の良かった幼馴染3人というのもあるが、アーサーを中心に全ては和やかに8ヶ月ほどの月日が流れた頃……
「ギルっ!あんた何を仕込んでおいたのっ?!」
と、会社から帰宅するなり、キッチンへ駆け込むエリザ。
ギルベルトとエリザは忙しい時期が違うので、唯一アーサーが苦手な料理は二人のうち忙しくない方が担当している。
今はエリザが忙しい時期で、幼児がいることだしと、エリザ以外は先に夕食を食べて、アーサーが子どもたちの寝かしつけをしている間に、ギルベルトがエリザの分の夕食を温め直していた。
そこに息をせきって駆け込んできたエリザに、ギルベルトは温め中のスープを小さな皿に注いで味見しながら、
「まず手を洗え。話はそれからだ」
と、洗面所を指さした。
淡々としたギルベルトにエリザは文句を言おうと口を開きかけたが、こういう順序に関してはギルベルトは意外に頑固で譲らない。
なので言葉を一旦飲み込んで、洗面所で手洗いうがいをすませて、またキッチンへと舞い戻った。
その頃にはダイニングのテーブルの上には美味しそうな夕食が湯気をたてていたので、とりあえず席について、おそらく話をする体制に入っているのだろう、エプロン姿のまま正面に座っているギルベルトに、『いただきます』と手をあわせたあと、
「とりあえず何をしたか聞かせなさいよ」
と、言ってカトラリを手にとる。
「あ~…元嫁、もしかしてお前んとこに来たのか?」
と始めるところを見ると、この時期に元嫁が駆け込んでくるのは計画通りらしい。
エリザの帰宅を会社の前で待ち続けていたギルベルトの元嫁は、まるで猛獣においかけられでもしているかのように、真っ青で追い詰められた顔をしていた。
要件はお金の無心。
もちろん無心対象はエリザではなくてギルベルトなのだが、一応弁護士を通して交わした、離婚後は接触禁止で、破れば罰金50万の念書のことは覚えていたらしい。
そのため自分がギルベルトに直接接触する訳にはいかないから、伝えてほしいと言われたのだが、エリザは当たり前だが離婚前に着せられた濡れ衣を忘れてはいないし、連絡を取る義理はないと、それを振り切ってタクシーを拾って帰ってきた。
その事を話すと、ギルベルトは淡々と
「あ~、またお前にしつこく頼もうとするようなら、連絡したいなら弁護士経由で頼めと言っておいてくれ」
と言う。
「…弁護士経由で依頼が来たら、出すの?」
「いや?出したら意味ねえだろ?」
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべるギルベルト。
ああ、そうだった。
こいつは自分以上にアーサーを溺愛してるんだから、アーサーを泣かせた相手を放置するはずがないのだ…と、エリザは今更ながら気づいた。
そして、そうやって敵を追い詰めるということに関しては、自分などより、よほど容赦のないことも…
「で?聞かせなさいよ。どんなトラップ仕込んどいたのよ」
とエリザが焦れて言うと、ギルベルトは自分用にマグにコーヒーを入れて再度席に落ち着くと、楽しげに口を開いた。
「別に8ヶ月前に言った通りだぜ?
あれじゃね?離婚して俺様が名義人じゃなくなったし、ローン払いきれなくなったんじゃね?」
「…あんた預貯金1400万残してきたって言わなかった?」
「おう、言ったな」
「…じゃあ、払えなくなるの早すぎない?
ローンあるのに、そのお金使い込むとかはしないでしょうし…」
「あ~…でもな、マンションのローンて、月に200万だからな。
7ヶ月で貯金なくなるぜ?」
「はああ???」
「あのマンションのローンは全額で1億6千万な。
で、ちゃっちゃと返したかったから頭金1600万で1億4400万を200万ずつ6年ローンで買って1年経過した感じだな」
「ちょ、なんて無茶なローン組んでるのよっ!!
うちの会社、あんたにそんなに給与払ってたっけ?!!」
「いや、独身時代に暇つぶしに株やってて、それで数億ほど稼いでたし?
キャッシュで買っても良かったんだが、今金利安いし、ローン組んだ方が税金減ってお得かなと思ってローン組んだだけだから。
で、ローンはそっちの金から出してたんだけど、それとは別に増えすぎた本とか趣味の諸々預けんのに部屋を借りててな、元嫁専業だったから、給与の通帳はまるごと渡してて、毎月その倉庫代は部屋代って言って月に15万ほど出してたから、たぶんそれがローンと勘違いしてたんじゃね?
月給150万くらいを丸々渡してても貯金もしてる様子なかったから、たぶん、金に関してすげえどんぶりな女だったし」
「つまり…月15万を5年払い続ければローンが終わると思っていたから、貯金をそのまま置いておくだけで払い終わるはずだしってことで、残金見てなかったってこと?」
「ま、たぶんそういうことだろうな。
浮気相手もたぶん嫁が勘違いして、すでに4000万払い終わってて、あとは5年間☓15万=900万円払えば終了とか言うのを鵜呑みにして、契約書よく見ないでサインしたっぽいしな。
実際は5年間☓200万=1億2千万のローンが残ってたりするわけだが…
ローン払えないからと売っても中古で値段下がるし、負債だけ残る感じだよな。
負債背負いながら家賃生活プラス…」
「プラス?」
「そろそろ送った内容証明つくと思うから大騒ぎだな」
「内容証明?」
「おう。慰謝料請求のな」
「は?あんた慰謝料請求しないって誓約書書いたんじゃないの??」
「俺様が慰謝料請求しないって誓った対象は”元嫁”な?
今回請求するのは”浮気相手”の方」
「ふ~ん。あの浮気知ってから離婚までの短い間に弁護士探したり財産分与の手配とかしながら、よく証拠集められたわね。
しかも元嫁、あんたが浮気のこと知ってるって知ってたわけでしょ?」
「おう。知ってたからな、証拠集めんのも簡単だったぜ?
元嫁が会う日とか教えてくれたし?」
「はぁ??どういうことよ??」
「離婚知って2日後には離婚の話したんだけど、その時に元嫁には養育費や慰謝料請求しないこと、財産分与とかも普通よりは多めにしてやること、もちろん訴訟とかせず、普通に円満離婚する方向で話もちかけたから、元嫁が浮気相手と会う日は俺様がフリッツの面倒見るから教えてくれって言ったら、普通に教えてきたぜ?
で、あとは興信所にその日に嫁のあとつけさせたら楽勝!
いつどこから出発というのもわかってて、さらに元嫁も隠す気全然ないから堂々と出歩いてて、興信所にもこんな楽な尾行は珍しいくらいですって言われてた」
と、説明されて力が抜けた。
ギルベルトは賢くて几帳面な男なのに、なんでこんなに頭が弱い女と結婚していたんだろうと思う。
まあもうそこは突っ込んでも仕方ないので、エリザは淡々と次の質問を投げつけることにした。
「なるほど。で?慰謝料は結構な金額請求したの?」
「いや?1万」
「はぁ?手間暇考えたら請求しないほうが良いくらいの額じゃないの?それって」
そのあまりにささやかな金額に驚いて言うエリザにギルベルトは澄まして言う。
「それについては相手もそう思うだろうから、説明の手紙つけてる。
あれからこちらも問題なく生活しているし、風の噂でそちらも無事再婚したとは聞いてるので、互いに良かったとは思ってるけど、半年の間に離婚原因と円満離婚について知った友人達が有責側から慰謝料取らないとかについて怒ってて、もう下手すると逆にそちらに迷惑かけそうだから、形式的に1万だけ請求させてくれって」
「…はあ?」
その言葉にやはり意味がわからないエリザ。
その反応に構わずギルベルトはやはり淡々と続ける。
「それでな、俺様接触禁止で相手の住所知らねえし?
内容証明は弁護士に会社宛に送ってもらっておいたから。
一応、社会人として公私混同するのはいただけないんで、仕事で一緒だったことがあって顔見知りの向こうの上司に、ちょっと接触禁止の誓約交わしてるせいで自宅住所がわからないから会社の方に私的な郵便を送らせてもらったので申し訳ないっていう詫びもちゃんと入れておいた」
と、その言葉にエリザは口に含んだスープを吹き出しそうになって慌てて飲み込んでむせた。
繰り返すが…相手はこちらの会社の出入り業者だ。
あちらからしたら、こちら側の会社の人間は間違っても怒らせてはならない相手である。
そんな会社の出世頭のエリートの嫁を寝取って略奪婚しましたなんて事が知れたら、たとえ相手が怒っている様子をみせていなくても、会社は大騒ぎ。
本人は良くて減給、左遷。最悪解雇だろう。
それでなくともローンが払えず、おそらく多額の負債を背負うことになるのに、追い打ちをかけてそれである。
「…それ…下手すれば社会的にどころか、物理で死ぬんじゃない?」
と思わず言えば、ギルベルトはにこにこと人の良さそうな笑顔で
「俺様は誰も傷つけようとはしてねえよ?
元嫁がアルトを傷つけた事に関してはすげえ悲しいし、アルトには本当に申し訳ないとは思っているけどな?
別に奴らが周り中から欠片も同情をしてもらえる要素を与えられずに虫けらのような目で見られて、多額の負債を抱えた上に失職して、困窮して地獄の底まで落ちてしまえなんてぜんっぜん思ってねえから。
だから調停も裁判もせず、相手が有責でも元嫁が無職だったから慰謝料も取らず、再婚の枷になるだろう息子を引き取って養育費も請求せず、むしろ財産分与として、すでに4000万払込済みで残りローンもあと5年しかない物件を相手に譲った上で、預貯金も約半額渡して、相手と再婚して幸せに暮らして行けるように取り計らったわけなんだが?
激高した周りが浮気相手に直接迷惑をかける事を危惧して、本当に要求するほうが金と手間暇かかるんじゃね?って額の慰謝料を請求という形をとって相手を守ったくらいだし?
でも知るすべのない相手の住所に送れなくて、相手の会社にそれを伝える旨の手紙を郵送という形になるから、相手が私用で会社の住所を利用してという形になると悪いなと、相手の上司に自分の都合で会社に送ることになったので会社に届いたのは相手のせいじゃないからと、説明と謝罪までいれてる。
もう、すっげえ気遣いしてんだろ?
単に相手を追い詰めたいだけなら、ふざけんな、人の嫁とお前のとこの社員が浮気してんぞ、ごらぁ!って会社に怒鳴り込んだ上で、二人から慰謝料ぶんどって無一文で放り出せばいいだけだし?」
と言う。
傍から見ると、実にその通りなのが、恐ろしい。
全てこちら側は善意と思いやりでという形を取り続けたというのは本当に凶悪だ
実際はその“気遣い”をしないパターンなら、無一文といっても多額の負債までは背負わないし、だいたいの人間には白い目で見られるにしても、稀に浮気された夫の方も大人げないとか、会社を巻き込むななどと、見当違いの非難をしてくる輩もいる。
が…ここまで一見”相手のため”に動く元夫を演じられると、そこまで良い人を裏切って踏みにじった上に、実際、多額の財産分与を受けているという形なので、普通は遠慮するところなのにもらう物はもらっていく図々しい恥知らずの人非人と、さらに周りからの視線は冷たくなる。
金銭的にもおそらく千万の負債を背負って無職。
周りに同情してくれる相手もなしで、助けも望めない。
確かにギルベルトはいつも面倒見が良くて感情的になることのない人間だったので、周りにしても甘えてしまいがちだし、実際、苦言は呈したにしても、最終的に面倒をみてくれてしまうのだが、そんな皆の兄貴でも、絶対に譲れない部分というのはあるのだ。
そうとは知らずに、その竜の逆鱗とも言える部分に不用意に手を出し踏みにじって地獄への道をまっしぐらに爆走することになってしまった元嫁と浮気相手に対して、エリザはここに来て初めてほんの少しだが哀れみのようなものを感じた。
実家が裕福で色々力があり、自らも色々優れていた事もあって、怖いもの知らずと言われているエリザではあるが、そのエリザですら、祖父や父など、怒らせてはならないと思っている相手は数人いる。
そしてこの件で、その本当に僅かな相手の中に、この幼馴染の名も刻まれる事になったのであった。
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