茂部太郎が近づいてきたことにすら気づかなかったのだろう。
目の前の天使のように綺麗な同僚は、びっくりしたように顔をあげた。
当然そのくるくるとまんまるの目が零れ落ちるようなことはなかったが、そのかわりにその目尻にあふれ出た透明な雫が零れ落ちた。
しかしそれだけでも茂部太郎を動揺させるのには十分すぎる出来事である。
なにしろ彼は物心ついた時から、まさに名は体をあらわすとばかりに、モブにふさわしい人生を送ってきたので、こんな風に世の中から見て主人公クラスの人間がどこか沈んで涙をこぼすような場面に立ち会うことはなかったのだ。
そういう場面に立ち会うのはたいてい、やはり主人公クラスの…そう、たとえば目の前で泣いている彼の直属の上司の社内一のキレ者でイケメンと名高いバイルシュミット課長補佐のような人物のはずである。
「え?え?どうしたの?どこか痛い?」
などと、まるで子どもの様な反応しかできない茂部太郎に、彼は
「どこも痛くない…」
と、こちらもなんだか子どものようにかぶりを振り、そして目の前に立つ茂部太郎をみあげて言った。
「突然なんだけど…」
「うん」
「茂部君は一人暮らし?」
「そう。大学からこっちに出てきたから、ずっと一人暮らしだよ」
あまりに唐突な質問に戸惑いながらもそう答える茂部太郎だったが、それに続く言葉にはもっと戸惑うことになる。
「あの…しばらく…住居が見つかるまで…なるべく1週間以内くらいでなんとかみつけるから、茂部君の家に泊めてもらえないだろうか…」
「は???」
いや、別に拒否の言葉ではない。
あまりに突然の申し出だったので思わず聞き返してしまったわけなのだが、それを呆れとか何かマイナスな感情と受け取ったのだろう。
彼は
「ごめん…でも他にお願いできるような相手がいなくて…
無理なら荷物だけでも預かってもらえないかな?
トランク2つ分くらいに収まる程度だと思うから…」
と、肩を落とす。
「ちがっ!!違ってっ!!!
突然だったからびっくりしただけっ!!
もちろんカークランド君ごと泊まってもらってぜんぜんかまわないよ。
今カークランド君が住んでいる家ほど広くも綺麗でもないけど、それでも良ければ…」
と、茂部太郎が慌てて否定すると、彼はまたびっくり眼で茂部太郎を見上げて、そしてふわりと笑みを浮かべた。
「ありがとう。恩はできるだけ早いうちに返すから」
と、彼は律儀に言うが、そもそもが茂部太郎の方が先に返しきれないほどの恩を受けているのである。
それに、本当に何度も繰り返すが、彼は成人男性に見えないくらい愛らしい天使のような青年なのだ。
茂部太郎は根っからのモブ気質で、どんな物語でも自分が舞台の上にあがったり主人公やヒロインとどうこうなろうと思う気持ちは欠片もない、そういう意味では限りなく安全な男だからいいが、普通の男に彼みたいな可愛らしさの塊のような人間が泊めてほしいなんて持ちかけたら本当に危ないと思う。
貞操の危機だ。
そしてそんな事態を巻き起こす原因を茂部太郎が作ったなら…今彼を目ざとく見つけて自身は見つからないように公園の外からガン見しているのであろう上司エリザに確実に殺される。
そう、別に泊めるのが嫌とかはまったくないが、嫌だったとしても茂部太郎に拒否権など欠片もないのである。
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