「…ギルだ」
「…ギル…さん」
「…ギル…」
「…ギル?」
「ん、なんだ?」
未だ慣れない名前の呼び捨て。
でもどんなにぼ~っとしていても、課長補佐は絶対に呼び方が違うと名前で呼ぶまで訂正してくる。
それまではプライベートまで知っていたわけではないので、それがスタンダードだと言いきられれば否定は出来ないわけなのだが、いつもキビキビしているイメージの課長補佐は同居を始めてからどこか静かと言うか、何か考え込んでいるような感じに見える。
まあそうやって呼び名のようにこだわるところはこだわるわけだから、別に何か他に気がいかないほど悩んでいるとかそういうわけではないのかもしれない。
それでもなんだか気になってしまって、アーサーはカトラリを置いて課長補佐…もとい、ギルを見あげた。
毎朝4時半に起きてランニングと筋トレ、その後シャワーを浴びて朝食の支度。
それが1人で暮らしている時から変わらぬ彼の習慣だとのことで、それはアーサーと同居しようと休日だろうと変わらない。
そのため一応軽くは乾かしてはいるものの、乾き切らずにぺしゃんと半分濡れた銀色の髪。
平日は食後に着替える時に完全に整えるのだが、休日はそのままあとは自然に任せている。
普段より少し気を抜いた課長補佐。
だが、これだけのイケメンだとそれもだらしなさなどを感じることはなく、むしろその自然体さがカッコいい。
家賃無料、3食おやつ付きと、とてつもなく高待遇のこの生活に少し慣れてきてようやく自分以外のことに目を向ける余裕が出て来たアーサーがまず気になったのは、夜と朝の課長補佐の様子である。
当たり前なのだが引っ越し2日目にアーサーのベッドが届いて以来、アーサーは課長補佐とは別々に自室で自分のベッドで眠っている。
夕食を食べて片付けを終えて少しだけリビングでくつろいで、21時10分前ほどになると、課長補佐は毎日どことなく落ちつかない様子で自室へと戻って行く。
アーサーはその時により、そのままリビングでDVDを見たり自室に戻って刺繍を刺したり本を読んだりと、23時くらいまで時間を潰したあと、寝る支度をして寝るのだが、その翌朝、ダイニングへ行くとどこか元気がない課長補佐に会うことになるのだ。
元々朝が弱いと言うわけではない。
アーサーが胃痙攣でお世話になった3日間は、朝から非常にテンションが高かった。
そもそもがずっと昔から4時半起きでジョギングや筋トレをしている人間が朝に弱いわけがない。
アーサーの目から見ても疲れている…というよりは、どこか落ち込んだ風に見える。
自分ごときが口を出して良いのだろうか…と思いつつ静観していたが、この1週間、日に日に落ち込みがひどくなっていくような気がして、アーサーはとうとう口を開く決意をした。
そうして何度か呼び方を正されながら、最終的に──ギル…──と呼ぶと、食後にアーサーが淹れた紅茶を飲んでいた課長補佐は、──なんだ?──と、いつもは生き生きとしているのに今はどこか憂いを帯びた様子の綺麗な紅い瞳をアーサーに向けた。
それは紅茶のカップに落とされていた時には物憂げだったのに、アーサーの声に反応してこちらに向けられるわずかな間に、まるで保護者が子どもに向けるような、どこか温かくも優しい色を醸し出していく。
そんな目で見られたのは本当に母親以来で、その視線を見るたび泣きたくなってしまう。
今も課長補佐の心配をするつもりだったのが、ひどく懐かしくも切ない気分になって、じわりと涙が浮かんできてしまった。
すると課長補佐は少し驚いたように目を見張って、すぐまた優しい顔をこちらに向ける。
そうして手にしたカップをテーブルに置くと、アーサーの隣まで来て、大きな手でアーサーを自分の方へと引き寄せて、よしよしと言うように背中をぽんぽんと叩いてなだめてくれてしまう。
「急にどうしたよ。
なんか嫌な事でも思い出したのか?」
と言う声は静かなのにとても温かく、許容されているという安心感に緊張がほぐれすぎて、思わずそのまま本泣きをしてしまった。
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