(…胃が…)
戦場まではあと数時間。
夜も更けたので敵に接近する前に野営をする。
戦闘に備えて休まねば、と思うものの、胃痛で眠れない。
しばらく寝床でゴロゴロしていたが、やがて諦めて景虎は身を起こした。
単なる物知らずな子供相手にあそこまで辛らつに言う必要はなかったのだ。
この事が戦闘に響かねば良いが…などとまた胃が痛むような事をわざわざ考える。
今回の戦はこのところ続いていたつつきあいではなく、久々の陣取り合戦であった。
それはすなわち、信長がしばらく休止していた領土の拡大を再開したという事であり、これからはかなり本気の真剣勝負が続く。
恐らく羽芝軍も近いうちに本拠を京から前線の城に移す事になるだろう。
つまり、これはこれから始まる本格的な戦への前哨戦のようなものということだ。
つるぎはまだその重さに気づいていない。
単純に連戦連勝の軍で剣をふるう事を楽しみにしているのだ。
確かに今回は後ろに信長が控えている。
万が一負け戦であっても、せいぜい自分や秀吉が降格される程度の事だろう。
しかし万が一、が、取り返しのつかない事になるような戦が始まるのも遠い事ではないのだ。
つるぎは小刀の事でかなり衝撃をうけていたようだが、この先そういう自体が起こる事も充分ありうるのだ。
そうなった時に…自分は平静でいられるのだろうか…
キリ…と胃がまた痛む。
(しっかりしろ!)
景虎は自分を叱咤する。
強く…冷静に。余計な事を考えるな…。
痛む胃のため丸くなりかける背を伸ばし、禅を組む。
息を整え、無心を保とうと静かに目を閉じた時、後方でガサっと音がした。
「つるぎ…か」
他の者にしては影が細い上に立ち振る舞いが静かだ。振り向かないでもすぐわかった。
「景虎、起きているなら少し…いいか?」
「うむ」
つるぎにしては珍しく弱気な声音に、景虎は禅を組んだまま答える。
景虎の穏やかな声音に、つるぎがほっと緊張を解く気配がする。
「先ほどは言い過ぎた。悪かったな。
お前が色々な事を知らんのは当たり前だ。
叱責する前に普通に説明すべきだった。
オレも…久々の陣取りで少し気が回らなくなっていたらしい。
…修行が足らんな」
しばしの沈黙の後、口を開いたのは景虎の方だった。
「い、いや!あれは全部私が悪い!命のやりとりをする場で無知は罪だ!
もっと色々前もって学んでおくべきだった!」
あわてて否定するつるぎ。
半分八つ当たりだったと思う。
たぶん秀吉も言いすぎだと思っていただろう。
説明もなしに叱責されて、まず自分の無知を恥じるつるぎを見て
(生真面目なやつだな…)
と、景虎は自分の事は棚に上げて思う。
つるぎは景虎と同じく羽芝軍においては異質な人間なのだ。
秀吉と同様、景虎もまた、それを感じていた。
「お前はいつかオレに何かあった時、オレの位置に立つ人間になるのだろう」
ただの宮中でのんびり過していた貴族の子供ではない。
つるぎの知識や太刀筋は、世の中をよく見知った者、おそらく信長自身が手塩にかけたものだろう、と景虎は気づいていた。
そして信長はこれから始まる長い日の国征伐において、そういう日がくる可能性もあるだろうと見越して、つるぎを寄越したのではないか、と景虎は思う。
「本気で目を凝らせば、お前にはオレに見える物が全て見えるはずだ。
オレも自分にわかる事はお前もわかっているはずだと錯覚を起こして、ついつい説明不足になるんだが…」
景虎の思いもしなかった言葉に、つるぎはその場に立ち竦む。
「これから言う事をよくきけ、つるぎ。
オレ達は羽芝軍の中では異質な存在だ。代わりはいない。
だからこそ…他の者よりも特に生きる時死ぬ時をわきまえねばならん」
景虎はそこで、長くなる、まあ座れ、とつるぎにうながす。
つるぎは無言でうなづいて、その場に正座した。
「陣取り合戦のような真剣勝負では、死人を出さずにすむのは皆無と言っていい。
今回の戦はその前哨戦のようなものだが、それでも全員無事にとはいかんだろう。
誰が死んで誰が生きるか…それは個人の資質よりはどの位置でどういう役割を与えられたかによる所が大きい。
オレ達は自分をも含めてその全員の生死を決める事になる。
死に近い場所、死に遠い場所…オレは常に自分をその中間に置く事にしている。
そして…オレの位置まで敗北が迫ってきた時が退き時だ。
全滅近くなってからでは撤退はできん。
間違うな。
短期戦と違い長期的な目的がある戦では敗北が見えたら大将を無事撤退させ再起にかけるのが、オレ達の最も重要な仕事だ。
残りの軍と知識の限りをそれに費やすんだ。
軍師が死ぬとしたらそれは戦に勝つためではない。大将を逃がすためだ。
可能な限り生きて敵を食い止める策を練り、必要なら自分をもその道具に使え。
オレがいるうちはそれはオレの仕事だが…オレが死んだら次の戦からはそれはお前の仕事だ。
一番大事なのは撤退の時期だ。それをとにかく肝に命じろ。
時期を見失うな」
景虎から教えを受けるのは初めてだ。つるぎは一言一句聞き逃すまいと息を詰めて聞き入る。
「今回お前が立つ位置は、大将の護衛。死から2番目に遠い場所だ。
ただし何より重要で忍耐が必要で…一番つらい場所だ。
お前の一番の仕事は、大将に危険が迫った時、何を捨てても血路を切り開き、大将を無事安全な場所に運ぶことだ。
そのためにはあえて味方の屍を踏みつけていく事も厭うな。
秀さんにもたぶん恨まれるだろうが、騙してでもぶちのめしてでも安全な場所に逃がせ。
余計なものを見るな。
目的以外の事を考えるな。
気を強く持て」
つるぎは無言でうなづく。
「そして…いざ敗戦、撤退となったら、常に大将につきそい、二人きりになったら
少しでも多くの敵を少しでも長く自分にひきつけろ。
お前のその剣筋を見る能力はきっとその時にこそ大きな力になる。
そして…酷なことをいうようだが…」
と不意に景虎がその秀麗な顔をしかめた。
「腕の一本、足の一本なくなろうと、血反吐を吐こうと、絶対に大将をおいて死ぬな。
命の限り大将が撤退する手助けをするんだ」
そこで景虎は息を吐いて座禅をといた。
「まあ…こんな外道な事も考えねばならん輩だ、軍師なんてのは…」
つるぎの方に体をむけ、自嘲まじりにつぶやく。
戦の重さ、凄惨さを景虎の話から感じ取りながらも、つるぎはそんな重責を
常に背負いながら、毅然としている景虎はすごい、と思った。
自分はそこまで情に流されずに色々決断できるのだろうか…
「あ、あと二つ言い忘れてたか…」
そんな事を考えていると、景虎が再び口を開いた。
「もし自分が軍師の位置に立ったなら、不安を表に出すなよ。
策をたてた本人すら不安になる策など、誰も怖くて実行できん。
やせ我慢でも良いから自信満々に進言して、実行する段階で思い切り苦しんでおけ」
景虎の言い草に思わずつるぎは笑った。
「天才と言われる連戦連勝の男でも策に自信がない時なんてあるのか?」
つるぎの問いに、景虎は
「何を言うか」
と肩をすくめる。
「いくら後ろで控えておけと言っても、肝心の御旗の大将が先陣切って特攻するんだぞ?
策自体が完璧に練れてたとしても流れ矢でも当たって死んだら終わりだ。
戦の前は胃が痛んで眠れん」
「なるほどっ」
さらに噴出すつるぎ。
「まあ、あれだ。今回は私がサルを守ってやる。大船に乗ったつもりでいろ」
請け負うつるぎに、景虎は
「そう願いたいものだな。調子に乗って自分も夢中で特攻するなよ」
と軽く釘をさす。
「まあどちらにしても…策はあくまで机上での予測にすぎん。
実際は大勢の人間が動く以上、色々予測のつかない事態も起こる。
不安は常に感じておいて間違いは無い。
自信満々で疑いを持たんでいると、いざ事故が起こった時に気持ちの準備が出来ずに対処が遅れる」
なるほど。
「あと、最後の一つだ」
景虎は続けた。
「オレが死んでお前が羽芝軍の軍師になったら、早めに後継者を育てておけ。
保険がある、という気楽さもあるが…」
そこでいったん切って、少し表情を柔らかくする。
「本音や内情を話せる奴がいると、少し気が楽になる。今知った」
自分は少しは景虎の役にたっているのだろうか…
景虎の言葉につるぎの顔が少しほころぶ。
天才軍師と呼ばれる男。
みんな景虎がいれば勝利を疑わない。
本人もそうなのかと思えば、心中は不安、自嘲、悔恨、重圧、色々な感情がうずまいているらしい。
しかし、強い完璧な人間だと信じてた頃よりも、弱さを押し込め強くあろうとするその景虎の姿勢に、つるぎは尊敬の念をさらに強くした。
「兵法などはどうせ一通り大殿から教わっているのだろうから省いたが、軍師の心得と今現在のお前の立ち位置はやはり一応説明しておくべきだろうと思った。
長く引き止めて悪かったな。明日は本番だ。お前も早く休んでおけ」
そう言い置いて、景虎も横になる。
「…眠れないんじゃないのか?」
自分を休ませるための方便か、と思ってつるぎが聞くと、背を向けて横になった景虎は
「いや、おかげで胃痛が治まったようだ」
と背をむけたまま答えた。
「そっか」
つるぎは足取り軽く立ち上がる。
「つるぎ」
そのまま自分の陣に戻ろうとするつるぎに景虎が声をかけた。
「ん?」
つるぎが立ち止まって振り返る。
「わからん事があったら聞け。答えられる範囲で答えてやる」
と、景虎は軽く手をふった。
「ああ、そうする!」
応えるつるぎの声は明るい。
(信長…戦は綺麗なものでも楽しいものでもなかったぞ)
つるぎは心の中で語りかける。
(でも…夢や志は素晴らしいものだ。
それを間近で見てまた共有できる、それは素晴らしい経験だ)
秀吉が好きだ。
景虎も、茂助も他の羽芝軍の面々もみんな好きだ。
つるぎは思う。
願わくば…少しでも長くこの素晴らしい男達と夢を共有できますように…
少しでも長く…
床の中でそんな事を考えながら、いつのまにか意識を手放すつるぎ。
静かなその寝息を包み込みながら夜はふけていった。
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