「やばい!身支度に時間をかけすぎたか!」
羽芝邸に向かう前夜、ほとんど眠れないままつるぎは朝を迎えた。
上には信長が強引に話を通して、つるぎはとりあえず信長の預かりとして、その実秀吉の所に向かう手はずになっていた。
景虎と並ぶどころではない。初日から刻限に遅れるようでは家臣失格である。
「はいっ!」
駿馬の腹を思い切り蹴り上げ、馬を疾走させる。
見慣れた信長の城の横を脇目も振らず、一目散にかけぬける。
まにあったか!
息を整える間もなく、つるぎは馬から飛び降りた。手近な下男らしき男に手綱を渡して周りを見回す。
「剣(つるぎ)だ」
と名乗った後、ふと一人のあきらかに他の者とは違うオーラをまとった武将に目を留める。
(これが噂の…)
すらりと引き締まった体躯で身のこなしにいっぺんの隙もない。
顔立ちは人目をひくほどに整っているが、その眼光の鋭さから近寄りがたい印象を与える。
その人物は土農の出身と聞いていたが、貴族と言っても不自然に感じない威厳と品位が備わっていた。
なるほど、これが天才軍師をも惹きつける武将なのか。
自分の主になるであろう武将を前にして、つるぎは柄にもなく言葉を失った。
名家で知られる家系の跡取りとして育てられた自分が気後れしている事実に驚くと共に、何故か不思議な満足感を感じながら、つるぎは緊張を押し隠して言葉を搾り出した。
「貴公が羽芝秀吉か。今日より世話になる」
他人の下につくのは初めてだ。なのに思いのほか屈辱感を感じない。
むしろ神聖な気持ちだった。
(信長、確かに世界は広い…お前の言う事に間違いはなかった)
やや離れた城にいるであろう信長に思いをはせ、感慨にひたっているつるぎの横で、耳障りなダミ声が響いた。
「あのね~。君だれ?失礼でしょ。オレ!オレが秀吉!
世話になる相手にいきなり馬の世話させる?
ていうか、君ホントなに?今日は大殿から家臣、もとい秘書を遣わして頂くんで、忙しい…」
(え・・・?)
振り返るとさきほどの下男らしき男が叫んでいる。
雅さのかけらもない、粗野な物腰。
熊というか猿というか…とにかく獣を思わせるようなむさ苦しい髭面。
これが…秀吉?
…ス~っと一気に夢が冷めていく。
「私だ」
とりあえずその耳障りなダミ声を黙らせるべく、つるぎは言った。
「だから私がその家臣、つるぎだ。そうか、貴様が秀吉…なるほど、サルか」
確かにサルだ。サル以外の何者でもない。
サルだ、サルだ、サルだ….。
「あ~の~ね~!君初対面の人間にさりげなく失礼な事言ってない?おぢさんだって怒るよ?
ねえ?家臣て何?
おぢさんが待ってるのは綺麗なお姉さんなの!生意気なクソガキじゃないの!うぐっ!」
唖然としつつ、食い下がる男のみぞおちに反射的に拳をうちこむ。
「まあ、落ち着け。だから私だと言っている」
自分の主が本当にこの粗暴なサルのような男・・・なのか・・・?
後頭部をいきなり殴られたようなショックを受けつつも、幼い頃から植えつけられた名家の人間としてのたしなみが、かろうじて感情をそのまま外に出すのを押しとどめた。
しかし表面上は平静を装いながらも、頭の中では混乱した思考がグルグル回っている。
そんなつるぎを救ったのはさきほどの武将だった。
「貴様がどう思おうと、とりあえず貴様の上司だ。いきなりみぞおちはやめておけ」
怒るわけでもなく、恐れるわけでもなく、ごくごく落ち着いた声でそういって、サルが落とした手綱を拾うと、後ろの若い者にそれを渡す。
その落ち着いた態度につるぎも平静を取り戻した。
そして
「そうだったな、すまん。むさい顔でいきなりまくしたてられたのでつい」
と、つるぎなりに素直に詫びをいれる。
それからその武将にもう一人くる予定らしい部下の事を2,3聞かれたが、それについては何もきいていなかったので、つるぎが何も知らない事を告げると、その武将はそうか、と短く答えて、馬を馬屋につないで戻ってきた若者につるぎを部屋に案内させるように命じた。
「お前は?」
館の中を部屋に向かう途中、つるぎは案内の若者に声をかけた。
「オレは茂助といいます。堀川茂助。戦では秀吉様の下で槍ふるってます」
若者はまだ少年と言ってもいいくらいの印象を受ける。元服したてくらいだろうか。
素朴な人のよさそうなこの若者が、すでに戦場の第一線で活躍しているのか。
「要は…大将直属の部下ということか?」
「そうとも言いますねぇ」
茂助はあっさりと言い放った。
「そうともって…なんでそんな奴が馬番なんてやってるんだ?」
つるぎは驚いていう。
「なんでって…ここではみんな普段はそれぞれ仕事持ってるんですよ~。
大殿の所に参内するのは殿と景虎さんくらいですから」
茂助は当たり前のようにいった。
「馬の世話も基礎体力はつくし、良い鍛錬になりますよ~」
(これが…外の世界なのか)
自分がいた世界とはあまりに違う世界。信長が見せたがっていた世界とはこういうものなのか・・・
茂助はさらに
「下手すると殿ですら暇だと庭はいてたりしますからねぇ」
とありえないような話をする。
でもまあ…サルがさっさと庭を掃いてる図を想像するとなんだか笑える。
つるぎはプッと噴出した。
「威厳もクソもないな」
笑うつるぎにつられたように茂助も笑う。
「そうですね。でも良い人ですよ。殿は。それに…」
「それに?」
「普段偉ぶらないだけで戦場では別人です」
「そうなのか?」
「はい」
半分疑わしげなつるぎの問いに、茂助はきっぱり答える。
「殿は槍の名手なんですよ。景虎さんは刀で。でもたぶん腕は互角です。
違いは…策を練る人間と指揮を執る人間てとこですかね」
本当なのだろうか…あのサルが?
「景虎さんは…見るからに優秀な武将って感じですからね」
まだ疑わしげなつるぎの表情に、茂助は苦笑した。
「あ、ちなみに、つるぎさんが最初に殿と間違えたのが景虎さんです」
(やっぱりそうだったか)
まあ…景虎に関しては最初に持っていたイメージは裏切られなかったわけだ。
しかし肝心の主君があれでは…
ため息をつくつるぎに、茂助はにっこり笑って言った。
「大丈夫。長く一緒にいれば絶対に殿の良さがわかってきますよ。
はい、部屋につきました。
一応一通り生活できるものは揃っていると思いますが、何かありましたらオレに言って
下さい。
あと下人とか必要なら、ご要望の通りに手配しますので、それもオレにどうぞ」
食事になったら呼びにきますね、それまでごゆっくり、と言い置いて、茂助は去っていった。
部屋は自宅に比べたら質素なものだった。
だが元々剣術以外にさして興味のないつるぎには、まったく気にならない。
つるぎ自身、自宅から持参したものは、必要最低限の物だけだ。
その中には信長から与えられた医術や兵法の書なども含まれていた。そのほかは愛用の竹刀、太刀の数々。とても貴族の娘の部屋とも思えない。
家具なども必要最低限しか持ち込まなかったので、広さは充分ある部屋はガランとしていて
殺風景な印象すらうける。
それはまさに今の自分のようだとも思う。
あれほど窮屈だったものを色々捨ててきたら、残ったものは意外に少なかった。
これからここで新しい生活続けていけば、この殺風景な空間も埋まっていくのだろうか。
生まれて初めて自由を得て、つるぎは大きく深呼吸をした。
ここまでのレールは信長が引いてくれた。しかしここからは…自分自身で道を切り開いて
行くのだ。
気持ちを新たにつるぎは姿勢を正して信長のいるであろう城の方を向き、合掌した。
後ろの言葉と混交されたのかな?と思ったので念の為「一目も振らず」→脇目も振らず…若しくは一目も振り返らず、ではないでしょうか。ご確認お願い致します。_(_^_)_
返信削除