前世からずっと番外3_26_アスワング

「ムラタ、アスワングってなんだ?」

その日、いつもよりはやや早い時間に帰船した錆兎の第一声がそれだった。


「あ~…伝承の中の化け物?
なんで?
ここいらより、どっちかって言うと、北東の方の言い伝えだよ。
マニラのある大きな島の南の小さな島々のあたり。
まあ、交易その他で行き来があるし、向こうからこっちに渡って来て住み着いてる人もいるから、東南アジアの人間なら知ってても不思議じゃないけど…俺も南西の人間だけど知ってるし」


普段ならまず、義勇にただいまをして、おかえり、と、抱き着く義勇を抱きしめて、それからしばらくは『一緒に行きたかった』という義勇に『お前は可愛すぎるから無頼も多い夜の酒場なんかには連れて行けない』などと一通りお約束のイチャつきがあって、その後、ようやくムラタの存在に気づいたとばかりに、ただいまを言われるわけなのだが、今日はなんだか違った。

大切な義勇にただいまを言う間も惜しむように、まずムラタに投げかけられる質問。

ムラタの方も色々聞きたいことはあるものの、先に錆兎の質問の方に答えてやると、彼は片手を腰に、片手をあごにやって、その場で考え込む。

「えっとね、西洋でいうバンパイアってわかるかな。
吸血鬼ともいうけど…。
あれの東南アジア版?
ただ細かいところは結構違ってて、西洋のバンパイアは日の光を浴びると灰になっちゃうから日中で歩けないんだけど、アスワングは日中は普通の人間の姿形をしていて人間みたいに生活してんだけど、夜になると魔物になって人を襲って喰うんだ。
ずっと人型のバンパイアと違って、アスワングは夜になると上半身は猿みたいに毛深くて、鋭い爪を持ち、背には翼が映えてて素早く空を飛んで移動できるって言われてるよ」
と、さらに付け足すと、錆兎は顔をあげて、

「そいつがな、クーン商会の船が停泊していた頃に出没していたらしい。
人気のない道端で現地の村人が爪のようなもので胸を切り裂かれて心臓を喰いちぎられたような遺体でみつかったそうだ」
と指先で自分の左胸をトントンと軽くたたく。

「…うあ……それは……
それは…その時期だけ?」

「ああ。船が停泊していた1週間に5,6人。
それまではそんなことはなく、そして、船が出航してからもない」

「ええ、そうらしいわね。
こちらが悪評を流すまでもなく、ミナモト商会が資金を出すという話をしたら、向こうからシェアを残らず埋めて独占してくれって差し出してきたわ」
と、いつのまに戻ったのか、マリアが開いたままの船長室のドアを白いこぶしでコンコンと軽くノックをしながら、話に入ってきた。

「ああ、マリア、帰ったのか。お疲れ様」
と、振り向く錆兎に、マリアは

「早急に総督府に多額の資金投資をしたいの。
ここにサインを頂戴」
と、書類を錆兎のデスクにおいて、その一点を赤く塗った爪先で指さす。

「わかった。これでいいか?」
と、ロクに目も通さず書類上の指し示された場所に羽ペンを滑らせる錆兎に

「大金を動かすというのに目も通さないなんて…私を信用しすぎじゃない?」
と、クスリと笑うマリア。


そんな少しからかうような色の混じるマリアの言葉に、錆兎は
「…マリアとムラタが居なければ俺はここまでくることはできなかったし、2人が俺を陥れようとするなら、おそらく俺に原因があるんだと思う。
だから二人にたばかられるなら、諦めて陥れられて、義勇と二人で心中するな」
と、意外に真剣な顔でそう答えた。

「もう…あなたって本当に…そういうところよっ!
私はわりあいと割り切る人間だけど、あなただけは切れないわ。
生かすために騙すことはあっても、陥れたりすることは本当に無理」
と、マリアは片手で顔を覆ってため息をついた。

「それは良かった。
俺も最優先は義勇だが、マリアとムラタはその次で、俺自身の身よりは優先順位が高いぞ」
と、錆兎はハハハっとそれに笑って言うと、サインした書類をマリアに返す。

そう、錆兎もマリアも上に立つべく育てられていて、彼らの大義に必要とあれば、時にムラタでは到底できないような冷酷な選択肢も取ることもある人物だという事は知っているが、同時に、彼らは二人ともこの場にいる人間だけは優先してくれることはわかっているので、緊張することはあってもそういう意味では恐ろしいと思うことはなかった。

「…この状況で考えると…おそらく街の側はスラバヤもマカッサルも簡単にシェアを明け渡してくるな。
その代わりにおそらくクーンが早々に攻撃を仕掛けてくるかもしれん。
独占出来た街の防衛もだが、船の方も交易用の積み荷倉庫を減らして砲台と海兵詰所を増やして海戦に備えないとな。
ムラタ、明日の朝一で頼めるか?」

「了解っ!」
何かの手配など、交渉事ではない、しかし絶対に間違いが許されない事務はムラタの仕事だ。

「んじゃ、俺は明日早くに造船所に向かうから、今日は錆兎も帰ってきたことだし、早く寝るね」
と、暗に義勇は返すねと伝えて、ムラタは自室へと帰って行く。

「…とりあえず…アンボイナの防衛力あげて、船5隻の改造が終わるまでだいたい1ヶ月くらいか…」
と、それを見送って考え込む錆兎に、マリアは
「総督府への投資は明日するし、それで障壁強化の工事が順調に行われるかはあなたがここで監督して?
私はその間、別船団を率いて先にマカッサルに向かうわ。
クーンから宣戦布告されてしまったあとだと、入港が面倒になるから。
シェアを買収できるだけの金貨はもらっていくわね」
と、受け取った書類をかかげて言った。

それから
「…というわけで、雪華とも1ヶ月強お別れね。寂しいわ」
と、ぎゅうっと義勇を抱きしめる。

錆兎の前でこれをやってもキレられないのは唯一マリアだけだ。

「…うん…姉さん、気を付けて行ってきてね」
「ええ、また船の強化が終わったらマカッサルで合流ね」
と、抱きしめ合う様子は本当に別れを惜しむ美人姉妹そのもので、見目麗しいことこの上ない。

人見知りの義勇なのに、何故かマリアにはここまで気を許すのは、やはり姉のいる弟として育った義勇にとって、相手が年上の女性で仮にではあっても姉と言う立場だからなのだろうか…。

あまりにその設定に馴染み過ぎて錆兎の方ですら
「私が離れている間、雪華をよろしくね。泣かせたらあとが怖いわよ?」
などと言われても、俺の義勇なのに!と怒る気がしないのが不思議である。

「…今は本拠地バタヴィアに居るようだからすぐどうこうということはないだろうが、万が一、クーンの艦隊がマカッサルに向かってかち合いそうになったら、無理をせずに即アンボイナまで撤退してくれ。
アスワングが出たのは艦隊が停泊している間だったということだから、あるいは船に飼っている可能性も否定できないし、マリアに何かあったら雪華が号泣するからな?
本当に絶対に無理はしないでくれ」
と、むしろ少しでも何かあれば即戻るようにと言い含める錆兎にマリアは
「わかってるわ。
あなたも強いのもしっかりしているのも知っているけど、ぎりぎりで動いていると事故も起こりやすくなるから、無理しちゃだめよ?」
と、優しく微笑んだ。









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