自分が錆兎の同性で生涯の伴侶にはなれない…
それは義勇に残された逃げ道のようなものだった。
錆兎はいつか素敵な女性と恋をして所帯を持つことになるだろうし、義勇自身はその頃までに自分の身の振り方を考えればいい…
今は少しばかり錆兎に迷惑をかけているけれど、錆兎に素敵な女性が出来たならその時に、ちょうど自分もそろそろイイ人の1人でも作りたいと思うし同居を解消しようと言い出そうと思っていた。
そのタイミングなら、きっと錆兎もそれを了承するだろうと……
もちろん…義勇には一生錆兎だけだ。
錆兎以上の人間なんて存在するはずがないと思っている。
だからそう言ってこの家をでたあとは、遠い街にでも行って住み込みの仕事でも探しながら、これまでの錆兎とのまるで宝物のような思い出をそっと思い出しながら静かに暮らそうと思っていた。
本当は生きていくことにそれほど執着を感じてはいないし1人で生きていくのも大変そうだし、ぽっくりと死んでしまえればそれが一番かもと最初の頃は思っていたが、この2年間、錆兎は本当に義勇を大切にしてくれたし、色々と面倒を見てくれた。
錆兎にそんな手間隙をかけながら生きながらえた命だと思えば、無駄に捨ててしまうのはこれまでの錆兎の献身に対してなんだか申し訳ない気がする。
わざわざ死のうとしなくても、鬼殺隊を離れれば今服用している毒を抑える薬は手に入らないしそう長くはないのだから、与えられた人生は全うしたほうがいい。
…と、そんな風に考えていたのだが、恐ろしい事実が判明した。
非常に稀な確率…それこそ数万人に1人くらいの確率らしいのでほぼ知られていないのだが、人は皆、思春期をすぎたあたりに現れる第二の性というものがあって、その中で本当に極々わずかに存在する性交によって子を孕める体質を持つΩという性、それを義勇は持っているらしい。
つまり…ヒートと呼ばれる時期に性交を行えば、錆兎の子を産めてしまう。
伴侶になれてしまうのだ。
普通ならめでたい。
とてもめでたいことで、それこそ鬼殺隊をやめて錆兎の伴侶になって錆兎の子を産み育ててめでたしめでたしというところだが、義勇の場合はそうはいかない。
だって義勇は鬼殺隊の敵、人類の敵である鬼の頭領、鬼舞辻無惨によって鬼殺隊に間者として放り込まれた身だ。
今こうして錆兎と一緒に暮らしているのは、それがバレる前に死ぬか出ていくという前提の元なのである。
鬼の間者を伴侶としたなどということになれば、錆兎の輝かしい経歴に大きく消えない傷がつくし、もし子でも出来たならその子どもだって鬼の間者なんかの母親を持つことになれば人類の敵扱いで、可哀想だ。
だから義勇がΩだとわかった時に、錆兎が番になろうと言ってくれたが、諾と言えなかった。
でも同時に義勇は否とも答えられずにいた。
実に浅ましいことに、錆兎のことを思えば絶対にダメだとわかっているくせに、どうしても否と言えなかったのである。
そんな風に迷う義勇に錆兎は少し笑みを浮かべて
「ああ、色々知ったばかりで義勇も混乱するよな。
返事は急がないでいい。
ただ、Ωとわかったからには事故があると危ないから番になるまではこれをつけておいてくれ。
もちろん義勇が俺以外を選びたいということなら、言ってくれればちゃんと外すから」
と、義勇がΩらしいとわかって呼ばれた宇髄が用意したらしいうなじをカバーする鍵付きの首輪を義勇にはめた。
それは普通に日常的につけていても大丈夫なように綺麗な細工のもので、繊細に見えるが頑丈という優れものだ。
なのでまるで錆兎からの贈り物のようにも思えて、なんだか一瞬幸せな気分になったが、のんきに喜んでいる場合ではない。
互いに抑制剤を飲んでいればヒートも抑えられるしフェロモンも出ないのでおかしなことにはならないはずだが、万が一にでも錆兎に道を踏み外させたら後悔してもしきれない。
本当はもう少し時間があると思っていたのだが、無惨の間者の分際で2年間もの長い間、錆兎と暮らさせてもらったのだから、これ以上を望むのは贅沢だろう…。
次のヒートが来るまでには出ていこう…。
そう思いつつ、出ていく際の置き手紙の文面を考える日々。
なるべく錆兎を傷つけないように…そして迷惑をかけないように…
そして…義勇のことなんか忘れてもらえるように……
そんなことを考えていると、ズキズキと胸がひどく痛んだ。
忘れられたくない…ずっと側にいたい…
本来は姉が殺された時に何もかも失って怖いという感情以外がなかったはずなのに、幸せな時間が長すぎて随分と心が弱くなってしまったらしい。
別れる日がきたなら潔く…と、思い続けて覚悟をしていたはずなのに、辛くて悲しくて、数日前から錆兎が長期の任務に赴いている間に、だんだん食事も喉に通らなければ、飲まねばならない薬まで飲む気がどうしても起きなくなってきて、これはまずい、と、思った。
このまま体の容態が悪化して寝込んだりした日には、出ていけなくなってしまう。
ひどく心が沈みきっていたのと薬を飲まないことで体の状態が良くなくなっていて、正常な判断が出来なくなっていたのだろう。
今、そう、たった今出ていかないと間に合わないような気がしてきて、義勇は出て行く時に知り合いに出会ってバレたりしないように変装用にと用意しておいた女性用の着物の上に錆兎の洗い替えとして洗って乾かして家に置いておいた羽織を羽織って、錆兎に贈られた花飾りのかんざしだけを手に家を出た。
あとでその時の思い出すと全くどうかしていたと思うのだが、帰らぬつもりで出ているはずなのに財布の一つも持たず、寒い季節だというのにきちんと防寒もせず、しかももう日が暮れているというのに家を飛び出したのである。
身を切るような寒さ。
薬を飲まぬことによって活性化した毒が回り始めた肺が痛んで、白く吐き出す息はひゅうひゅうと異音をたてている。
それでも義勇は泣きながら行き先も決めずにとにかく水柱屋敷から離れなければと歩を進めた。
人っ子一人居ない夜の道。
そこを泣きながらフラフラとおぼつかない足取りでそれでも走る義勇は傍からみれば明らかに様子がおかしいと思われただろうが、それを指摘する相手もいない。
何かがこみ上げてくる感覚に咳き込めば、口を押さえた白い羽織の袖口を血が赤く染めた。
そうして再度ひどく咳をした勢いで転んでしまう。
しかもその場所が悪かった。
ちょうど橋の上で、さらにだいぶ体中に力が入らなくなっていたため、転んだ拍子に手にしっかりと握っていたはずのかんざしが手から飛び出し、ぽちゃんと川に落ちてしまう。
「…あ…ああ……」
たった一つだけ無意識でも持ち出した何より大切なモノが目の前で失われて、義勇は血の気を失った。
落ちていくそれに伸ばした手は当然のように届かず、それを認識した瞬間、義勇は橋の欄干にすがって力の入らない体で立ち上がる。
何のためかと言えば当然、落ちたそれを拾うためだった。
今の状態では溺れるだけとか、そもそも冬の冷たい川に飛び込んだりしたら心臓麻痺を起こすとか、そんな当たり前のことは考えもせず、思うのはただかんざしのことだけである。
あれは…あれだけは失われてはダメなのだ。
全てを失って全てを捨ててきた義勇に最後に残された大切なもの。
命と引き換えにしても失ってはならないものなのである。
そうしてほぼない体力と気力の全てを振り絞ってなんとか立ち上がって川に向かって身を乗り出そうとした瞬間、
「何をやっている。馬鹿か?死ぬ気か?」
と、いきなり胴に腕を回されそのまま欄干から引き剥がされた。
知らない声。
それが誰であろうと気にもならず、義勇は泣きながら錆兎にもらったかんざしが川におちてしまったのだ。
あれを失くすくらいなら死んだほうがいいと泣き叫ぶ。
いきなり固有名詞をだしたところでわかるはずもなく混乱させるだけだというような普段なら考えつくことも考えつかず、ひたすら泣く義勇に、相手が
「…錆兎?好いた男かなにかか?」
と、聞いてくるので、義勇は川の水面に視線を向けたままうんうんと頷いた。
すると後ろからため息。
「わかった。待ってろ。
俺が取ってきてやるから、絶対に動かずにここで待っていろよ?
川に追って来やがったらその場でかんざしをへし折るからな」
と、言うなり胴に回されていた手が外れて、全身におかしな入れ墨をいれた男が義勇の横を通り越して欄干を軽々と飛び越えると、なんとそのまま川に飛び込んだ。
普通ならこの時点で驚くところなのだが、義勇の頭にはかんざしのことしかない。
誰だか知らないが、本当にかんざしをみつけてくれるのだろうか…
不安で不安で泣きながら待っていると、ほんの5分ほどでザバっと水しぶきをあげながら橋の上まで飛び上がってきた男の手には、錆兎にもらった花細工のかんざしが確かに握られていた。
「…これか?」
と、濡れた手で男が差し出してくるかんざしを受け取って、義勇はそれを抱きしめて号泣する。
そうして泣きすぎてまた咳が止まらなくなり、白い羽織がどんどん赤く染まっていった。
「おい…とりあえず医者にみてもらえ」
という声とふわりと浮く体。
体制が変わったことで血を吐きすぎて極度の貧血になった頭がクラクラとして、軽く目をつぶった瞬間に義勇の意識はコトンとそこで落ちていった。
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