トントントンと包丁の音がまな板の上に響く。
その他にも鍋の中で煮物が煮える音であるとか、味噌汁からふわりとただよう柔らかな湯気であるとか、料理の音や匂いその他は、義勇にとっては姉が生きていた頃のわずかな記憶で、幸せの象徴のようなものでもあった。
ある日とつぜんに切り取られた幸せな時間…それが今確かにここにある。
最終選別で出会った宍色の髪の少年、錆兎の手を取った瞬間から、幸せという感情は確かに義勇の中に戻ってきたのだった。
あの頃からすでに頭角を表していた錆兎は初任務後もどんどん鬼を倒していって、入隊1ヶ月もした頃にはとうとう自身の師匠がかつて就いていた水柱の役を拝命していた。
見目麗しく、強く、優しく、礼儀正しい。
鬼殺隊というくくりを超えて人間としての目指すべき姿のような錆兎は日々眩しい。
彼は身分が出来たからといって義勇を見放すようなことは当然しなかったので、今も彼と一番近いところで彼と一緒に暮らしている義勇は、日々、その活躍っぷりを目の当たりにしながら感嘆するばかりだ。
義勇自身はというと、当たり前だが体調の事もあってそんな錆兎についていけるはずもなく、ようよう辛になったところだ。
お館様のはからいで任務につく時には錆兎と同じ任務につけてはもらえるが、あまりに忙しくなると毒が活性化して体調を崩すため、任務につける頻度は1週間に1度くらい。
それも柱が担うほどの任務となると、役に立っているとは言い難い。
それが心底申し訳なかった。
しかし義勇には鬼殺隊を辞めるという選択肢も残されていない。
だからせめてもと任務に出ない日は家事をしようと真菰に習いながら始めたのだが、これが案外楽しかった。
もともと刀を握ること自体好きなわけではないのもあるし、なにより帰宅する錆兎が喜んでくれるのが嬉しい。
錆兎がいない間は掃除洗濯をしつつ、錆兎が帰ってくる日には、彼が好きな料理を作って待つ日々。
そんな日常がとても幸せだ。
錆兎だけではなく、初任務で一緒だった不死川と錆兎の交友もいまだ続いていて、たまに彼も一緒に飯を食うが、彼もまた義勇の料理の腕を褒めてくれて、
「姫さん、良い嫁になるぜぇ」
などとよく冗談を言ったりもするので、そんな言葉を聞くたび自分が女だったら錆兎のお嫁さんというのも良いなぁと思ってみて、しかしそこで思い出す。
自分は鬼の手でここに送り込まれた身の上なのだから、よしんば女だったとしたって錆兎のお嫁さんになどなれはしないのである。
それどころか、もし鬼側との関係がバレそうになったなら、バレる前に死ぬなり離れるなりしなければ錆兎に迷惑がかかってしまうだろう。
錆兎と暮らし始めて今まで2年間は無惨からの接触は一切ないこともあって忘れてしまいそうになるが、自分を鬼殺隊の隊士になれるよう育て上げて鬼殺隊に送り込んだのは、鬼側の頭領である鬼舞辻無惨で、自分は望むと望まないとに関わらず、鬼舞辻無惨の間者という立場なのだ。
錆兎との暮らしは日々幸せだったが、幸せであればあるほどそんな不安がひどくなっていく。
予定では本当に2年も生きているはずではなかったのだ。
いつ死んでもおかしくない…そんな医者達の言葉に、そう遠くない将来に錆兎に迷惑をかけることなく病死できるものだと安堵していたのに、まだ死ねない。
他人のせいにしてはいけないが、錆兎が大事にしてくれすぎるせいだと義勇は思っている。
いや、錆兎だけではない。
不死川も宇髄さえも、少しでも義勇が無理をしないようにと気遣ってくれてしまう。
まあ不死川はとにかくとして、宇髄は最初の任務でも言っていたが、柱になるであろう錆兎に間者などからの攻撃が向かわないよう義勇を盾にしたいという立派な理由があるのだろうが、それにしたって錆兎はもう柱まで登りつめたのだ。
多少の間者の攻撃があろうと跳ね返せる程度には十分強くなったのだから、もう義勇はお役御免ということでいいんじゃないだろうか。
無惨から動けという連絡が来て鬼側との関係がバレて錆兎に迷惑をかける前になんとかしなければならない。
それでもふんぎりがつかなくて、義勇はこうしてダラダラと別れの時を引き伸ばしている。
今日も任務から帰った錆兎を『おかえりなさい』と出迎えて、『ただいま』と抱擁されてついつい流されてしまった。
脱いだ羽織を預かって、綺麗に埃を落として少し顔を寄せてスンと息を吸い込むと、わずかな血の匂いと…そして汗と錆兎自身の匂いがする。
それになんだか頭がぼ~っとしてきて、手放し難いような気分になったが、錆兎にきちんと食事を出さねばと、義勇はそれを衣紋掛けにかけて、台所へと走った。
こうして3日ぶりに水柱屋敷に戻った錆兎と差し向かいで飯を食う。
「留守中、大丈夫だったか?体調崩したりしていなかったか?」
向かい合って座った錆兎がそう言って少し気づかわしげな表情を浮かべた。
本来は気遣う言葉をかけるべきなのは義勇の方であるはずなのに、先に言われてしまって義勇は苦笑する。
本当に錆兎は過保護で心配性だ。
だが、それが心地良いので困ってしまう。
「大丈夫だ。錆兎が心配するようなことは何もなかった。
俺は家でゆっくりしていただけだったから。
それより錆兎が怪我もせずに帰ってきてくれて嬉しい。
柱になったのはめでたいけど、その分任務も危険の多いものになったしな」
義勇がそう言うと、錆兎は当たり前に
「俺は絶対に死ねないから。
ちゃんと帰って義勇を守ってやらねばならないからな」
と、そんなことを言って微笑むので、不死川によく言われる“嫁”という言葉が脳裏によぎって義勇は赤くなってしまった。
「なんにせよ…俺がいることで錆兎が無事に家に戻ってくれるならいいけど…」
と、そのまっすぐな視線を避けるように俯いて食後のお茶の入った湯呑に視線を落とすと、はらりと少し伸びた髪が顔にかかって、義勇はそれを手で払いのける。
するとそれを見た錆兎が、そうだ、と、懐をまさぐった。
「これな、任務先の店でみつけたんだ。
義勇は髪が長いし、ちょっとした時にまとめるのに便利だなと思って。
いつもそのあたりの紐で適当に結ぶことが多いが、せっかく綺麗な髪なのに傷んでしまいそうだから。
その…確かに女性が使うものだが自宅なら良いかなと思って。
……綺麗な細工だったし……」
と、錆兎にしてはいつになく早口にそう言って差し出してきたのは、可愛らしい花飾りのかんざし。
「…可愛い……」
思わず口をついて出た言葉。
それにほっとしたように笑みを浮かべる錆兎。
物心ついた時から側にいたのはほとんど姉だけだったので、義勇は綺麗なものや可愛いものが大好きだ。
それを揶揄するような交友関係もなかったので、男ものではなく女ものだから…などという抵抗もない。
「でも…いいのか?」
と、思ったのは世話になってばかりの身の上でさらに与えてもらうことに対する申し訳無さだったが、錆兎が
「使ってくれると嬉しい」
というので、
「ありがとう…」
と言って受け取って、さっそく落ちてくる横の髪をくるりと後ろでまとめてかんざしで留めると、すっきりと落ち着いた。
その日はそのまま寝るまでそれをつけていて、錆兎の前では少し気恥ずかしかったので、錆兎が風呂に入っている間に三面鏡の前に駆け寄ってかんざしをつけた自分の髪をまじまじと眺める。
家にいる時はだいたい家事に勤しんでいるのでその時も割烹着のままで下の着物が見えないため、そうして可愛らしいかんざしをつけているとなんだか本当に新妻のようだな、と、むふふと笑みを浮かべた。
そんな風にほんの少し…誰もいない時にそっと妄想をしてみるくらいは許されるだろう。
実際にそれをのぞめるわけではないのだから…
そう思って少し物悲しさを含んだ喜びに浸る。
柱として忙しく過ごす錆兎は明日の朝にはまた任務地へ向かうということので、これは洗濯は間に合わないなと義勇は洗い替えの羽織と隊服、そして着替えの準備を少しだけして入浴後に飲んでもらおうと冷ましておいたお茶を煎れに台所へと向かった。
そうして台所で冷めたお茶をいれて戻ると、風呂上がりの錆兎がほかほかとゆげをたてながら居間に入ってくる。
「あ~、気が利くな。いつもありがとうな」
と、渡す湯呑を笑顔で受け取る錆兎は変わらない。
相変わらず男前だ。
だが今日はなんだかおかしい。
なんだか頭がぼ~っとして体が熱い気がする。
風邪でもひいたのかもしれない。
だとしたら錆兎にうつしたら大変だ。
本当のことを言うと心配するだろうから、少し明日の準備をして寝るから先に寝ててくれというと、それでも錆兎は気遣わしげに
「俺の支度なら明日に自分でするからいいぞ?
義勇もちゃんと休めよ」
というので、
「いや、俺は錆兎が任務に向かったあとでも休めるから。
支度は俺がやりたいんだ。
錆兎のためになる何かがしたい」
と、さらにそう言うと、
「わかった。ありがとう。
でも無理はするなよ」
と、錆兎は苦笑しながらも先に寝てくれた。
いつものように布団を並べて敷くだけ敷いて、義勇は口実とは言え口にしたのでゆっくりゆっくり錆兎の着替えを風呂敷で包む。
そうしてふと視線を三面鏡に向けると、綺麗な花細工のかんざしをつけて錆兎の着替えを手にした自分の姿が見えた。
顔は…亡くなった姉によく似ている。
姉も生きていればこんなふうに夫の身支度を整えたりしていたのだろうか…。
ふぅ…と義勇はため息をつく。
同じような顔立ちをしていても姉のような幸せを掴む機会は義勇には生涯訪れることはないのだ。
本当にどうしたというのだろう。
久しく忘れていた姉のことを今日はずいぶんと思い出す。
頭がぼ~っとするのも体が熱くなるのもひどくなってきた気がした。
錆兎が明日の早い時間に発つ予定で良かった。
義勇がおかしいのを知れば心配をかけるし、仕事が仕事なのだから気が散るようなことがあるのは下手をすれば命取りだ。
結局その日はわずかに使ったように見せておいて布団には戻らず、夜明けと共に朝食の準備に取り掛かる。
激務の錆兎はそれに気付かないまま朝になって起きてきて、
「おはよう。いい匂いだ。
でも義勇、早いな。ちゃんと寝たのか?」
と味噌汁の鍋を覗き込んでくる。
錆兎が後ろに立っている…それだけのことでなんだかまた頭がぼ~っとしてくる気がした。
「…錆兎…包丁とか使うから後ろに立たれると怖い…。
すぐご飯にするから居間にいてくれ」
このままではまずいと義勇がそう言うと、錆兎は
「ああ、すまないな。
じゃあ俺は机を拭いてこよう」
と、台拭きを片手に居間へと去っていった。
それを見送って義勇はほ~っとため息を吐き出す。
錆兎が任務に出かけるまであと少し。
頑張ってごまかさねば…と、気合を入れて朝食を器によそった。
「…義勇…お前、何かおかしくないか?」
と、それでも少し挙動不審すぎたのか錆兎に言われたが、そこは伊達に長く一緒にいるわけではない。
「えっと…最近、任務が忙しくて錆兎とゆっくり出来てないなと思って…。
寂しい…とか意識してしまうと、すごく寂しくなってくるから…」
などとごまかすと、錆兎はあっさりとごまかされてくれて、
「この任務が終わったら絶対に休暇もらうからっ。
そうしたら二人でゆっくりしよう!」
などと言って任務に出ていった。
錆兎はいつでも真っ直ぐで眩しいくらいに純粋で綺麗で、間者のくせに錆兎に世話になりっぱなしの薄汚い自分とは大違いだ…と義勇は思う。
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