こうして前世よりいくらか早く、前世での炎蛇風の柱が出揃って、空席だった水を錆兎が埋め、岩と音はそれより早くにすでにいる。
蟲はその前任である彼女の姉、胡蝶カナエが花柱をしていて、無惨との決戦に参加した残り二名、恋と霞は年齢も年齢ということもあり、柱就任を早めるのは無理だろうとのお館様の判断だ。
それでも4人が早々に柱の座についたことで、鬼退治も前世よりはテンポ良く進んでいった。
その日は不死川と煉獄は2人揃っての非番で、主不在だがかつて知ったる師範の家とばかりに水柱邸で二郎の作った飯を食いながら寛いでいた。
もちろんそれぞれに屋敷はあるのだが、不死川は拾われてすぐ気楽で気さくな身内のような男たちがワイワイやっている水柱屋敷に長らく住んでいて馴染みすぎたせいか、家のことをするために雇われた使用人のみがいる自分の屋敷ではどうも寛げない。
なので非番の日などはたいてい水柱屋敷に戻っている。
一方でいつもは食事時は弟もいるからと自宅派の煉獄は今日はその弟連れで、顔立ちはよく似ているのに性格は兄に似ず非常に遠慮がちな弟の千寿郎は「私まで申し訳ありません」と非常に恐縮をしながらも、一緒に二郎の作る美味い昼食を摂っていた。
「まあ呼吸の型こそ違えど、その通りではあるなっ!
錆兎は師範が元水柱で最初に覚えたのが水だが、おそらく水柱の地位が空いていなければ風か雷か炎、どれかの柱にはなっていただろうし、その実力のある者の技を直接教わっているのだから、俺達は継子と言っても良いと思うぞ」
「あ~、まあなァ。
普通は覚えている型は一つきりだからその型の柱に技を伝授されて継子なんだろうけど、錆兎は水柱でも他も教えるからなァ」
「うむ!あとはあれだ。
柱になって自分の手を離れたら一切師範扱いをさせてくれないので、師範と継子という気がしないのかもしれないなっ!」
「違いねえ。
てか、弟子時代もお姫さんには尽くさせても、自分に関しては鍛錬や稽古の時間以外は普通にダチ扱いさせるしな。
この家では普段はお姫さんが一番の権力者だ」
そういう不死川の言葉通り、錆兎は不死川が弟子としてこの家に居た頃も、当たり前に上から自分の用事を手伝わせたりしたことはない。
唯一、義勇に人手が必要な時は色々命じられはしたが…。
「で?杏寿郎お前はなんで、今日は錆兎もその権力者のお姫さんもいねえのに、水柱邸に来てんだァ?」
どちらもここに住んでいた時代があるので、二人以外にもそれなりの人間関係はあるわけだが、いつでもほぼ自宅に帰らない勢いで水柱邸に入り浸っている不死川と違って、煉獄は家族で住んでいるので、よくここを訪れると言っても大抵は錆兎がいる時限定である。
それが弟まで連れてどうした?と思って聞くと、煉獄は
「うむ!実は今日は錆兎が以前任務で助けた町人から自分の子が出演しているからぜひにと観劇に招待されたらしくてな。
切符が4枚ほどあるので、俺も弟も観劇が趣味なこともあり、良ければ一緒にと誘われたのだ」
と、4枚の切符を懐から出してみせる。
なるほど、だから弟付きなのか…と不死川も納得した。
そう思ってみてみれば、今更だが今日の煉獄は隊服ではなく自前の着物だ。
「そういえばお前の私服姿初めて見るわ」
と、それを指摘してみれば煉獄は
「ああ、何人も同じ隊服を着ていたら目立つし義勇も私服で行くから私服で来てくれと錆兎に言われてるのだ」
と、笑う。
私服…義勇の私服……
隊服は男女差がないが、私服なら嫌でもそれが出る。
どちらなんだろうか…と、長らく気になっていた疑問が不死川の頭をよぎる。
「不死川?どうした?」
急に黙り込んだ不死川に煉獄が不思議そうな視線をむけてくる。
それに
「いや?なんでもねえ」
と、首を振りながら、秘かに楽しみにしてみたりする。
「それで、その二人はどうしたよ?」
と、話題を微妙にそらすようにそう聞けば、なんと急な任務が入ってでかけているとのこと。
観劇の時間までには気合と根性で片付けて帰るが、もし間に合わなかったら二人で行ってくれということで、煉獄が切符を預かっているらしい。
こうしてそれから数時間。
「ただいまっ!!ああ、実弥もいたのか。よく来たなっ。
杏寿郎、千寿郎も待たせてすまなかったっ!すぐ着替えてくるからっ!!!」
と、テテテッと廊下を走る軽い足音がして、義勇が居間に顔を出して挨拶だけして自室へと駆け出して行った。
それを見送ったあと、部屋になんと伊黒が入ってくる。
「あ、小芭内、おかえり~!お茶煎れるね。ご飯は?」
と、すかさず二郎がお茶を煎れて来るが、伊黒が
「いや、飯はいい」
と、言うと、そう?と言って忙しなく台所へと戻っていった。
「よぉ。今回は小芭内が錆兎と一緒に行ったのか?村田は?」
いつもお姫さんこと義勇の護衛として行動を共にしている村田戻った様子がないのできいてみると、今日は本来は錆兎も非番だったのを急な任務が入って出る事になったので、村田はちょうど他の任務に入っていて手が空かず、たまたま早朝から水柱邸に茶を飲みに来ていた伊黒がお姫さんの護衛にと駆り出されたらしい。
そうしてなかなか面倒な任務なのにも関わらず、伊黒は義勇をきっちり守ってもらうためと錆兎に厳命されて、柱だというのに前に出ることを禁じられて義勇の護衛係を務めた挙げ句、今日は観劇に行く予定だったから義勇だけでも行けるように先に連れ帰ってくれと、戦線離脱させられたらしい。
「そもそもが柱を一般隊士の護衛に使うということ自体が何か間違っている。
何故戦いもしない人間を護衛をつけてまで戦地に連れて行くのかが理解出来ない。
鬼殺隊は男が多いから、そのあたりの認識が甘い、甘すぎるっ!
だいたいな……」
と、ネチネチと続く伊黒の文句。
疑いもせず疑問にも思わず、当たり前に錆兎の任務の時の構成はそういうもの、と、思っている煉獄や、何かおかしいかも知れないがまあいいか…と割り切っている不死川と違って、伊黒は納得していないらしい。
だが、そこは煉獄が
「いや!義勇は必要だぞっ!古今東西おとぎ話の勇者は姫を守るものと決まっているっ!
御旗は大事だっ!戦いは勢いとやる気だからなっ!!」
と、根拠のなにもない論理展開を広げ始めたことで、駄目だ、こいつら…という目で黙り込んでため息をついた。
まあ…ふたりとも義勇の性別については何の疑問も感じていないところがすげえな…と、不死川はひとり思うわけなのだが、数十分後、
「待たせたなっ!ぎりぎりまで錆兎を待ってみて、それで戻らねば仕方ない。
錆兎の言うように何かあった時に速やかに協力を得るためにも一般人との付き合いも大切だ。
せっかくの自分の息子の晴れ舞台を恩人に見てほしいという親心を無碍にはできないし、3人で行こう」
と、居間に顔を出して言う義勇が身につけているのはすっきりと色鮮やかな青地に花模様の小紋の着物。
それは涼やかな雰囲気の義勇にとても似合っていて美しい。
髪もいつもと違って簡単に結い上げて、着物と似た色合いの飾り櫛をつけている。
「以前…街で見ていたら錆兎が櫛を買ってくれたから…これに合わせた着物を作ったんだ」
と、嬉しそうに頬を染める義勇は愛らしく、初めて会う千寿郎などはその美しさにぽか~んと口を開けて呆けている。
「とても良く似合っている!隊服以外の義勇を見るのは初めてだが、やはり華やかで美しいなっ!」
と、兄の杏寿郎の方は全く照れもせずに絶賛し、不死川はそこまで手放しで言うのは気恥ずかしくて出来ないものの、
「あ~…まあ、義勇は綺麗な顔してっしな。似合ってんじゃねえの?」
と、ボソボソっと言うが、最後の1人、伊黒は
「駄目だ、駄目だ、そんなのでは全く駄目だっ」
と、いきなり否定の言葉から入るので、一同はぎょっとした。
「…い、伊黒、気持ちはわかるが、任務のこととこれは……」
と、そこは大雑把に見えて実は空気が読めすぎるな不死川が慌てて止めに入るが、伊黒は
「ちょっとこっちにこい!」
と、義勇の手をひっぱると自分の前に座らせて、ぱさりとその黒髪をほどくと櫛をいれ始める。
そうしておいてさらさらの状態になると、量の多い義勇の髪をこれまた器用に綺麗に編み込んでまとめ、最後に飾り櫛をちょんと差した。
──おおおおーーー!!!
他の男一同からあがる歓声。
手鏡を出して自分の髪の状態を確認した義勇も、ぉぉーーと、小声で歓声をあげる。
そして伊黒は
「伊黒、ありがとう!!」
と満面の笑みで礼を言う義勇からふいっと顔を背けて
「好いた男からもらった櫛ならちゃんと洒落た髪につけておけ」
と、視線をそらして言う。
こうして身支度は整って、あとは錆兎を待つばかりだが、ぎりぎりまで待ったが間に合いそうにない。
仕方がないので戻ったら途中でも来られるようにと切符を1枚残して左右に煉獄兄弟を引き連れて出かける義勇を、不死川は伊黒と共に見送った。
目的地は町外れの貸し舞台。
そこでは日々様々な劇団の演目が行われている。
そこそこ大きく立派な舞台なので来る客もちょいと洒落込んだ中流以上の家の人間がほとんどで、黒い隊服ばかり身につけていて普段は着ない明るい色合いの着物を身につけてそんな中に混じると、少しばかり華やいだ気分になった。
義勇は観劇は姉の生前に一度来たきりだったのでやや戸惑い気味だったが、煉獄兄弟は家族で観劇が趣味だったというだけに慣れたもので、中に入ると杏寿郎がパンフレットを買ってきてくれる間、なんと千寿郎が義勇をエスコートしてくれる。
小さいのに…本当にまだ幼いと言っても良い年ごろなのに、段差などがあると
「ぎゆうさん、段差があります、お気をつけて。良ければお手を」
と、手を取ってくれる様は8歳の子どもとは思えない。
さすが名家煉獄家の息子たち。
見た目も派手なので左右に連れていると目立つこと目立つこと。
まるで獅子のような兄弟を従えて歩く美少女に周りが振り返っていくが、義勇自身はそれが自分の容姿も起因していることには気づいては居ない。
恭しく左右から手を取られて席につき、開演までは隣に座る千寿郎とパンフレットを手に笑顔で語り合った。
義勇はあまり知らない人間と話すのは得意ではないのだが、千寿郎はそんな義勇が気まずくならないように、上手に話題を作って話を振ってくれる。
本当はせっかくオシャレをしたのだし錆兎と来たいところではあったが、おそらく錆兎が一緒ならこんな風に千寿郎と話す事はなかっただろうし、たまには良いのかも知れない…と、義勇がそんな風に思っていると開演のベルが鳴り響いた。
そうしてドアが閉まり、場内が暗くなった…と思えば、いきなり後方から悲鳴が上がった。
見れば後方に鬼の姿。
女性が1人すでに頭からむしゃむしゃと喰われている。
あっという間に劇場内はパニックになった。
客は我先にと出口に殺到。
そんな中で煉獄が念の為にと布にくるんで携えてきた刀を鞘から抜いて、
「千寿郎を頼むっ!」
と言いおいてものすごい勢いで後方の鬼の元へと飛んで行く。
「わかったっ!千寿郎、こちらへ…」
と、それを見送って義勇はこの格好とは言え刀を携えてこなかったのを後悔して隣の千寿郎に手を伸ばしかけたその時だった。
すでに客が逃げたあとの自分の前の席に、いきなり不可思議な壺が現れて、そこからゾワリと嫌な気配がする。
「千寿郎、逃げろっ!!」
と、千寿郎を逃げる客達の方へと押しやって、義勇はその壺をとりあえず叩き割ろうと身を乗り出したが、伸ばした手が壺に届く前に、その壺の中から得体のしれない生き物が
「こんばんはぁ~。桃太郎のお姫様~」
と、顔を覗かせた。
その生き物は壺の中から上半身を出しているのだが、胴体の左右に幼児の手ほどの腕がそれぞれ3本生えていて、顔の通常なら耳がある辺りからも小さな腕が2本。
左右の目の場所には口が2つついていて、では目はというと、額の真ん中と本来口がある場所についている。
その姿の気味悪さに、ひっ…と、思わず義勇は飛び退る。
しかしその気味の悪い生き物の手元にもう一つ現れて壺からぬぬぬぬっととてつもない大きさのタコの足が伸びてきて、あっという間にその中の一本に胴を絡み取られた。
そのまま高々と持ち上げられて、その高さに抜け出そうとする気も失せる。
そこで後方の鬼を斬り捨てた煉獄が振り返った。
「卑怯者っ!!義勇を放さないかっ!!」
と、刀を振り上げてタコの足に斬りかかるが、斬っても斬っても再生する残り7本の足に阻まれて近づけない。
かといって奥義まで使えば下手をすれば義勇を巻き込みかねないのでどうすることも出来ずに足を斬り続ける煉獄に、その生き物は気味の悪い笑みを浮かべながら言った。
「放すくらいなら捕らえないでしょう?
桃太郎が守るはずのお姫様が守られることが出来ずに鬼に良いようにされる…なんて最高の演目じゃないですかねぇ。
監督演出は私玉壺ということで。
幸い観客は大勢おりますし、さあ、これが広まれば桃太郎の威光もどうなりますことやら」
とのその鬼、玉壺の言葉通り、何故か劇場内のドアが開かず、逆がドアの前で押し合いへし合いしている。
そこで玉壺はタコ足の一本で壁をだんだんと叩いて注目を集めながら、声を高らかに宣言した。
「はいはい、観客のみなさん、慌てない慌てない。
今日は皆さんには私の芸術作品を鑑賞していただくためにお集まり頂いたので、大人しく見て下さった方には危害を加えたりせず、鑑賞後はちゃんとここからお帰り頂きますよ?
なので、手近な席について大人しくご鑑賞下さい」
との言葉に観客たちはざわつきながらも、そのあたりをうねうねとする大きなタコ足が恐ろしいのもあって、言われるまま席につく。
そうやって中央部にも人が増えれば、煉獄は余計に大技が使えず、斬っても斬っても生え続けるタコ足をひたすらに斬り続けることになった。
「本日の演目は鬼に囚われた桃太郎の姫君の悲劇!!
愚かにも鬼にはむかう桃太郎の大事なお姫様が鬼の手によるタコの足に弄びなぶられるという、大人の演目でございます。
そして姫君はほらこの通り!すでにタコの足に捕らえられ、これからどんな辱めを受けるかは、見てのお楽しみ!!」
そんな玉壺の口上に女性客は眉をひそめ、男性客はタコの足に捕らえられた美少女に視線をむけてゴクリとつばを飲み込んで、同行の女性に思い切り肘鉄を食らわされたりしている。
当の義勇はというと、恥ずかしさ以上に恐ろしさで泣きそうだ。
自分が恥ずかしい目にあったり殺されるのは嫌だけどまだ耐えられる。
でもそのことによって錆兎の評判に傷が付くと思えば、それは絶対に許せない。
この場を逃れることができないとなれば、せめてさすがあの桃太郎の嫁と言われるように死ぬしかない。
幸いにして胸元には懐剣が入っている。
タコの足を斬り落とすには役に立たないとしても、自分の命を断つ役にくらいは立つはずだ。
そう思っている間にもタコの足のうちの2本が器用に義勇の足首に絡みついて足を広げ、もう1本がその足の間に入り込もうとにじり寄ってくる。
怖い…悲しい…せめてもう一度…錆兎に会いたかった…と思いつつも時間はそうはない。
錆兎がすごい男なのだと…英雄、桃太郎なのだと、皆の記憶に残る言葉を紡がなければ…
義勇はこそりと胸元の懐剣を掴んで声の限り叫んだ。
「正面からでは到底勝てぬ卑小な化け物風情の手で辱めを受けるくらいなら、桃太郎の妻となるはずだった者としての誇りを胸に自害します!
桃太郎の刀はこんな卑怯者の手では折れはしない!
絶対に…絶対に化け物の首を斬って仇を取って取るだろう!」
悲しい…悲しい…でも…さよならだっ!!
そう思いながら義勇はぎゅっと目を瞑って懐剣を自分に向けて振り下ろす。
……が………その手がなにかに掴まれて、懐剣を取り上げられた。
…え…?
不思議に思って目を開ければ、義勇を掴んでいるタコの足に座る顔に不思議な模様の入れ墨のある男……というか……その目には上弦、と、参の文字が刻まれていて、絶望的な気分になる。
ああ、もう自分は錆兎の誇りすら汚すことしかできないのか…と、それがひたすらに悲しくてぽろりとこぼれた涙を、何故かその鬼はそっと指先でぬぐって
「戦いに関係のない女が死ぬことはない。
敵であろうと手を出していいあたりとならぬあたりがわからぬ卑怯者が悪いことをした。
許せ」
と、いきなり3本のタコの手を手刀で斬り落とし、そのまま義勇を抱えると玉壺に向かって蹴りを入れる。
割れる壺と逃げる玉壺。
そして少し離れた場所にまた出現した壺の中から玉壺が顔を出して
「猗窩座殿、邪魔をなさった上に壺を割るとはひどい仕打ちを…」
と、困った顔で言うが、上弦参猗窩座は
「上弦ともあろうものが、本人とやりあうことを避けて女に手をだすという、弱者のような厚顔無恥な振る舞いをしようなどと、よく思ったものだっ!
女にかまけてる暇があるなら、そこの男をやればよかろう!」
「いや…とりあえず確実に仕留められるようにと…」
「それ以上卑怯くさいことをするというなら、貴様の壺を全て割ってついでにその頭を踏み潰すぞ!!
その上で俺は真正面から桃太郎を叩き潰してやる!!」
ビリリっと空気が振動するような怒気。
この鬼…猗窩座にとって味方は玉壺の方のはずなのに、こいつは玉壺に怒りを向けて義勇を助けようとしている。
あまりに不思議で自分を横抱きにするその男の顔を見上げれば、その視線に気づいた鬼はちらりと義勇に視線を落とし、
「互いに好いている仲ならさっさと祝言でもなんでもあげて子の1人や2人でも作っておけ。
そのうちなどと言っていると何かあった時に後悔する。
俺はいずれ桃太郎とやりあって倒すが、今回のゲスの詫びも兼ねてそのわずかな間くらいなら待ってやっても良い」
と言うと、また玉壺に視線を戻した。
戻したのだが、何故かどこか遠くを見ているような気もする。
目がなんだか逡巡する。
そして本人も何か悩んでいるように少しだけ眉間にシワが寄る。
そんな表情の変化が鬼のくせに妙に人間臭いと思った。
やがて
「…上弦にふさわしくない…鉄槌を下しておくか…」
と、男がぐいとその拳を握りしめた時に、男はぴくりとかすかに身を震わせ、そして何故かゆっくりと後方に視線を向けて、歓喜に満ちた表情で
「なるほど、アレが噂の桃太郎か…。
名に恥じぬ素晴らしい闘気だ」
と、呟いたが、義勇の視線に気づいて
「ああ、わかっている。今回はお前との約束があるから見逃してやる。安心しろ」
と、苦笑した。
その言葉通り、ほんの瞬きほどの間があったあと、ドッカーーーン!!!と派手な音をたてて後方の劇場のドアが粉々に砕け散り、その向こうに愛しい恋しい義勇の桃太郎が憤怒の表情で立っている。
現在前方に再度出現した玉壺が再び出したタコ足と格闘中の煉獄と後方のドア付近に立つ錆兎とのちょうど中間あたりにいる義勇を抱き上げた猗窩座に気づくと、錆兎の怒りがさらに強くなった。
「この下衆がああーーー!!!」
と、後方に水の獅子を背負ったような幻覚さえみせながら刀を手に突進してくる錆兎の声で、義勇は現状をようやく把握してハッとして叫ぶ。
「違う!下衆は杏寿郎が戦っている壺の鬼だっ!
こいつは下衆から助けてくれたいいヤツだっ!」
と、義勇のその言葉に、途端に猗窩座ぎりぎりでとまる足。
刀だけは用心深く構えながらも斬りかかりはしない。
「…どういうことだ……」
と、それでも殺気を放ちながら言う錆兎に、猗窩座はごくごく平静な様子で、選べ、と言う。
「話がある。お前が黙ってそれを最後まで聞くなら今すぐ女を返す。
聞かぬなら、聞かせてから女を返す。
どちらにする?」
「聞く。聞くだけなら黙って聞くから、義勇を返せ」
その選択肢なら錆兎には前者以外の選択肢はない。
なので用心しながらも刀をしまってそう言うと、猗窩座は
「弱者でも臆病者でもないところは実に素晴らしいな。
今すぐ鬼に勧誘したいくらいだ」
と言いながら、抱き上げていた義勇を地面におろした。
「義勇!無事かっ!!」
と、そこで初めて泣きそうな顔で手を広げる錆兎の胸へと義勇が駆け込むと、猗窩座は
「そんな顔で案ずるくらいなら、さっさと祝言でもなんでもあげておけ!
選ばれし強者だけの世界なら正しく力だけで片を付けるところを、勝てぬ弱者が下劣な手を使ってそうあるべき勝敗を歪めようとしてくるからな。
俺は弱者が大嫌いだ!
御旗は完全に御旗として立っているところを圧し折ることに意味があるのであって、ぼろぼろで破けかかっている旗なんぞ折ってもなんの意味もないこともわかってないのが愚かな弱者の弱者たるゆえんだ!!」
と、心底嫌悪しているような表情を玉壺に向けて吐き捨てる。
「…つまり…あの下衆壺が義勇を捕らえて害して俺の心を折るところから始めようとしていたところを、お前が阻止してくれた…ということでいいのか?」
と、その猗窩座の言葉で察した錆兎がそう聞くと、
「あのイカレポンチと俺の行動に関しては結果的にはそうなるが、別に俺自身は鬼の側であって人間の味方というわけではまったくない。
そこは誤解するな。
俺の目的は最強の状態である桃太郎を真正面からやりあって折ることだ。
俺は強い!だから女を盾に使ったりしてお前の力を弱めたりする必要は全く無い。
むしろ後顧の憂いなく全力で戦う最強の鬼狩りを倒してこそ、どれほど人間が努力しようと鬼に敵うことはないのだと知らしめ、鬼狩りの戦意を削ぐこともできるというものだ。
…というわけで、後日俺と正々堂々勝負しろ。
俺は当然だがどこぞの下衆壺のように姑息な真似はせん。
俺1人で堂々と叩き折りにいく。
貴様も卑怯な真似はするな。
したら今回の貸しの分も合わせて完膚なきまでに報復をする。
…そうだな、戦いの日時や場所の連絡をする際にはこいつを使う」
と、猗窩座は玉を取り出してそれを割った。
そしてその片方を錆兎投げてよこす。
「俺が直接館へ連絡するわけには行かないからな。
町人か他の鬼狩りか…とにかく他の者にこの玉の半分と共に託すから、この割れ目がぴたりと合って一つになれば本当に俺からだとわかる。
それを確認後、玉の半分は念の為それを持ってきた者に渡して返せ」
「…わかった。
次会う時は正々堂々力でのみの勝負だ。
だが、俺は負けん」
錆兎も元々はまっすぐ力押しで片をつけるのが好きなタイプなので、その申し出はむしろありがたいところだ。
渡された玉の半分を大切に薬品などの入っている袋にいれて懐にいれると、まっすぐ目線を向けて宣言する錆兎に、猗窩座は
「俺は強者が好きだ!
強者と戦うのはこの上なく楽しい!
鬼狩り最強と言われるお前と戦う日を楽しみにしている!」
と、まるでおもちゃを前にした子どものような顔で笑うと、
「まあ…玉壺は好きにしろ。
俺は去る」
と、あっという間に飛び退って、そのまま劇場から姿を消した。
観客はそんなやり取りの間にも、錆兎が粉砕したドアから我先にと逃げ出している。
錆兎は義勇の手をしっかりと掴み、その逃げる人混みを逆行して前方へ。
そうしてタコ足と格闘中の煉獄の後ろへと義勇を誘導し、
「義勇は杏寿郎の後ろから離れるな。
杏寿郎、義勇を任せたっ!」
と、言うなり、風の速さで前方へ。
実際、煉獄も義勇もそこからの軌跡は追えなかった。
気づけば少し離れたところで声がする。
そう…
──壱ノ型 霹靂一閃
と、その声が聞こえた時には、終わっていた。
怒りの気配はまだ煉獄と話すのに一瞬停まったその場所に渦巻いている気がする。
なのに本人は本当に瞬間移動でもしたのではないかと思われるほど一瞬のうちにタコ足を出現させる壺を手にニヤニヤと煉獄に視線を向けていた玉壺の前に移動して、その首を刎ね落としていた。
前世で鬼を倒すまでは義勇の仇を討つまでは絶対に死なないと血反吐を吐きながら誓った錆兎が身につけた速さ。
留まる時は確実に視認できる程度には長く、しかし動く時は一瞬で…とすることで、視認させた場所にとどまっているように錯覚を起こさせる移動法。
前世の剣技はそのままに、今生では剣技の会得に時間を費やさないで良かった分を身体能力の向上にひたすら費やしたため、技や体術の練度が段違いにあがっている。
さらに玉壺に関しては前世で一度倒していることもあってある程度知り尽くしているということもある。
厄介なのはその移動速度の速さ。
だから極力移動を気づかせないよう、瞬足で。
それが功を奏して見事首がコロリと落ちた。
──下衆壺風情が…よくも桃太郎の守る者に手をかけようなどとしたな…
斬られたことすら一瞬理解できずに唖然とした表情で見上げるその鬼を見下ろしながら、錆兎は冷ややかな軽蔑と怒りの眼差しでそう言葉を吐き出す。
──くそおおーーー!!人間の分際でこの私に…
と、そこでハッとしたように開いた玉壺の口に、錆兎はいきなり刀を突き刺した。
──うるさい…黙って死ね…
と、そのまま刀をズザザっと横に引いて片側を切り裂き、その後、さらにその頭をバラバラに切り刻む。
その様子はいつもの明るく真っ直ぐな桃太郎ではない。
いや、真っ直ぐではあるかもしれないが、そこに見えるのは実に純粋に真っ直ぐな怒りの感情だった。
煉獄はもちろん、ずっと錆兎の鬼狩りに同行し続けた義勇ですら、ここまでまるで狂気のような怒りを見せる錆兎を見るのは初めてで、玉壺の体が壺ごとサラサラと砂になって舞い散っても、駆け寄ることも出来ずにその場に立ち尽くす。
そうして頭の残骸も全て消え失せると、錆兎は何事もなかったように
「じゃあ帰るか…」
と、義勇の手を取って煉獄をうながした。
0 件のコメント :
コメントを投稿