勝てば官軍桃太郎_4_おとぎ話

昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました…

幼い頃に姉が読んでくれた絵本では、村人に悪さをする鬼は正義の味方、桃太郎に退治されてめでたしめでたしで終わっていた。

優しい優しいおとぎ話の世界。
それが空想の中の話でしかないのを義勇が思い知ったのは、つい3日ほど前のことだ。

本当なら翌日は姉の祝言だった。
両親亡き後、姉と暮らしていた家の一部屋に、綺麗な白い着物が飾ってあった。
光が差し込めばキラキラと輝く絹の白無垢。
姉は翌日にそれを着て祝言をあげるはずだったのである。

その夜は家族2人きりでの最後の食事を摂って、2人きりの生活は最後になるからと、白無垢の前で布団を並べて寝るはずだった。

「義勇、押し入れの中の枕を出して頂戴な」
「うん、わかった」
と、蔦子に言われるまま押入れの奥に入ってしまっていた枕を出そうと義勇が半身ほど押入れに入り込んだ時、

バリバリバリっ!!!
と、廊下で凄まじい音がした。

「義勇っ!押し入れに入って!絶対に出ては駄目よっ!!」
と、その音で姉は床の間に飾ってあった薙刀を手に、義勇の身体を押し込んで押入れの戸を閉める。

最初は強盗かと思った。
義勇の家は両親亡き後、遺産で姉弟が2人食べて行けるほどには裕福な家で、それなりに佇まいも立派だったので、目をつけられたとしても不思議ではない。

姉の蔦子は優しげな風貌をしていて実際に優しい人ではあったが、両親が亡くなってから親戚の手も借りずにまだ幼い弟を一人で育てた心の強い人で、同時に、実際女主の家だからと無体を働かれたりしないようにと、薙刀を習って、かなりの腕前にもなっていた女傑でもある。

一日で剣道を挫折して泣き帰った義勇とは男女逆だったら良かったのかも知れない…と、思うほどだ。

だから、義勇は軽い気持ちで、姉さんなら大丈夫、と、思い込んで、プツリと押入れの戸に指で小さな穴を開けて外の様子を覗いていた。



木戸が割られたあと、なぎ倒された廊下と部屋を遮る襖を乗り越えて姿を現したのは、なんと異形のものだった。

大きさは大きめの大人の男くらいではあるが、目が猫の目のように瞳孔が細く金色で、額には3本の角がある。

「曲者っ!!」
と、姉がその鬼の眉間をめがけて薙刀を突き出した。

その異形の姿を見て慌てて口を押さえて、あげそうになった悲鳴を飲み込んだ自分とは雲泥の差だと思う。


さすが蔦子姉さん…
義勇にとって父であり母でもあった姉は強かった。

たとえ相手が異形のモノでも頼りにならない弟を背に怯むことなく向かっていくその姿に義勇は惚れ惚れする。

人間なら即死であろう急所を貫かれたのだから、これでもう大丈夫だろう…。
押入れの中でホッと胸をなでおろした義勇が押入れの戸に手をかけて開けようとしたまさにその瞬間惨劇は起こった。

「威勢の良い娘だなぁ。人間なら死んでたな、こりゃあ。
でも残念。俺は鬼だ。頭を突かれたくらいでは死にはしねえよ。
久々の飯がこんな活きの良い若い娘なんて本当に幸運だなぁ」

鬼は姉の薙刀を掴むとポキリと折る。
姉の首を掴む手…

嘘だ…嘘だ…嘘だ……

おとぎ話ならここで勇者が…桃太郎が助けにくるはずだ…

涙目で震えながらそう思う義勇の目の前で、姉は頭からぐちゃぐちゃと喰われていった。
おそらく声をあげれば義勇が出てきてしまうと思ったのだろう。
姉は震えて涙をこぼしながらも最後まで悲鳴の一つもあげずに喰われていったのである。

鬼は姉一人で満足したらしく、姉を食い終わると来た道を戻っていった。
義勇はそれでも動けない。
悲しいのと恐ろしいのと、色々がぐるぐると回って、結局押し入れから出られたのは翌朝に祝言の準備に来た親戚に発見されたときであった。

もちろん鬼に喰われたなどという義勇の言葉は誰も信じてはくれない。
ただ、部屋の中におびただしい血の跡があり、姉が殺されたのであろうことは容易に想像がついたので、義勇は強盗に姉が殺されるところを目撃して気が触れたのだろうと、療養という名目で田舎で医者をやっている親戚の所にやられることになった。

それを聞いて、嫌だ!と思う。

元々両親が亡くなってから、親戚との仲は良好とはいい難かった。
そこそこ資産家だった親が亡くなったのをいいことに、義勇を引き取って資産を好きにしようとする親戚から守るために、姉が2人きりの暮らしを強行したのだ。

おそらく療養と言いつつ、田舎へ行けば気の触れた人間としてずっとどこかへ幽閉されるような気がする。

そんな義勇の危惧を証明付けるように、家の物を持ち出すことは許されず、義勇が持ち出せたのは亡き姉の普段遣いの高価なわけではないえんじ色の着物だけだった。
それだけを抱きしめて、泣きながら引きずられるように汽車に乗せられる。

両端を大人に固められたら10歳の義勇に選択肢などない。

家を遠く離れてどこかの駅に止まった時に、厠に行きたいと言って席を立ち、閉まる直前の戸から付き添い…もとい監視の大人の手を振り切って駅に飛び降りた。

騒ぐ大人は、しかし扉のしまった汽車の中。
切符は持たされていないので、汽車のいなくなった線路に飛び降り、そこから外へと抜け出した。


どうやらそこは家からはずいぶん離れてしまった田舎の小さな駅だったらしい。
なにもない。
人家すらない。
姉の形見の着物1枚しか手にせず逃げ出した街育ちの義勇は途方にくれた。

詰んだ…人生が詰んだ。

駅に戻れば親戚の手が回って幽閉一直線な気がする。
かといってあたりはもう真っ暗になってしまった。

どうしよう…
ぽろり、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。

たった3日だ。
3日前まではこんな夜遅くに外にいるなんてことは考えられなかった。
暖かい家の中で姉さんと一緒に過ごしていた。

まるで悪夢をさまよっているようで、寒くて心細くて怖い。

やっぱり駅に戻ろうか…そう思ったが、駅の方向すらもうわからない。
足も痛くなってきて、思わずしゃがみこんだ時、いきなり暗闇からぬおぉっと大男が姿を現した。

「うあああああーーー!!鬼―――!!」
悲鳴をあげて逃げようとしたが、腰が抜けて逃げられない。

「おにぃぃ~~?」
と言いながら近づいてきたのは、鉄砲を担いでいるので鬼ではなさそうだが、顔いっぱいにヒゲが生えていて、本で見た山賊そのものだ。

「お前…子どもが一人でなんでこんな山の麓に?
夜に一人でいたら、本当に鬼に喰われちまうぞ」
と、男はひょいっと義勇を抱えるとそのまま歩き始める。

これは…人さらいだ。
俺は売られてしまうんだ…。
そう思うものの、恐怖のあまり身体が動かない。

そのまま連れて行かれたのは粗末な山小屋で、壁にはクマから剥いだ毛皮やら鉄砲やらがかかっていて、義勇はそれだけで萎縮してしまう。

「お前…どこから来たんだ?親は?」
と、男は色々聞きながら、まあ食え、と、汁物を差し出してくるが、それもなんだか得体が知れない気がして義勇は首を横に振って震えることしか出来なかった。

「あ~こりゃあ駄目だ。
鬼とか言っとったし、先生んとこ行きか~」

やがて男は諦めたように薄汚れた布団を敷くと、そこに寝るように言って、自分は銃を抱えたまま、扉の方を向いて座ったまま眠り始める。

あとで知ったところによると、男は山に狩りに来た猟師でたまたま義勇を発見したということだ。
そしてこんな所にこんな時間に子どもがいるのもおかしいと、誘拐されてきたか、あるいは、義勇が鬼と発言したために鬼に追われてきたのかどちらかわからず、何も聞き出せないため、子どもを多く引き取って育てている鱗滝のところへ連れて行こうと思ったらしい。

入り口を向いて銃を抱えていたのは、もし攫われてきたのだとすれば人さらいが来るかも知れない…と思って用心していたとのことだった。

だがそんなことは義勇は知らない。

だからもしかして…自分は見張られているのだろうか…
逃げようとしたら銃で撃たれるのだろうか…

そんな風に思って恐ろしさに震え上がったが、どこか汚れた布団に横たわる気にもなれずに、そのまま膝を抱えて一晩を明かした。



それでも疲れていたのだろう。
いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
気づけば昼前で、男が握り飯を握っている。

「坊主、とりあえずこれから山の上の偉い先生のとこに行くからな。
俺は俺の仕事があるし、そこでしばらく色々教えてもらって面倒を見てもらうといい」

恐ろしげな顔で笑いながらそういう男。

色々?何を?奴隷としてのノウハウか?!
と、義勇は一気に絶望的な気分になるが、やはり猟銃の前には恐ろしくて抵抗も出来ず、山に引きずっていかれることに…。

そうしてどんどん人里離れた山奥へ。
これは…なんとか逃げ出さねばならない。

そうは思うものの、慣れぬ山登りですでに足はクタクタだ。
逃げても追いつかれるだろう。

そのうちに夕暮れになり、
「これは…夜になるまでに上に着かないかもしれないな。
先生が迎えに来てくだされば良いが…」
と、男は困ったような顔をし始める。

その言葉に義勇ははっとする。

そうだ、夜だ。
周りは木も多く草も生い茂っているから、視界が悪くなる夜なら逃げられるかも知れない。

希望が見えてきた気がした。
しっかりと姉の形見の着物を抱きしめたまま、ゆっくりゆっくりあるき出す。

そうして日がどんどん暮れてきてとうとう夜に。

「危ないから離れないようになぁ…」
と言う男から、少しずつ少しずつ横へずれて、姿を隠せそうな、逃げられそうなところを伺う。

そして…機会は訪れた。

「お、明かりが近づいてくる。先生だ」
と、上の方からかすかに近づいてくる明かりに男が足を早めた時だった。

義勇は急いで道を反れて脇の草むらに向かって走り出す。

「あ、おいっ!!待てっ!!!」
と、男が慌てて言う声に耳を塞いでひたすらに走る。

幸いにして男は先生とやらとの合流を優先することにしたのだろう。
追ってはこない。

義勇は走って走って走って…やがて疲れてその場にしゃがみこんだ。
どのくらい道から離れたのだろう。
はぁ、はぁ、と息が苦しくて、心臓もドキドキしている。

もう走れない…
蔦子姉さんならもっと走れたのかも知れない。
こんなことならもう少し鍛えておくべきだった…

とまず思い、それからハッと我に返る。


そう言えば…ここは山のどのあたりなんだろうか…
人さらいから逃げる以前に、どうやったら山を降りることができるのか、どちらに行けば良いのかがわからない。
それどころかとにかくがむしゃらに走ったため、さきほどの道の方向すらわからなくなっている。
このままでは遭難だ。

冷静に考えてみれば、これはあまりに浅はかな行動だった…と、義勇は気づいた。
どうしよう…と、不安と恐怖で頭の中がいっぱいになった時、さらに最悪な事態が訪れる。


──人間の匂いがするなぁ……

ガサリ…と、前方の草が揺れる。

ごくり…と息を飲んで姉の着物をぎゅっと抱きしめたまま硬直する義勇の前に現れたのは、姉を喰ったのとはまた形状が違うが、頭に角が生えて目が中央に一つ。大人の男くらいの大きさの異形のモノ…鬼…だった。

草をかきわける尖った爪の生えた手…。
視界をさえぎるものがなくなると、一つしかない大きな目が義勇の姿を映し、大きな口が

──これは…こんなところに美味そうな子どもかぁ
と、にやりと笑みの形を作った。


喰われる…と思った瞬間、3日前に鬼に喰われた姉の姿が脳裏に浮かんだ。
生きたまま喰われるというのは、とてつもなく痛く苦しいだろう。
それでも女である姉は義勇の事を想って悲鳴一つあげはしなかったのだが、義勇には無理だった。

怖い、怖い、身の毛がよだつほど恐ろしい。


──うあああああーーー!!!!

無意識に自分の声がうるさいと思うのだろうか。
義勇は耳をしっかり両手で塞いで、思い切り悲鳴をあげた。

これが物語なら…おとぎ話なら、悲鳴を聞きつけて正義の味方が鬼を倒してくれるはずなのだが、そんな奇跡のようなことは現実には起こらないのだ…と、義勇は姉の時で経験済みだ。

もうだめだ…痛い、苦しい、恐ろしい思いをしながら自分は死ぬのだ…

泣いて震えながらそう思った時だった…。


──壱ノ型 水面斬り!!

という凛とした涼やかな声とともに、おとぎ話の世界が広がった。


月夜に浮かぶ宍色の髪。
まるで絵物語の牛若丸もかくやと思うほどに刀を手に身軽に飛び上がる美しい少年。

彼が繰り出す朝の日に光る海のような色合いをまとった剣筋が鬼の首を見事な一撃で刎ね飛ばす。

ぽ~んと毬のように夜空を舞った首はころりと地面に転がって、残された身体と共にさらさらと砂のように崩れて風に飛ばされた。

少年はそのまま、すと、と、地面に降り立つと、

──大丈夫か?立てるか?
と、ニコリと輝くような笑みを浮かべて、しっかりと力強い手を差し伸べてくる。

その姿は月明かりのした、あまりに神々しい。
夢…夢だ……

と、そこで現実感のなさにあまりに続いた緊張の糸が切れて、義勇はプツリと意識を失った。



そうして次に目が覚めた時には事態はさらに複雑化している。

ボソボソと聞こえる声は義勇の希望とは違って、山賊ともうひとり年老いた男の声だった。
ああ、やはりさきほどの一連は夢だったのだ。

現実であんなふうに目の覚めるような見目の良い正義の味方が助けてくれるなどありえない。

それでも道に迷って鬼に喰われて死ぬよりは、奴隷として売られるのでも生きているだけマシなのだろうか…

そんな風に思いながらこっそり目を開けてみると、そこにはなんと天狗が座っている。

天狗?!
鬼、山賊の次は天狗なのか?!

義勇は飛び起きて反射的に逃げようと立ち上がったが、
「待てっ!落ち着きなさい!!」
と、天狗に腕を取られて完全に恐慌に陥って悲鳴をあげて泣きわめいた。

もうこんな怖いことばかり続くなら、いっそ殺してくれ!!と思って、そうも叫んだ気がする。
怖くて怖くて、生きている方が辛い。
姉の元に行きたい。

自分でももうどうすればいいかわからなくて、とにかく泣き叫んでいると、ガララっと襖が開いた。

「先生?!どうしたんですか?!」
と、その向こうに見えたのは、さきほどと着物こそ違うが、鬼から義勇を助けてくれた少年だ。

「助けてっ!!助けてええーー!!!」
と、彼だけがこの世で唯一の頼りだとしがみつけば、ふわりと香る清潔感あふれる石鹸の匂い。

「大丈夫。落ち着け。助けてやる。俺が守ってやるからな」
と、背丈はそうは違いはしないものの、義勇とは比べ物にならないほどにしっかりと逞しい腕が背に回り、とん、とん、と、背を軽く叩いてくれる安心感に、義勇は少し落ち着いて、それでもぎゅうっとさらに強く少年にしがみつく。

「大丈夫。ちょっと待て」
と、背に回っていた手が優しく髪を撫でてくれる心地よさに、促されるように義勇が彼の肩に頭を預けると、少年は、

「俺が預かって大丈夫ですか?」
と、部屋の中に向かって声をかけた。

それに対して天狗の方が
「ああ。頼む。出来ればその子の事情を聞いて、こちらの事情を説明してやってくれ」
と、少年の腕の中で落ち着いてしまえば意外に優しげに聞こえる声で言う。

少年が普通に接しているところをみると、悪い天狗ではないのかもしれない。
そう言えば、姉が読んでくれた本では確か牛若丸は鞍馬山の天狗に武術を教わったと書いてあった気がする。

非礼をわびた方がいいのだろうか…と、義勇も一瞬思ったが、それをするより先に、

「ではとりあえず行くか」
と、ひょいっと実に軽々と少年に横抱きに抱えられてしまう。

え?え??
さすがに驚いた。

自分と同じくらいの背の人間を抱えあげることができることにも、そもそも、抱えあげるという行動にも。

「あ、あの、俺自分で歩け……」
「足が痛いだろう?歩き慣れていないようなのに随分と歩いたようだ。
葉で切った傷もあるし、あとで手当をしてやる」

慌てて言おうとした言葉は、ニコリと綺麗な笑みと共に降ってくる言葉に遮られて、義勇はなんだか赤面してしまう。

よくよく見れば少年の右頬には大きな傷跡があったが、それを含めて少年は本当にとても顔が良い。声が良い。
そして…性格も非常に良いようだ。


連れて行かれたのは6畳間ほどの部屋。
広いとは言えないが、掃除が行き届いていて清潔感があり、窓際の文机には竹で作られた一輪挿しに花が一輪。
それがなんとも言えない品の良い趣を醸し出している。

部屋に入ると座布団に降ろされ、水差しから注いだ水を差し出された。

そして、
「たくさん泣いたようだからな。まず水分を取った方がいいぞ」
と、ふわりと柔らかいおひさまの匂いのする布で優しく目元を拭われて、なんだか夢の世界にいるようにほわほわとした気分になる。

「…ありがとう……」
と、義勇はそれを受け取って一気に飲み干す。

昨日から飲まず食わずだったので、本当はかなり喉が乾いていたことに自分でも初めて気づいた。

少年はそんな義勇に優しく微笑みかけると、もういっぱい水を注いでくれ、さらに
「腹も減っているだろう?」
と、盆の上に乗った布巾を取って、握り飯も差し出してくれる。

そう、腹も減っていた。
すごく減っていたのだ。

ホッとした途端に襲ってきた空腹に耐えかねて、義勇は礼を言うと握り飯に手を伸ばす。
それはたくあんを添えただけの塩にぎりだったが、これまで食べたどんな食べ物よりも美味しく感じた。

義勇がそうやって夢中で握り飯を頬張っている間、少年は静かに説明をしてくれる。

少年の名は錆兎。
義勇は誕生日が2月で早生まれなため9歳だが、錆兎は学年は同じですでに誕生日が来た10歳だということだ。

同じ年なのにこんなに強くて落ち着いていることに義勇はひどく驚いたが、錆兎は剣術家の祖父を持ち、幼い頃から刀を握っているから強いのだという。

そしてこの家の家主はさきほどの天狗の先生で、彼は錆兎の祖父のお師匠でもあり、錆兎も彼の元で修行中の身だということだ。

「だからお前は安心して良い。
俺は強いが師範の鱗滝さんはもっと強い。
かつては鬼退治をしている人間の中でも10指に数えられ、今は剣士を育てているすごい人だ。
鬼が大挙してきても俺と鱗滝さんでお前のことは守ってやるから」

そう言ってくれる錆兎はなんと頼もしいことか。
さっきだって信じられないほど強かった。

しかしそうか…やはり天狗は牛若丸のときと同じく剣術の先生なのか…

妙に納得してしまえて義勇が感心してそう呟くと、錆兎が不思議そうな顔をするので、錆兎は鞍馬山の天狗に鍛えられた牛若丸かと思ったと説明したら、

──そうだな…俺は牛若丸というよりは、鬼を退治する桃太郎だ
と錆兎が笑って言った。


そのあと錆兎は義勇に、義勇も家族に鬼を殺されてここに逃げてきたのか?と聞くので頷いて、事情を説明しようとすると、少し気遣わしげにキリリと形の良い眉を寄せ、

「辛いなら無理に話さなくても良いぞ。
もちろん話すことで楽になるならいくらでも聞くが…」
と、言ってくれる。

強いだけじゃなく、錆兎は細やかで優しい。
全ての事情を知ってもらって全てを預けてしまいたいと義勇が泣きながら話す要領を得ない話をずっと黙ってきいてくれて、義勇がすっかり話し終わると、ただ、

──辛い思いをしたな。これからはずっと俺が側にいるからな
と、胸を貸してくれた。



そうしてしばらく泣いて落ち着くと、錆兎はとりあえず風呂に入るか身体を拭くかして着替えた方がいいな、と、着替えを用意してくれる。

そう言われて義勇は自分が山をさすらって随分と汚れていることを思い出した。
そんな状態で抱きついたので、せっかく風呂に入って綺麗にしたのであろう錆兎にまで土汚れがついてしまっている。

「…ごめん…錆兎まで…」
と慌てて謝るが、

「ああ、払えば大丈夫。それよりどうする?風呂か拭くか。
別にお前がどちらも嫌ならそのまま寝間着に着替えても良いけどな」
とくしゃりと頭を撫でられた。

ああ、優しい。
この激動にして最悪の3日間を思うと、本当に地獄から一気に天国に来たようだ。

「このままは気持ち悪い…けど、知らない所に一人は怖い…」
「ん、わかった。じゃあ身体だけ拭くか。湯と手ぬぐいを持ってくるな」

そう言って立ち上がる錆兎。
本当は…本当は風呂に入りたいのだけれど…と、思った瞬間、思わずその着物の裾を握りしめてしまった。

「…なんだ?」
とにこりと降ってくる笑みに、おそるおそる言ってみる。

「あの…一人では怖い…けど…風呂には入りたい…かなって…」
「あ~、一緒にってことか」

一瞬意味がわからなかったのだろう。
錆兎は少し固まって、それからややぎこちないような笑みを浮かべた。

それに、いきなり初対面の人間が一緒に風呂に入りたいなどと不躾だったか…と、
「…ご、ごめん。迷惑ならっ…」
と、義勇が自らの言葉を慌てて取り消そうとすると、男らしく少しゴツゴツした指先が、す…と、義勇の唇に触れて言葉をとめる。

「そうではない。ただ、あんな経験をしてきたのなら、3日間も一人でさぞや辛かっただろうと思っただけだ。
一人きりは寂しいよな。…わかるよ。
これからは俺がずっと一緒だ。何も心配しないでいい」

ずきん…と、心の臓の中央を射抜かれた気分だ。
本当に、本当におとぎ話の主人公のように錆兎は格好いい。
どこまでも強く賢く細やかで…そして…優しい。

姉さん…姉さん、こんな時にごめんなさい。
錆兎が格好良いです。夢の中にいるみたいです。
なんだか心がほわほわします。
幸せです。
薄情な弟で本当にごめんなさい…。

本当に…色々ありすぎて現実についていけない頭で、義勇はそんな事を考えた。
人生の不幸が一気に押し寄せたような3日間の末におとぎ話の出来事のように巡り合った少年のきらきらさ加減に義勇の頭はパンク寸前で、でもそんな風に思う自分が自分を守って死んだ姉に対してあまりに薄情な弟に思えて、本当に悪い事をしている罪悪感のようなものも覚える。

まあ実際姉の霊というものがいたとしたなら、手塩にかけて育てて守り抜いた弟のそんな様子に

──あらあら、義勇ったら。いいのよ。姉さんの代わりにあなたを守ってくれる相手がこんなに素敵な男の子で姉さんもホッとしたわ。良かったわね

と、あの優しい笑顔を浮かべながら心の底からそう言ってくれたのだろうが……



風呂に入ると、幼い頃に姉と一緒に風呂に入っていた頃のように、錆兎が髪を洗ってくれる。
義勇よりも太く硬い指先で、なのに柔らかな姉の指先がしてくれたように、優しく優しく義勇の髪を汚れやもつれをなくすように、梳いていく。

背を流してくれる手も随分と手慣れていて、聞いてみると、錆兎の実家は客が多く、その客の連れてくる幼い子ども達の世話をしていたからだと言われて、納得した。

こうして風呂からあがって部屋に戻ると、水と共に籠に入った小さな赤い実を差し出してくれる。

勧められるまま一つ口に入れてみると、甘酸っぱくて美味しかった。

「美味しいっ!」
と思わず声をあげると、

「それは良かった。今日、お前が来ると先生に聞いて、修業の合間に摘んできたんだ。
山桃という。とれる時期は短いが、口にあったならまた摘んできてやる」
と、錆兎が微笑む。

錆兎が最初の日に義勇にくれた、そして義勇が初めて食べた山桃、その花言葉は

『ただ一人を愛する』
だということを、義勇はのちに知るが、この時はそれを知らない。






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