一体何が起こってる?
それが目を覚ましてまず思った事だった。
確か自分は意識を失って…次に目を覚ました時にはそれだけはしっかり抱きしめていたはずの元恋人に模したクマのぬいぐるみサビ君が無くなっていて…
そして今、再度気を失って目を覚ますと、その元恋人が目の前にいる。
ありえるはずがない。
いくら義勇が望んだところで、映画の撮影の役作りのために始まった疑似恋人関係は、撮影が終わった瞬間に終了したのだ。
もしかしたら…もしかしたら、義勇が倒れていて病院に担ぎ込まれたとかなら義理で身元保証人くらいにはなってくれるかもしれないが、こんな、まるで大切な恋人を前にしたような様子で付き添っているわけはない。
…とすると、これはなんだ?夢?
今、何か泣きながら自分の名前を繰り返し呼ぶ、元恋人の姿をしたこの男は一体誰?
今自分の目の前にいるのは、まさかサビ君が人間になった姿だったり?
などと現実離れした事を考えて、
──サビ君?
と、かけてみようとした言葉は、いきなり抱き寄せられて押し付けられた、相手の厚い胸板に吸い込まれて行った。
ぎゅっと顔を押し付けられたまま、すん…と、息を吸い込むと、この1年嗅ぎ続けた錆兎のフレグランスと体臭の入り混じった、安心する匂い…。
ハテナマークでいっぱいだった頭は、その安堵感にほわっと飽和状態になった。
が、一気に力の抜けた身体をその逞しい腕に預けている間も頭上で聞こえる嗚咽。
義勇の知っている錆兎はいつだって強くて頼もしくて色々な事に余裕がある男だったのに、今自分を抱きしめながら子どものように号泣しているこの男は一体…?
それでも…頼もしくて強い錆兎と同じくらい、今ひどく傷ついた子どものように泣く相手が愛おしかった。
だからしっかりと抱きかかえられて身動きの取れない状態から、もごもごと少しだけ拘束を解いて身体の自由を取り戻すと、義勇は初めてその宍色の頭に手を伸ばす。
そしてそっと撫でつけた髪はやっぱり見た目通りふわふわで手に心地よかった。
錆兎はいつもいつも何かあるたび義勇の頭をこうして撫でてくれたものだが、こうやって自分よりも強く大きな相手を撫でていると、ぎゅっと義勇を抱きしめている腕に力がこもる。
好きだな…やっぱり自分は錆兎が好きなのだ……
泣いていても笑っていても…その不在で自分の人生の全てが無価値になってしまうほどには……
でも…好き…と心の中から湧き出てくる感情は言葉には出してはいけない…
単に仕事熱心で、大勢の人に期待される役者として完璧を期するためとはいえ、義勇がそんな感情を持つ原因を作ってしまった役作りのための疑似的関係を申し出た事で、錆兎は責任を感じて困ってしまうかもしれない…。
自分みたいなつまらないなんの価値もない人間が、みんなにとって必要な大スターである錆兎を煩わせるなんて事はあって良いわけがない…
そう思って義勇は口をつぐんだ。
そして口から出られなくなった想いは目から透明な雫となって零れ落ちていく。
それに気づかれないように義勇が少し俯いて、それでも頭を撫で続けていると、今度は不意に頭上から笑い声が聞こえた。
──え??
正直展開についていけない。
さきほどまで泣いていたのに今度はなんなんだ?
どこか様子がおかしい錆兎に、自分の悲しさ、切なさなんてどうでも良くなってふっとんでいく。
そして
「…えっと…なんか…大丈夫か?」
泣きながら笑う相手に思わずそう聞くと、
「ああ、大丈夫。義勇がこうして生きて目を覚ましてくれた瞬間に大丈夫になった」
と、錆兎は泣き笑いをしながら言った。
それからふと笑みが消える。
──義勇が死んじまったら…俺も死のうと思ってた…
そう、どこか思い詰めた顔で言って、錆兎の端正な顔が義勇の顔を覗き込んできた。
本当に…本当に意味がよくわからない。
だって…何故錆兎の生死に自分が関わるんだ?
単に映画の役作りのための疑似恋人にすぎないのに?
そう確かに思う…なのに心の奥底がぽわぽわと温かくなった。
その温かさの原因は間違いなく、錆兎がまるで自分を本当の恋人のように大事に思っているなんていう、義勇にとって都合のよすぎる曲解した考えで…でも、自分からそんな幸せな誤解を解きたくなくて、義勇はただ錆兎を見あげて次の言葉を待つ。
すると錆兎は漢らしい眉を少し寄せて、義勇の頬をそっとその大きな手で包み込んだ。
「…なんで?」
とかすれた声で聞かれて、義勇はきょとんと小首をかしげた。
なにが何故なのかわからない…そんな義勇の反応に、錆兎は悲しそうな顔になる。
それに義勇まで悲しい気分になった。
だって今までずっと錆兎を困らせたいと思った事もなければ、そんな風に悲しい顔をさせたいと思った事もない。
錆兎を困らせている、悲しませている…そう思うと、もう申し訳なさに居たたまれなくなってコロン、コロンと目から涙が零れ落ちると、錆兎は今度は慌てたように手のひらで義勇の涙を拭って言った。
「ご、ごめんな?泣かせて悪い。
俺がきっと何か気に障る事してしまったんだな」
と、自分の方も泣きそうな顔で言う錆兎に、義勇はふるふると首を横に振る。
違う…違うんだ………い、今泣けて来たのは…申し訳なさ過ぎて…
と、言う義勇に錆兎は目を丸くした。
「…よく…覚えてないんだけど……気づいたらここにいるし……錆兎に迷惑かけてるみたいで……」
さらにそう言うと錆兎の顔が険しくなって、義勇はビクッと身をすくめた。
「…義勇……まさか…マンションにいたのをいつのまにか連れ出されていたとか…じゃないよな?」
何か言い方が悪かったらしい。
誘拐でもされたのかと誤解されている気がして、義勇は慌てて訂正をいれた。
「違ってっ!俺、錆兎に迷惑にならないうちに家を出ようと思って…家を出て…少しベンチで休んでたんだけど…そこから記憶が………」
「ちょっと待ってくれっ!
…なんか聞き捨てならないこと聞いた気がするんだが……」
と、義勇の言葉は途中で遮られた。
「俺に迷惑って…なんだ?
誰か義勇におかしなこと吹き込んだのか?」
静かだがたぶんに怒りを含んだ声…。
しかし初めて見る怒りをあらわにする錆兎に怯える義勇に気づくと、
「別に義勇に怒ってるわけじゃないからな?
怖がらせてごめんな?」
と、いつもの錆兎に戻って頭を撫でながら微笑みかけて来た。
優しく優しく髪の間を滑る長く骨ばった指先。
額に口づけてくる形の良い唇。
──…義勇が大事だ……
と、吐息と共に流れ出る少し掠れた…だが甘い声…
「…誰に何言われたか知らないが…義勇の事で俺が迷惑なんて思う事は一切ない。
本当に…何より誰より義勇が大事だ…。
世界と引き換えにしたって構わないほど……
義勇が居ない人生なんて、俺にとっては何の意味もない」
………
………
………
なんだか…ありえない言葉の数々を聞いた気がする……
何故?というのは義勇の方が聞きたい。
もしかして…錆兎の恋人役に対する気持ちはクランクインまでは継続するのだろうか……
そんな疑問をそのままぶつけてみると、錆兎はぽかんと口を開けたまま呆けた。
「え?ちょっと待てっ!!
なんでそんな話になってんだ??
本当に誰かが変な事吹き込んだのか?!!」
と、こんな慌てた錆兎は初めてで、びっくりしてしまう。
自分は何かおかしなことを言ったのだろうか?
「…えっと…ごめん……
俺…変な勘違いしてしまってるのか?
錆兎が俺を大事だって言ってくれているのは、恋人関係が持続してるからかと思ったんだけど……単にボランティア的な何かだったなら、ごめん」
と、思わず謝罪すると、違うっそうじゃない!と錆兎はくしゃっと自分の前髪を掴んで小さく首を横に振った。
「そっちじゃなくて…
なんで恋人関係が終わったとか、そんな話になっているんだっ?!」
「…?
だって…映画の撮影が終わったから……もう役作りは必要ないと思って……」
「…俺…好きだって言わなかったか?」
「……?」
「…夏に旅行言った時に…初めてキスして……」
言われて当時の事を思い出して義勇は思わず赤面する。
うん、あれは本当に一世一代のロマンティックな出来事だったと思う。
おそらくもう二度とあんな風に自分を好きだと言う相手はいない。
だが…
「あれは…映画の役作りのため…だろ?」
と、極々当たり前の事を言ったら、錆兎が絶句した。
そのままガックリとその場に膝をつく。
そして信じられないようなものを見るような目で見られて、義勇の方が動揺した。
「…ちょっ…待て…本当に待ってくれ……」
「………?」
何か悪い事を言ってしまったのだろうか…
そんな不安が顔に出ていたのだろう。
錆兎は自分もまだ考えがまとまらないような様子で、しかし優しく額にキスを落としながら、
「…ごめんな?
義勇は悪くない。なんにも悪くないぞ。
俺が誤解をされるような態度を取ったままだったのが悪い」
と、まず義勇の不安を取り除いてくれた。
そう、いつでも錆兎はこんな風に優しい。
義勇の甘えをいつでも許容してくれるのでは…と、誰かに甘やかされるなんて経験がない義勇ですら思ってしまうほどには……
きちんと話し合うにはまず錆兎の言葉を待つべきなのだろう。
でも自分がおかしなことをしているのでは…と思うと不安で、義勇はぎゅっと錆兎のシャツの胸元を掴んだまま、まず自分の主張を口にしてしまう。
「…錆兎に…要らないって言われるのが怖かったんだ……。
だから言われる前に出て行こうって思った……
錆兎が自分が不在の時に自分の代わりにって言ってくれたサビ君がいれば…完全に終わったわけじゃないって思っていられるって……」
勝手な言い分だ…と義勇は思う。
大スターの錆兎を自分の勝手でバカバカしい妄想に付き合わせるなんて、本来なら許されない…そう思うが、今の様子なら泣けば拒まれないのでは…なんてずるい考えが脳内で広がって行く。
俺は最低だ…と、情けなさにぽろぽろ泣いていると、錆兎はまたぎゅっと義勇を抱きしめてくれた。
そして…すごく辛そうな声で言う。
「悪い…。ほんっとうにゴメンな。
誤解されるような状態のままきちんと修正説明しなかった俺が全部悪かった。
俺、あれでちゃんと告白したつもりだったんだ。
義勇を不安にさせて、危うく死なせるとこだったとか、本当に詫びのしようもない…」
なんと錆兎は義勇を全く責めず、むしろ自分を責めた。
いつもいつも優しい錆兎…
自分がこんなに嫌な部分を出してもまだ嫌わないでくれるのだろうか……
義勇は手を伸ばした。
いつもいつも拒絶されるのが怖くて伸ばせなかった手…
いまなら…そう思って伸ばすと、それをまるですごく大切な物のように手に取ってくれる。
伸ばした手を両手でしっかりと…しかし恭しく包まれて、指先に静かに口づけを落とされた。
そして…さきほどから何度も繰り返されていた言葉をまた言われる
──義勇が…大切だ…
それはまるで神聖な誓いの言葉のように紡がれた。
「…誓うから…一生側にいて守る。大切にする。
一緒に年を重ねていつか2人で爺さんになって、義勇が天寿を全うするのを看取るから…
それまでは俺は側を離れないし死なない。
1人にしたりしないから…側にいてくれないか?」
そう言ってから、少し眉尻をさげて
「とりあえず色々怒涛だったからこんな場所でこんななし崩し的な告白でごめんな?
あとでちゃんともう少しロマンティックなシチュエーションを用意する…」
と、困ったようにつけ足した。
まったくありえない話である。
義勇の人生の中でおそらくこれは錆兎の相手役に選ばれた時と並んでドラマティックな出来事だ。
これがロマンティックでないとしたら、何をロマンティックだと言えば良いのだろう…
義勇なんて、もうあまりに現実感がなさすぎて、夢なんじゃないかと思ってさえいるのに…。
そう…錆兎以外からは、こんな風に大事に思っているなんて言われた事は義勇の長い人生の中で一度もなくて、自分がそんな風に言ってもらえるような人間じゃない事は義勇自身が一番よくわかっているのだ。
だからとても信じられなかった。
…とても…とても嬉しいのだけれど……
もしかして…同情とかなのだろうか?
もしくは義勇がこうやって倒れた事に対する責任を感じているとか?
義勇的にはそのどちらだとしても構わないし嬉しい。
錆兎に負担をかけて翻意ではない事を言わせてさせてしまっても一緒にいたいと思ってしまっている自分の性格の浅ましさを嫌悪したりもするのだけれど…
だからむしろ問題は錆兎が実は自分が義勇に対して責任を感じたりする必要は欠片もないのだと気づいてしまった時だ。
たぶん死んでしまう…悲しさと寂しさで今度こそ…と思う。
それでも、差し出されたこの手を取らないという選択肢は義勇にはないのだ。
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