ドラマで始まり終わる恋の話_7_ドラマで始まりひっそりと続く恋の話

パタン…とドアを閉めて鍵をかけ、ここ1年間過ごしたマンションのエントランスを出ると、義勇は郵便受けの前で足を止めた。

ポケットから出すキーホルダー。
それは映画の中で主人公が彼の恋人に贈ったのと同じ物…

そして…義勇が住むには立派すぎるこのマンションに初めて連れて来られた時に最初に錆兎に渡された、“錆兎の恋人役”のための贈り物だった。


これを渡された瞬間、2人の恋人役としてのドラマは始まって、そしてこれを返す事で終わるのだ…。

義勇は手の中の鍵をしばらくぎゅうっと握り締め、そして何かを振り切るように2人の物だった鍵付きの郵便受けにそれをいれる。

かちゃん…という鍵が落ちる音。
それは俳優鱗滝錆兎と義勇のドラマの終演のベルだった。



そうしてズキズキとした心臓の痛みに気づかないふりで、義勇がガラスの自動ドアをくぐると、さきほどまでの雨は雪に変わっている。

ひたすら悲しく冷たい雨と違って、それはふんわりとした柔らかさを持って…しかし、その柔らかさのせいでどこか切ない。

ズキン……とまた胸に痛みを感じて、義勇はぎゅっとコートの胸元を空いている方の右手で掴んだ。

外に足を踏み出せば、うっすらと白い道路に大人の男性にしては若干小さめの義勇の足跡がつくが、それはすぐあとから降り積もる雪に消されていく。

まるで義勇がこの場に居た事がなかった事になるかのように…

目元に何かこみ上げてくるのは、きっとズキン、ズキンと痛む胸のせいだ。
そう自分に言い聞かせて、義勇は駅に向けて歩きだした。



こうして歩を進めてふと悩む。

とにかく錆兎が戻るまでにこの場を離れなければ…と思うものの、さてどこへいったものやら……

なにしろ1年間ここで暮らすと決まった時に、今まで住んでいたアパートは毎月家賃4万を払い続けるのがもったいないからと解約してしまっていた。


どちらにしても、もし解約していなかったにしてもあそこには戻りたくない。

バカバカしい…と我ながら思うのだが、待っていたいのだ…

――義勇、迎えにきたぞ!
と、いつもの笑顔で両手を広げてそう言ってくれる錆兎を…

錆兎は今も時間をみつけては迎えにくるために自分を探してくれている……
元に戻った苦しい生活に悲しくなった時に、そんな風に1人秘かに想像して心の慰めにするくらいは許して欲しい…

もちろん恋人役を演じる映画の撮影はもう終わるのだからそんな事は絶対にあり得ない。
それがわかっているからこそ、簡単にわかってその気になれば迎えに来る事ができてしまう場所には居られないのだ。

そう、錆兎にとってはこれは“ドラマで始まり終わる恋の話”だが、義勇にとっては“ドラマで始まりひっそりと続く恋の話”なのである。



こういう時は海辺の小さな町にでも行くのが正しいのかもな……

そんな事を思いながら義勇は初めてここに来る時に錆兎と手を繋いで歩いた遊歩道をちょうど逆方向へと歩く。

あの時は初春で遊歩道に沿うように植えられている桜の木が固い蕾をつけ始めたのを見ながら同じこの道を逆方向に歩いた。

その道を今はまるで桜吹雪のような雪に見送られながら、駅の方へと歩いていく。


しかし自分で覚悟をして日程を決めたはずなのに、存外に諦めの悪い足は数メートルも歩くと止まってしまった。

(…最後だから…目に焼き付けておこう……)

と、振り返ると見える光景に、今までの1年が本当にドラマのように思えてくる。
それほど…現実感のないお伽噺のそれのように綺麗なマンションが目に移った。

つい先ほどまでそこに住んでいたなんて本当に信じられない…

あれは実は義勇が見た夢だったのだ…と言われても、そうだったのか…と納得できてしまう。

でも……その愛おしくも美しい時間は確かに存在していたのだ……最愛の恋人と共に……

じわりと目から溢れ出る温かい涙が頬を伝う事で、義勇は自分が随分と冷えてしまっていた事に気付く。

一度流れ出た涙を止める事が出来ず、そのまま大勢の人のいる駅に行くのもためらわれて、義勇はちょうどそこにポツンと置かれている象を模したベンチに座って涙が止まるのを待つ事にした。


雪は雨のように直接的ではなくじんわりと、冬の寒さを連れてくる。
はぁ~と手を温めようと口元に手を持って来たところで、ここ1年ほど寒い日でも手袋を用意する習慣がなくて、今もそのままつけていない事に気付いた。

そう、この1年間ずっと、錆兎は移動時はたいてい車を用意してくれていたし、車を降りて寒い中を歩く時には当たり前に手袋とマフラーを持ち歩いて義勇につけてくれていたのだ。

そんな1人の頃に当たり前だった自分の事は自分でするという習慣がなくなっている事に今更ながら気づき、どこか心細い気分になる。

寂しい…悲しい…心細い……
止まらない涙を拭うには薄手のハンカチは頼りなさすぎて思わず身を縮めるようにした時にふと触れる宍色の毛並み…

恋人だった相手ほどにはそれは温かさは伝えてきてはくれなかったが、それでもぎゅうっと抱きしめていたせいか冷え切った自分の手よりはよほどぬくもりが感じられて、義勇は縋るようにその、錆兎に貰った錆兎を模したクマのぬいぐるみのふわふわの毛に顔をうずめる。

それは贈り主が本当にそうと思ったかは別にして、それを贈ってくれた時の言葉の通り、錆兎の不在を埋める唯一の存在で、この世で唯一義勇が縋れる相手だった。


悲しくて寒くて冷たい世界で唯一ほんのりと温かさと幸せを運んでくれるクマ…

このまま世界で2人…時を止めてしまえればいいのに……
そう、他の時は止められなくても、自分の時はこのまま止まってしまえばいい…

そう思いながら義勇はクマを抱きしめながら静かに目を閉じた。




その後気付いた時には見知らぬ場所だった。
どこかはわからない。
ただ不快感が全身をつつみこんでいる。

そう、それはまるで義勇の世界そのものだった…

ひどく寒く…息苦しく…身体の節々が痛い…

そしてそんな身体の不快感より何より、確かに抱きしめていたはずの義勇の唯一の救い…クマのサビ君の感触が手に感じられないのが悲しくて、泣きながら伸ばした手は空を切った。

サビ君…とクマの名を呼ぼうと開いた唇からは言葉の代わりにヒュゥヒュゥと嫌な呼吸音が漏れるのみ。
胸もひどく痛む。

なぜか呼吸が出来なくて、ひどく息苦しくて、ああ自分はこのまま死ぬんだな…と思った。

それに関しては本当にもう異論なんかなくて、むしろこのまま苦しいままなら死んでしまうのも構わないと思うのだが、せめて…と思う。

誰にも望まれないのも仕方なくて、誰かに迷惑や負担もかけたくはないとも思っているので、この世で唯一の恋人だった相手に側に居て欲しいなんてことまでは望まないが、せめてサビ君だけは死ぬ瞬間まで側に居て欲しいと願うのはダメだろうか…。

死んでしまったら誰からも忘れ去られても良い。
誰にも望まれず、誰にも惜しまれず、死んだあとの遺体など打ち捨てられても良い。

だから…一つだけ…せめて義勇の生涯でただ一人…一時でも恋人と呼んでくれた彼がくれたあのクマだけは……あの宍色のクマだけは自分の手から奪わないで欲しい…

それは人生の全てを諦めてきた…そして今も諦めている義勇のたった一つの願いだった。

声なんてとっくに出なくて、何か話そうとするとひどく胸が痛んでひゅうひゅうという音しかでなくなっていたが、義勇は必死に頼み続けた。
だが、願いは聞き届けられる事なく、どんどんと身体から力が抜けていく。

…サビ…くん……

ぽろりと散々泣いてカラカラになった身体から最後の一滴の涙が零れ落ちると共に、最後の希望に縋った手は叶えられない望みに力尽きたように、パタンとベッドの上へと崩れ落ちた。

ピーピーと尖った音がけたたましく鳴り響く。
その不快感に眉をひそめる力さえ、義勇にはもう残されていない。

ひどく自分の存在が心もとなく不安感にさいなまれながら人生の幕を閉じようとしている事に心が耐えようもない痛みを訴えた。

…その瞬間だった…

遠くで聞こえる声…
それはとても懐かしくも慕わしい……光に満ちた……

………

手を伸ばしたかった…が、義勇が動かせたのはわずかに指先のみ…
そのまま心に痛みを残しながら、義勇の意識は静かに途切れて行った。








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