政略結婚で始まる愛の話_68_傷心

一日泣いて過ごしたその日の夜、店の前に車がとまる音がした。

店は善逸が幼い頃から住んでいる下町のさびれた商店街にあって買い物客も裕福とは言えない層なので、善逸のパン屋だけではなく立ち並ぶどの店にも買い物客のための駐車場なんて上等なものはない。
だから非常に数少ない車で来る客は路上駐車をすることになる。

今日は善逸は店を閉めていたので、そういう意味では店先を塞いでその日の生活の糧を必死に稼ぐ商店街の人達の邪魔にならない場所ということで、選ばれたのかもしれない。
まあ家の外のことどころか今の善逸は自分の生死すらもう興味がないような状態だったのでとまった車には全く興味を示さなかった。

しかし車がとまってすぐくらいに店の側面の勝手口の横にあるインターホンが鳴る。
なんなんだろう…とわずかに意識が動いたが、それでも炭治郎がいなくなった今、我妻善逸という個人を訪ねてくるような相手は居ない。
店の前に駐車することについての何かだろう…と思って、善逸はそのまま居留守を使うことにした。

全てはそれで終わるはずだった。
…が、終わらなかったのは、近所に住む幼馴染がかけてきた1本の電話のせいである。


──善逸っ!お前何したんだっ?テレビに出てくるようなすげえ車が迎えに来てるけどっ!

他の電話なら出なかった。
しかしその着信音は炭治郎以外では唯一独自の着信音を設定している善逸の数少ない友人からで、しかも何度も何度もかけてくるものだからついつい出てしまったら、第一声がそれだった。

すごい車…という言葉で善逸は炭治郎が迎えに来てくれたのかと思った。
本当にありえないことなのだがそう思って窓のカーテンの隙間からこっそりと下をのぞくと、なるほど絵にかいたような高級車がとまっている。
これはどう見てもこのあたりのさびれた商店街で買い物をするために路上駐車をしているわけではないだろう。

『これ、あれだよな?ドラマとかで金持ちが乗ってる車っ!
なんだかさ、運転手みたいな人にお前が今どこにいんのか聞かれたんだけど…。
お前いまどこにいんの?
戻ってくるまで待ってるみたいだぞ?』
と、そんな言葉が続いて、善逸は驚いてしまう。

運転手付きの車で訪ねてくる相手なんて、炭治郎以外に考え付かない。
いや、炭治郎だって普段は普通の青年で、別に金持ちオーラを出していたわけではなく、とんでもない金持ちの家の跡取りだというのは彼が半ば強引に実家に連れ戻されることになって初めて知ったわけなのだが…

まさか、まさか、まさか?!!
炭治郎が奇跡的に実権を握っている伯父の説得に成功したとか?
いや、炭治郎はまじめでバイタリティがあって素晴らしい青年だが、だからと言って処世術や人心掌握術に優れているタイプではない。
どう考えても大企業の社長の跡取りのパートナーとして向いているところなど欠片もないさびれた商店街で小さなパン屋を営む天涯孤独の善逸を認めさせたなんてことがあるわけがない。
そうわかりきってはいるのに、それでも期待を捨てきれない自分は馬鹿だと思う。

だって自分の周りにそんな高級車に乗って自分を訪ねてくる相手なんて、炭治郎関係しかいないのだ。
そう思えば無視することなんてできやしない。

幼馴染との通話を秒で打ち切って、善逸は事情を聞くべく1階に降りて勝手口に飛びついた。

そうしてバッと開けたドア。
例の高級車の後部座席のドアのあたりで善逸の帰宅を待っていたらしいおそらく運転手なのだろう背広の男が善逸の姿を認めると、後部座席に何か声をかけたあと、恭しい様子でドアをあける。

その間善逸はドアの所で微動だに出来ずに後部座席を凝視していた。

しかしそこから出てきたのは当たり前だが炭治郎ではない。
鮮やかな宍色の髪の整った顔立ちの美丈夫で、なにか圧倒的なオーラのようなものをまといながら、彼は善逸に向かってニコリと人好きのする笑みを浮かべた。

さきほどまでこのまま死んでもいいかも…くらいに無気力だったのに、なんだか良い意味で圧倒されてしまう。

──初めまして。俺は炭治郎の兄の鱗滝錆兎だ。我妻善逸…だよな?
頭はまったく働かず、ただ言われるままに頷いて差し出されたので握った大きな手は、なんだかとても温かく力強かった。


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