政略結婚で始まる愛の話_67_炭治郎の痕跡

善逸が保護された大きな屋敷にはなんと手術室があるらしい。
現在そこで家主のお嫁様が帝王切開の手術中で、善逸は血の気の引いた顔でドアの前に佇む家主に付き添っている。

自分のことでは一切動揺したところを見せない家主が、今お嫁様の出産に際してあまりに青ざめた顔をしているので、思わず
──錆兎さん…大丈夫ですか?
と口にした問いに、即
──大丈夫じゃない…
と言う返答が来て、善逸は思わず笑ってしまった。


鱗滝錆兎……現在の善逸の避難場所の提供者であり、雇い主でもある5歳ほど年上の青年は、善逸の恋人である炭治郎の異母兄で、とんでもない資産家で…そして仕事が出来てイケメンで強くて…と、もう僻む気すら起きないほどの超人だ。

炭治郎からもいつも自分の兄はすごい人なんだと話は聞かされ続けている。
早くに母が亡くなって、父は忙しくてほぼ顔を合わせることがなかった子ども時代、6歳年上のこの兄は炭治郎にとって兄であるのと同時に親のような存在だったらしい。

剛腕だが非常に優れた社長だった今は亡き炭治郎の祖父はこの兄を父の後継者にと決めていたらしいが、祖父の死後、後妻である炭治郎の母の兄、つまり炭治郎にとっての母方の伯父が実権を握って、強引に兄を廃して炭治郎を跡取りにと決めてしまったのだと炭治郎はよく兄にも…そして社長としての能力がない自分を頭に抱かざるを得ない社員達にも申し訳ないとため息をついていた。

善逸からすると炭治郎は無能な人間ではない。
ただ、真っすぐすぎてやや全体を冷静に見渡す能力に欠けているかな、とは思う。
なので自分は社長に向いていないという炭治郎の自己評価は正しい気がした。

そんな中で善逸が祖父から引き継いだパン屋の仕事を手伝ってもらっていたのだが、力も体力もそれなりにあり人当たりのいい炭治郎は実にそつなく仕事をこなしていて、客からの評判も良く、彼が手伝い始めてから売り上げも倍増。
炭治郎自身も楽しかったらしく、このまま二人でパン屋として生きて行こうか…とそんな話をしていたが、それが不可能なことは炭治郎自身が一番よくわかっていたようだ。

いったんは家を捨てると言って善逸が住む古びたパン屋の2階の狭い部屋に転がり込んできたが、結局現実を考えればそんなことをしても相手は大企業の社長副社長なわけだから、人を雇って見つけ出すだろうし、それでも抵抗すれば街の小さなパン屋など簡単につぶされてしまうだろう。
転がり込んで1週間もしないうちにそのことに気づいた炭治郎は、善逸に迷惑をかけられないと自ら親元に戻っていった。


祖父から引き継いだ大切な店ではあったが、善逸は炭治郎との暮らしのためなら手放すのも構わないと思っていたが、実際はそれだけでは済まない。
パン屋を廃業して他の職業に就こうにも、おそらく炭治郎の実家に邪魔をされるだろうということは容易に想像ができてしまう。
貧乏暮しは慣れっこなので炭治郎と二人なら慎ましやかに生きていくのも悪くはないと思うのだが、さすがに全く仕事ができず無収入になれば暮らしてはいけない。

そう…仕方ない。
炭治郎が自分の元から去ってしまったのは、おそらく善逸のためを思ってなのだから仕方がないことだ。
なのに死にそうに悲しく寂しいと思ってしまう自分は我がままだ…と善逸は思った。

大財閥の跡取りともなれば当然次代の跡取りを残さねばならないから、親元に戻った炭治郎は善逸の知らない女性と結婚することになる。
おそらく相手は良いところのお嬢さんなんだろうな…と、善逸はため息をついた。
何不自由もなく育ってさらに炭治郎と一緒に生きていけるとは、なんて幸せな人なんだろう…。

せめて自分が子を産める女性だったなら正式に結婚をするのは無理でもワンチャン子を産むためということで傍にいることも出来たかもしれない…。
でも炭治郎と同性である善逸にはそんな選択肢すら与えられないのだ。

炭治郎が出て行ったその日…元々祖父が亡くなってからは1人きりだったので炭治郎が家に来たりパン屋を手伝ってくれるようになる前に戻っただけなのに、広い世界にたった一人取り残されたような気がして善逸は途方にくれる。

何もやる気が起きず店は休みにして食事も摂らず、炭治郎が残していった痕跡をたどるように洗うことのできないままのエプロンを抱きしめたまま、もうここには居ないのだという現実をみないように目を閉じてじっとしていた。

もうこのまま自分も夢幻になるのもいいかもしれない…などと不可能なことを思いながら涙がついて炭治郎の痕跡がエプロンから消えないように、善逸は片方の手にはエプロン、そしてもう片方の手にはタオルを抱きしめて、声を殺して泣き続けた。

そんな善逸の元に炭治郎が切れたはずの縁を引き寄せるように人を寄こしたのは出て行った日の夜のことである。


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