──真菰~!本物の女の子をみつけたっ!!!
狭霧山の山頂にある師匠と姉弟子と共に住む家に戻るなりそう叫んだら、
──私だって本物の女の子だよっ!!ばかあっ!!
と、いきなり殴られた。
それはこの家の人間の基本なので、真菰も言葉ほど怒ってはいない。
むしろ
「えっと…この子だれ?」
と、聞かれて
「俺の嫁っ!!」
と、答えた時に、
「どこから誘拐してきたのよっ!!」
と、殴られた時の方が痛かった。
それはいつもと同じ修業の日のはずだった。
でもいつもと違う日というものは、突然に来るものなのである。
記憶に残る最初のいつもと違う日は、最悪の記憶だ。
錆兎の人生が一変したその日…錆兎の両親が鬼に殺されたその日はある雨あがりの夜だった。
透明なはずの水たまりが赤く染まったあの夜は今でも忘れられない。
相手は鬼…というには角らしきものはなく、錆兎も他のことを言えた義理はないのだが、それは不思議な色合いをしていた。
金色の髪に虹色の瞳。
そして血のように真っ赤な服に身を包んでいる。
目の中には何かの文字。
しかしそれは漢字だったので当時は子どもの錆兎にはなんと書いてあるのかはわからなかった。
だが、父にはその文字が特別な意味を持つことがわかっていたようである。
父はその姿を目にしてすぐ母に錆兎を逃がすようにと指示をして、それを受けて母は錆兎に一通の手紙と路銀を握らせると、鱗滝左近次という人物を訪ねるように申し付けて錆兎を送り出し、それを見送って館に火をつけた。
父の血の赤、母の火の赤。
そして…両親を死に追いやった鬼の服も赤。
全て鮮やかな赤色をしていた。
その夜から2回目の梅雨の季節が巡ってくる。
そう、とどのつまり、錆兎がこの狭霧山の鱗滝左近次師匠について修業を始めてから2年の月日が経とうとしていた。
いつものようにまだ暗いうちに起き、顔を洗い、身支度を整えるとまず基礎鍛錬のため外に出る。
そして朝食後の本格的な修行の前の準備運動代わりに山を駆け下りて、山の中腹より少しふもとよりの岩場で折り返してまた山頂に戻るはずだった。
狭霧山は元々気温の低い地域にあるし、そもそもが山なので寒い。
なので館を出た瞬間は、いい加減寒さに慣れた錆兎でも身震いをする。
だが、そんな寒さも走っているうちに和らいで、目的地に着く頃にはいつもうっすらと汗をかいているくらいだった。
その日も慣れた山道を駆け下りて、途中、今日の食事当番の真菰の土産にとヤマモモを摘んで腰に下げた袋にしまう。
真菰は錆兎よりも1年ほど前に鱗滝先生に引き取られた一歳年上の少女で、2年一緒に修業を積んだ姉のような存在だ。
週替わりで交互に先生が食事を作るのを手伝うので、当番の日はこの山の上り下りはなく、結果、一人で往復することになる。
なので錆兎は一人で山を駆け下りて、いつもの岩場で水分補給をして戻るつもりだった。
だが、道なき道を走り抜け、最後の草をかき分けた錆兎の目に入ってきたのはなんとも不可解にして現実味のない光景だった。
いつも休憩している岩の上には見事な青い振袖を着た少女。
こんなところにいるのはどう考えてもおかしいようなお姫様のように愛らしい少女がいたのである。
まるで幼い頃に読んでもらったおとぎ話の中のような光景に錆兎は驚いたが、相手はもっと驚いたようだ。
ビー玉のように澄みきった青い目をまんまるく見開いて、桜の花びらのような唇から小さな悲鳴が漏れる。
少女が座っている岩は鱗滝さんがこの場所に休憩用にわざわざ用意したもので乱入者は向こうのはずなのだが、相手があまりに可愛らしいので、錆兎はなんだか自分の方が無礼を働いている気分になってきた。
ほんのわずかな時間、錆兎がそんなことを思っている間に、少女がふらりと前に倒れ掛かる。
危ない!と錆兎がそれを慌てて支えると、随分と長くここにいたのだろうか。
少女はひんやりとした狭霧山の空気をまとったかのように冷え切っていた。
──…あ…あのっ…大丈夫か?
と、声をかけるが、少女はただポロポロと涙を零す。
その様子が可哀そうで、でも可愛くて、何かをしてやりたくて、慰めてやりたくて、錆兎はまずできることから…と、自分の羽織を脱ぐと、
──…冷え切ってるな。これを着てくれ
と、それで少女の細い肩に羽織らせてやった。
錆兎は一人っ子で実家に居た頃の友人も従兄弟も男ばかりで、今まで親しく接したことのある女の子は真菰くらいだが、出会った頃には彼女はすでに1年も剣の修業をしていたので強くて、錆兎も次の日には一緒に竹刀を振るったりしていたので、女の子として特別に意識したことがない。
だからこんな風に気を使ってやらなければならないのであろう普通の女の子を前にしたのは初めてで、どうしていいかわからなくて錆兎は悩んだ。
──女性はか弱いものなのだから、親切に接して必要なら守ってあげるように
と、父に言われて育ったが、そんな教えを実行する機会がいざ訪れると、なかなかに動揺するものなのである。
男として生まれたならば…と、心の中で唱えるも、倒れそうになったのを支えたのをきっかけに近くなり過ぎたように感じるこの距離をどのくらい離せばいいのかすらわからない。
そして行動に悩んだ結果、言葉が先行することになった。
距離は近づけず遠ざけずそのままで、
「俺は錆兎。この狭霧山で師匠のもと、剣術の修業をしている者だ。名を聞いていいだろうか?」
と、問いかけると、
──…ぎゆう……
と、容姿に似合った高く細く可愛らしい声が返ってきた。
名前の方はなんだか男のような名前だなとは思ったが、それを口に出すほどには愚かではない。
──そうか、良い名だな
と、無難に流したあと、今後どうすればいいのかの判断材料にするために、もう一つ質問をすることにする。
「女の子が一人でいるような所ではないと思うのだが、事情を聞いていいか?
何かで迷い込んだということなら、駅くらいまでなら送っていくぞ?
それ以上遠くにということなら、いったん戻って先生に許可を得てからになるが」
そう、これだ。
街中からどころか駅からもかなり離れた山の中なので、こんな所で誰かと待ち合わせと言うこともないだろうし、どう見ても都会のお嬢様といった感じの女の子がこんな所に一人きりでいるのはあまりに不自然だ。
狭霧山には錆兎達の他にはたまに麓の猟師が狩りに来るくらいで人がいないので、当然それを餌にする鬼もいない。
なら安全かと言うと、普通に熊も出るし、なにより寒く、慣れてなければ食料も見つけられない。
このまま一人でいたら確実に死んでしまう。
そもそもが本人だってずっとここにいるつもりではないだろう。
もし近くに迎えがいるなら送ってやればいいが、汽車に乗っていかねばならない距離なら今ここには修業に来ただけなので路銀の持ち合わせがないし、先生にお借りしなければならない。
だから聞いたのだが、信用されていないのか、それとも動揺しすぎて言葉が出ないのか、少女は青い目を錆兎に向けたまま固まったままだ。
女の子というものはたいそう繊細なので、丁寧に優しく接しなければならない…と、生前父がよく言っていたが、なるほどそういうものらしい。
優しく、優しく…と思って接しているのだが、もしかしてさきほど頬をとめどもなく流れる涙を拭くのに手ぬぐいを使ったのが悪かったのだろうか。
女の子と出会うなんて思ってもみなかったから、汗をぬぐうにしても、この梅雨の時期に雨に降られたりした時に体を拭くにしてもそれ一枚で事足りると思っていたが、真菰のようにこ洒落たハンカチーフの一枚でも持っておくべきだったか…
武骨で怖い人間だと思われてたのかも…と猛省しつつも、とりあえずどうしようもない。
何か少女の気を紛らわすものは…と、一生懸命考えて、そして思いついた。
そうだ、これがあるじゃないか。
と、錆兎は腰の袋に手をやった。
「いつからいたのかわからないが、喉も乾いただろう。
良ければ少し水を飲むといい。
あと袋の中身はヤマモモだ。甘酸っぱくて旨い。
さっき摘んだものなんだ」
と、竹筒に入った水と共にヤマモモの入った袋を渡してやる。
少女もさんざん泣いたあとで喉は乾いていたのだろう。
まず水を飲み干して、それから細く白い指先でヤマモモを一つ摘まんで口に…。
淡い淡いピンクの可愛らしい唇に赤くまあるいヤマモモの実が吸い込まれていく。
そしてそれを咀嚼して飲み込むと、青白かった少女の頬にわずかに赤みがさした。
──…美味しい
と、それまで硬い表情をしていた少女がわずかに笑みを浮かべる。
──それは良かった。
と、その様子に言葉通り錆兎は安堵した。
義勇はそれまでも日本人形のように愛らしかったが、そうやって柔らかい表情を浮かべるとさらに可愛らしい。
そして心を少し許してくれたのか、ぽつりぽつりと事情を話してくれた。
2人きりで暮らしていた姉が鬼に喰われたこと。
誰もそれを信じてくれず、義勇が姉が惨殺されたことで気が触れたのだと思われていること。
遠くの田舎の親ほどの年の親戚に将来の嫁として連れていかれるところを逃げ出してきたこと。
なるほど、どれも語るには辛すぎる話だ。
まだ全く間がない日の出来事で心の傷なんて癒えるどころか今まさに血を流しているのであろう義勇にそんな話をさせたのは随分と残酷だったと錆兎は心の底から後悔する。
錆兎の場合、同じく家族が鬼に殺されたが、そもそもが身を寄せた先の鱗滝先生が亡くなった祖父の元兄弟子で元鬼狩りの頂点の一人である水柱であったため、真実を訴えてもわかってもらえないという悲しい思いはせずにすんでいたし、田舎の親ほどの年の親族の未来の嫁として送られるなんて論外だ。
こんな風にお姫様のように愛らしい義勇なら、もう5,6年もしたらもっと良い縁談が山ほどあるだろう。
それが悲しく寂しく心細い…そんな思いでこんな誰もいない寒い山の中で一人泣いていたのだと思ったら、ひどく心が痛んだ。
男として生まれた身としては、出来る事なら守ってやりたいとそんな風に思うのだが、錆兎は親を亡くして本当に何も持っていない孤児の身だ。
お姫様のためにしてやったりできるようなことはほとんど何もない。
せめて義勇がふさわしい相手に巡り合えるよう、ここは親族に捕まらないように逃がしてやらねば…と、そんなことを思いながら錆兎は黙って義勇が語るのを聞いていたが、話の最後に義勇がとんでもないことを口にした。
──…相手が錆兎みたいな人ならとにかく、好きでもない年老いた親戚と結婚するなら、ここで死んだ方がいい
本来は“死んだ方がいい”という部分に神経を向けるところなのだろうが、錆兎の頭に入り込んできたままクルクル回り続けた言葉は、最初の一言、“相手が錆兎みたいな人なら”という言葉だ。
え?え?ええ???
このお姫様みたいに綺麗な女の子が自分となら結婚してもいいと思ってくれているのだろうか???
何故?本当に??
と、もうそこで考えが止まってしまう錆兎はどこまでも“少年”だった。
これからでも大丈夫、待ってもらえるというのなら、お姫様を守って娶れるおとぎ話の勇者にだってなってみせる。
いまよりもたくさんたくさん修業をして、鱗滝先生のように強くなって、鬼殺隊で柱になって周りに尊敬され、給金だってたくさんもらえて何不自由ない生活をさせてやれる男になってみせる!!
そんな少年らしい夢がその瞬間、錆兎の脳内でむくむくと頭をもたげた。
それでもそんな都合の良い、それこそおとぎ話のような展開が本当にあるものだろうか…と、そこは理性でそう思って、
──…俺なら…いいのか
と、男らしくないと思いつつも小さくなる声でおそるおそる聞いてみると、義勇は全く躊躇もせず、何を当たり前のことを…と言わんばかりにコックリと首を縦に振った。
うわ~うわ~うわあ~~!!!
その瞬間、錆兎の未来は決定した。
俺はおとぎ話の主人公のような勇者になるんだ!!
すごい男になって義勇を娶る!!
と、“男”であることに強いこだわりを持った子どもであった錆兎は、即座に決意する。
──…な、なら、俺の嫁になるかっ?
──なるっ
念のための錆兎の問いかけに義勇が即答してくれたことで、この人生の計画は本決まりとなった。
もちろん男としては女性の方から言われたまま流されるようなことがあってはならない。
自分の言葉できちんと伝えなければ…と、錆兎はきちんと決意を口にすることにした。
「まだ…嫁を持てる年でも立場でもないけど…お前のことは俺が俺の全てをかけて守る。お前の責任は全部俺が持つ。
だから、大人になったら結婚しよう」
そう、まだ贅沢とかはさせられないし、泊まる場所も先生にお借りしなければ用意できない身の上ではあるが、食料の調達くらいならできるし、鬼殺隊に入って給金をもらえるようになれば最低限の衣食住は用意してやれる。
その時その時で自分にできる範囲の最大限を義勇にしてやるのだ。
これが史上最年少の水柱誕生のきっかけとなった、記念すべき最初の一歩である。
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