明け方になるともう寒くて寒くて泣きながら震えていたが、足の痛みは引くことがなくて、この険しい山を山頂までのぼっていける気がしてこない。
鬼に喰われることはないとしても、やっぱりここで野垂れ死にするんじゃないだろうか…と、さすがに不安になった。
その時である。
義勇は驚いて、ひっ…と、思わず小さく悲鳴をあげたが、そこから覗いた宍色が目に入った瞬間、安堵のあまり体の力が一気に抜けて、勢いで体が前のめりに傾く。
あ…まずい…と思ったが、義勇の身体は地面に落ちることなく、走り寄ってきた少年の腕で支えられた。
ふわりと香る石鹸の匂いと錆兎自身の匂い、それに少し高めの錆兎の体温の温かさ。
それにあまりに安心感を感じすぎて、一瞬意識が飛んだ。
ああ、そうだ。
姉が亡くなっても錆兎がいたんだ…
あれほど会いたかった錆兎に再び会えたんだ…
安堵と喜びと…諸々が涙となって溢れ出る。
…あ…あのっ…大丈夫か?
義勇は前世のことがあって錆兎を知っていたとしても錆兎の側は当然義勇のことを知らない。
いきなり泣き出した義勇に驚き戸惑いながら、それでも相変わらず優しい少年である錆兎は
…冷え切ってるな。これを着てくれ
と、自分の羽織を脱いで義勇に着させてくれた。
そうして懐から出した手ぬぐいで涙を拭いてくれる。
ふわりと柔らかそうな宍色の髪の下、少し太めのキリリとした眉。
さらにその下のやや吊り目がちな藤色の目は涼やかで、男らしく整った精悍な顔立ち。
なにもかもが懐かしい錆兎そのものだ。
ああ…やっぱりカッコいいなと思う。
──俺は錆兎。この狭霧山で師匠のもと、剣術の修業をしている者だ。名を聞いていいだろうか?
他人に名や身分を聞く時はまず自分から。
そんな律儀なところも変わらない。
──…ぎゆう……
と、義勇が名を名乗ると、いきなりこんな山の中で振袖姿の義勇をみつけて錆兎自身も混乱しているだろうに、
──そうか、良い名だな
と、にこりと穏やかに微笑んだあと、
「女の子が一人でいるような所ではないと思うのだが、事情を聞いていいか?
何かで迷い込んだということなら、駅くらいまでなら送っていくぞ?
それ以上遠くにということなら、いったん戻って先生に許可を得てからになるが」
と、聞いてきてくれる。
ああ、本当に錆兎だ。やっぱり優しい。
懐かしさと相変わらずの錆兎のカッコよさに感動して声も出せずにいると、錆兎は少し困ったように考え込んで、それから思いついたように竹の水筒と小さな袋を差し出してきた。
「いつからいたのかわからないが、喉も乾いただろう。
良ければ少し水を飲むといい。
あと袋の中身はヤマモモだ。甘酸っぱくて旨い。
さっき摘んだものなんだ」
と言う錆兎の言葉で、義勇は初めて自分がとても喉が渇いていたことを思い出す。
そこで水筒の水を飲み、修業時代はよく摘んで口にした懐かしい果実を摘まんだ。
これを五臓六腑に染み渡るというのだろうか…
本当に美味くて、ぼんやりと霞んでいた意識がはっきりしてくる。
思わず
──…美味しい
と、つぶやくと、
──それは良かった。
と、錆兎が優しい声で言った。
そうだ。
嫁になるなら錆兎のような男がいい。
カッコよくて優しくて強い。
それなら別に逃げやしないのに…と、義勇は今の自分の境遇を思い出して、さて、どう説明をするべきかと悩みつつ、ぽつりぽつりと話始めた。
2人きりで暮らしていた姉が鬼に喰われたこと。
誰もそれを信じてくれず、義勇が姉が惨殺されたことで気が触れたのだと思われていること。
遠くの田舎の親ほどの年の親戚に将来の嫁として連れていかれるところを逃げ出してきたこと。
もともとしゃべるのが得意でないこともあって、拙い言葉でそれでもそこまで伝えて、最後に
──…相手が錆兎みたいな人ならとにかく、好きでもない年老いた親戚と結婚するなら、ここで死んだ方がいい
と、締めくくると、目の前の錆兎の目がびっくりしたように丸くなり、顔が見る見る間に赤くなった。
そして、
──…俺なら…いいのか
と、錆兎にしては随分と小さな小さな声で言うのに、義勇は何を当たり前のことを…と言う思いでコックリと頷く。
だって義勇は錆兎のことが大好きだ。
前世では何度も大好きだと言ったじゃないか。
そう思ったのだが、ふと気づく。
ああ、そうか。今自分と錆兎は初対面で、さらに今の自分は少女だったんだ。
これは例えの範疇を超えるのか…。
などと今更気づいたが、まあいいか、と思う。
だって錆兎が強くて男らしくて優しくて…世界で一番カッコいい男だということは世界の常識だから、そんな錆兎の嫁になるのを嫌がる女などこの世のどこを探してもいるはずがない、というのが、義勇にとって当たり前の認識である。
──あ、あのっ……
と、しばらく何かグルグルと考え込んだあと、不意に顔をあげる錆兎。
──……?
こくんと首をかしげる義勇。
──…な、なら、俺の嫁になるかっ?
──なるっ!
投げかけられた言葉に、義勇は即答した。
「まだ…嫁を持てる年でも立場でもないけど…お前のことは俺が俺の全てをかけて守る。
お前の責任は全部俺が持つ。
だから、大人になったら結婚しよう」
初対面でいきなりこれでいいのか…と普通なら思うところだが、義勇はそれに
さすが錆兎!判断が早い!!
と、感動する。
そうか、女なら錆兎の嫁になれるのか。
姉さんとの姉妹生活を楽しむのには失敗したが、確かに女としての人生は悪くない。
この瞬間、【今泣いた烏がもう笑う】というわけではないが、義勇の脳内で今生に対する印象ががらりと変わった。
これを持って義勇にとっての人生は、他者のために働くものだった前世から一転、自分のために楽しむものとなったのである。
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