錆兎達が自室で話している間、リビングの方では他とは少し離れて綾瀬と二人、まだ綾瀬のデザイン画と人魚姫の絵本を前におしゃべりをしている義勇を、水野が観察していた。
ハイトーンの澄んだ声で言う少女。
ふんわりと笑みを浮かべると、空気がそこから彼女の色に染まって清浄化される気がする。
女の自分から見ても圧倒的に可愛くて…ピュアな雰囲気がある。
「可愛い子ですよね」
と褒めてみると、彼女の事を”最愛”の後輩と称した藤は機嫌良く彼女について教えてくれた。
有名IT企業の社長令嬢で、男なら誰しも憧れる有名ミッション系女子校である聖星女学院に幼稚舎から通うお嬢様。
中等部の頃に学祭で藤演じるロミオと共にジュリエット役を演じて、近隣の男子高生の憧れの存在に。
高等部に入ってからはミス聖星に選ばれたという完璧ぶりだ。
目の前の少女を見ているとそれもうなづけた。
本当に本当に可愛い。
しかも…ただ可愛いだけではない。やんごとないお姫様のような…そんなオーラがある。
世の中の汚さとは隔絶された空間で生きているピュアなお姫様…。
さっき自分に向けられたような、自分にとってはまるで夢の様に非現実的で…それこそ奇跡の様に思えた優しさを、彼女は普段から日常的にあふれるくらい注がれているのだろう。
あの優しい彼に大切に大切にされているに違いない。
恵まれた家庭…ありえないほど可愛らしい容姿…そして…誰もがうらやむような素敵な恋人…。
彼女は自分にはない全てを持っている…。
神様は…不公平だ。
水野は胸の中にドロっと嫌な物が満ちるのを感じた。
そんな自分のドス黒い思いが届いた訳でもないのだろうが、それまで綾瀬と笑顔で言葉を交わしていたお姫様の顔から不意に笑顔が消えた。
少し青ざめて…あたりをみまわす。
「どうしたの?義勇ちゃん」
その変化に気付いた綾瀬が聞くと、義勇は青ざめたままの顔で笑みを浮かべて首を横に振った。
「いえ、なんだか少し気分が…」
声が細くなる。
「姫、平気?!」
藤が慌てて立ち上がった。
そしてそのまま駆け寄ると、義勇の額に手をやる。
「熱は…なさそうだけど、顔色悪いね。疲れたのかな?部屋に戻ろう」
藤は言って、義勇を抱き上げた。
「藤さん…歩けます」
若干慌てる義勇だが、それに藤は少し笑みを漏らす。
「懐かしいな、こういうの。中等部の頃からあんまり体重変わってないんじゃない?姫」
綾瀬がスッと立ち上がってドアを開けるのに礼を言うと、藤は義勇を抱き上げたまま部屋を出て行った。
別にそれが何か意味があるとか、自分に取って得になるとかではないが、少しスッとする。
何もかも…日常的に心地よい空間で過ごせているのだ。
たまにはそれが体調不良にからくるものにしても不快感くらい感じてもいいはずだ。
そんな事を考えている水野の横では
「さすがロミオとジュリエット、絵になるねぇ」
遥は笑いながらそれを見送って言う。
「気分悪そうだったし笑い事じゃないと思うけど?!」
それに珍しく成田が不快の意を示した。
そんな成田に別所が
「別に気分が悪そうなのを笑った訳じゃないし、そんな言い方しなくても良いと思うけど?」
と気色ばんだが、
「ううん、私が不謹慎だったわ。成田が正しい」
と、遥がそれをすぐ止めた。
”彼女”は万人にとって特別なんだろうか…成田進は確か遥が好きなはずと水野は思って、少し成田に目を向けて、次の瞬間息を飲んだ。
憎悪の目…。
何故?
水野がひたすら混乱していると成田はその恐ろしいほどの目を向けたまま水野の方へと近づいて来た。
硬直する水野。
それを冷たい氷のような、もしくは憎悪に燃える炎のような、とにかく激しい嫌悪の目で見下ろして、成田はただ
「これ以上…何か危害を加えるなら殺すぞ…」
と、低い声でつぶやいて、そのまま自分の横を通り越して部屋を出て行った。
水野は激しく恐怖した。
確かに…悪意を向けた事は確かだ。でもそれは心の中でのことで…他の誰かに知られようはずもないし、ましてや直接的に相手に悪い影響を及ぼす事などできようはずもない。
なのに成田のその言い方は、まるで自分の悪意があの少女に危害を加え、手を触れるどころか声さえ発してないのに彼女の体調を崩させた様な言い方だ。
得体が知れない憎悪…それがヒシヒシと自分の後ろを追いかけている、水野はそう感じて身震いした。
「錆兎君、呼ぶね」
錆兎と義勇が使っているツインルームに義勇を運んで、ベッドの端に座った藤は横たわらせた義勇の顔を上から覗き込む様にして言った。
義勇の返答はない。
ただ目を瞑って何かに耐えるようにジッと布団にくるまって布団の端を小さな手で握りしめている。
普段は薄桃色の頬からは血の気が引いて、やはり少し青みを帯びてきた唇がかすかに震えているのを見て、藤は眉をしかめた。
呼ばれて飛んで来た別荘内に待機していた医者はただの貧血だと診断を下したが、尋常ではない気がする…。
しかし最近義勇とそう頻繁に会ったりもしていないので、自分ではこれが異常な事なのか、正常の範囲内なのかがわからない。
藤が事情を話して電話で呼び出すと、どうやらユート達の部屋にいたらしい錆兎は即飛んで来た。
ドアが開いた所で藤は立ち上がった。
そしてそのまま青い顔で立っている錆兎にかけよる。
「私…いた方がいい?いない方がいい?」
とまず藤は錆兎のお伺いをたてた。
それに対して錆兎が
「何か…わかったらまた電話します」
と、明言をさけながらも、暗に二人きりにという意思表示を示したので、藤は
「わかった」
とだけ言って部屋を出た。
錆兎には義勇がいて…義勇には錆兎がいるのだ。
自分と彼は似ているようでいて、そのあたりが明確に違う。
自分は一人だ…と、何故か今更の様に藤は思った。
そしてため息。
「藤さん」
と、その時後ろから声がかかる。
和馬だ。
いつも絶妙のタイミングで現れるな、と、内心苦笑する藤。
「良ければどちらかの部屋でお茶でもどうです?
でもって…今回ここに集まった愚民共に渦巻く馬鹿馬鹿しい愛憎についてでも語り合いませんか?」
にやりといたずらっぽく笑って言う和馬に、なんとなく沈んだ気持ちがうすれていく。
「君は…キツい上に毒舌だよね」
と苦笑しながらも、藤はそれを了承して自室に和馬を招くと、内線でメイドにお茶を持って来る様に命じた。
「…姫…起きてるか?」
錆兎は静かに歩を進め義勇が横たわるベッドに腰をかけると、ソッと彼女の柔らかい髪を撫でながら声をかける。
その途端、自分の殻にこもって全てを拒絶するように固く目をつむり体を硬くしていた義勇の体から力が抜けた。
蕾が花開くように、花びらのような長い睫毛がゆっくりと移動しまぶたが開かれると、澄んだ大きな瞳から朝露のように涙が一筋こぼれ落ちる。
「憎悪と苦しみ…ちょっとしたきっかけやタイミングで誰もが加害者にも被害者にもなりかねない…そんな空気がグルグルしている気がする。…それがすごく…怖い…」
細く…消え入りそうな声。
錆兎はソッと義勇がくるまっている薄い布団ごと、義勇の半身を起こして抱き寄せた。
確かに集まった人数のうちのパーセンテージにするとありえないくらい多くが悪意を抱きあっている集団だとは思う。
錆兎自身は自分をも含めて悪意にさらされて生きてきたのでそれほど気にならないが、そのあまりに大勢の悪意に満ちた空気に義勇は怯えているのだろう。
悪意に”汚染された”空気には慣れていないのだ。
それはある種、綺麗な空気、綺麗な水など、清浄な環境でしか生きられない動植物を思わせる。
環境に対する弱さと…しかしそれ故の美しさと希少な貴重さを合わせ持っているのだ。
失われてはいけない…保護しなければならない…と錆兎は強く思う。
「ぎゆう…大丈夫だ。俺がいる」
錆兎は真綿でそっとくるむように、自分的に最大限に穏やかな声を出そうと努力しつつそう言って、本当にソッと義勇の細い背を左手で支え、右手でまた絹糸のように細く柔らかい髪をなでた。
その声に義勇がおずおずと涙で潤んだ目で錆兎を見上げる。
「俺がいるだろう?大丈夫…ぎゆうだけは何があっても守るから。」
そう言って錆兎が少し微笑みかけると、義勇はきゅうっと錆兎にしがみついた。
「俺は被害者にも加害者にも絶対にならないし、誰にもぎゆうには指一本出させないから」
「…ホントに?」
「ああ、ほら、これ」
錆兎は小指をたてた右手を差し出した。
それを見て義勇は真ん丸の目をさらに丸くする。
「うん。約束」
次の瞬間いつもの天使の微笑み。
まだ若干血の気は失せて青い顔はしているものの、さきほどまでは若干虚ろだった瞳に少し光が戻った。
「ゆ~びき~りげんまん、嘘つ~いたら針千本飲~ます♪」
いつものように可愛らしいはずんだ声。
それでも…つないだ手にはいつもの温かさがなく、ひんやりしている。
「手…珍しく冷えてるな…」
錆兎はその手を両手で包んだ。
そしてそのままその手を口元に持って行くと、ハ~っと息を吐いて暖める。
「ぎゆう…寒いのか?」
薄い布団にくるまって、それでもまだ少し震えている義勇に錆兎が声をかけると、義勇はスリっと錆兎にすりよった。
「風が…悪意につかまって怯えて混乱した誰かの声を運んで来てる…。その悪意は巧妙に隠されていて…まだ何かを捕まえようとしてるって風が言ってる」
前言撤回…野生動物というより自然と語り合う妖精か…。
まあ…ユートなら電波というところだろうが…。
どちらにしてもこういう時の義勇の言葉は大抵は何かを暗示していて正しい。
(巧妙に隠された悪意…か…)
錆兎が少し難しい顔で考え込んでると、義勇は
「でも…私は大丈夫。さびとがいるから絶対に安全」
と、きゅうっと錆兎にしがみついてふんわり微笑んだ。
少し落ち着いたらしい…が、落ち着いてしまうと義勇の鋭い感覚もまた落ち着いてしまうため、これ以上有益な情報を得られなくなったということになる。
まあ…それでも義勇がひどく怯えているよりは良いと錆兎は思った。
しかし気持ちが落ち着いてもまだ顔色が悪いのは、貧血は貧血なのかもしれない。
「まだ顔色悪いから…夕食まで少し休んでろ、俺もここにいるから」
錆兎は言って義勇をまた横たわらせると、そのまだ少し紫がかった唇に軽く唇を重ねた。
「ギユウちゃん、大丈夫かな?」
錆兎が藤に呼び出されて部屋に帰り、それとほぼ同時に和馬も帰って、二人きりになった部屋でアオイはつぶやいた。
「華奢だし…体とか丈夫じゃなさそうだよね」
相変わらず椅子をさけてカーペットの上に膝を抱えて座りながら言うアオイに、ユートは
「ん~、でも医者もいるらしいし大丈夫じゃない?」
と答える。
ユートのその若干興味なさげな言葉にアオイは
「なんか…どうでもいいみたいな言い方…。ユート冷たいよ~」
とちょっと非難の目を向けた。
「いや、ほら、俺らがあれこれ言っても仕方ないしさ」
その言葉にあわててそう言ってはみたものの…実はその通りだったりするので若干焦るユート。
誤解のないように言っておくと、ユートも別に義勇がどうなろうとしったこっちゃないという訳ではない。
親友の錆兎や彼女のアオイほどの思い入れはないにしても、それでも他の大勢の友人達とはやっぱり一線をおいたくらいの特別な仲間ではある。
ただ…決して交友関係の狭くないユートが数多い自分の知人の中で一番の幸運な人物を上げろと言われれば迷わず上げるのは義勇で…その、神様というものが存在するなら間違いなく溺愛されていて全ての不運から遠ざけられているのだろうなと思うほど幸運な彼女が、そんな取り返しのつかないほどのひどい病に冒されるという事はまずありえない、というのがユートの考えだ。
ゆえに…ユート的には”ありえない心配”をするのは無駄だし、興味がない。
それより今の彼の興味の対象は目の前の彼女のアオイであって…そう、性懲りもなくまた、”今回こそできないかな”などと考えてる訳だ。
しかし今現在義勇の心配をしているアオイにそんな事言ったら神経を疑われるのは確かなのもまた事実。
しかたない…。
「一応…様子見に行ってみる?」
とアオイを振り返ると、うんうんとうなづくアオイ。
そこでユートはアオイの手を取って部屋を出た。
ユートの部屋の斜め前のツインルーム。
止める間もなくアオイがいきなり
「ギユウちゃんの様子どう?」
とドアを開けた後、一瞬硬直。
ソロリとアオイ越しに部屋の様子を見たユートの目に入ったのは、ベッドに横たわっている義勇に覆いかぶさる様にしている錆兎の図で…
「お邪魔っ!」
と、慌ててアオイの腕を取って部屋の外へ連れ出すと、ドアを閉めた。
「おい…」
一瞬のち、錆兎の声と共にドアが開くが、アオイは
「ごめんなさいっ!!」
と耳を塞いで逃げた。
「また…何かグルグルしてるか?お前ら…」
錆兎は残ったユートに目をやって呆れたため息をつく。
「えと…すごぃ邪魔しなかった?俺ら…」
アオイだけじゃなくユートも珍しくグルグル妄想が回っているらしい事に、錆兎は大きく肩を落とした。
「ユート、お前には以前に言わなかったか?俺。
俺は”何かあった時に責任取れるようになるまでは”そういう事はしない。
ただ、姫から話聞き終わってまだ顔色悪いようだったから、夕食までと思って寝かせて布団をかけなおしてただけ」
「あ、そうだったんだ…。あはは…」
ユートがきまずそうに頭を掻く。
それをまた呆れた目で見る錆兎。
「で?アオイはどこ行った?」
とユートに聞くと、ユートは
「あれ?どこだろう?」
とキョロキョロあたりを見回し
「あ、そか…」
と、ポンと手を叩いた。
「あ~びっくりした…」
錆兎達の正面に位置する暗い空き部屋で誰に共なくつぶやくアオイ。
その脳裏にはさきほど錆兎達の部屋で見た光景がクルクル回っている。
自分達でさえまだ未遂とは言ってもそんな事を試みたりとかはしているわけで…自分達より早くつき合い始めている錆兎達がしていても当たり前だとは思う。
しかし…生真面目で堅物な錆兎と、なんとなく欲望とかと縁がなさそうな…人間というより妖精みたいな義勇がそういう事をやっているというのは全く想像ができなかった。
(ここ…荷物置き場になったのね)
アオイは少し落ち着いて周りを見回した。
確か…錆兎と義勇がツインルームを使う事になったため、藤の隣から5部屋続きで高校生組の部屋として用意されたうちの端から2部屋は空き部屋になってる。
それを荷物置き場として利用しているらしい。
部屋の床には撮影機材やら布地やら諸々が置いてある。
部屋の造りは当然ながら全く一緒。
さて出ようか…とアオイがドアに向かいかけた時、不意に
(ヴゥ…ウゥウ…)
という、獣のうめき声みたいな物がかすかに聞こえた。
見たくない…とは思うものの、気になる訳で…
おそるおそるアオイが声が聞こえてくる壁の方を振り返ると…その壁にボ~っと浮かび上がる顔。
そう…顔だけが壁に浮かび上がっている。
お…ば…け…
そう…アオイはそれがものすご~~~く苦手だった。
そして…それを目の前にして緊張と恐怖がピークに達した時…ぱったりとアオイは気を失ってその場に倒れた。
気付いたらベッドの上。
「良かった…夢だったんだ…」
ベッドの端に腰をかけるユートを目にした時、アオイはホッとため息をついた。
「困った可愛いお馬鹿さんだね。空き部屋で眠り惚けてちゃだめじゃん。風邪引くよ。
…ってかあの短い時間でなんで寝ちゃうかな」
それに苦笑するユート。
そう…あれから義勇のいる部屋に戻った錆兎と分かれてユートはすぐアオイが空き部屋に逃げたのに気付いてアオイを追って空き部屋に入り、ベッドにもたれて眠っているアオイを発見したのだ。
もちろん…気を失ったなどと言う事は知らない。
ゆえにこの発言なわけだ。
普通はここでそれを指摘するわけなのだが、そこはアオイだ。
「あ~そうだったんだ。私あそこでなんでか寝ちゃって夢みてたんだね」
と、恥ずかしそうに頭を掻く。
「…ったく…ノンキだよな、アオイは」
と、でもそんなところが可愛いと思うのはユートも惚れた弱みというやつか。
ああ、襲いたいと思うものの夕食を知らせる内線が鳴って断念した。
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