一人で丁寧に片付けていたら結構時間がかかってしまった。
30分くらいたっただろうか…。
ようやく最後の皿を食器棚に戻してリビングに戻ったアオイは、そこにいる面々を見回して一人足りない事に気づく。
「ん~、疲れたから部屋に戻るって」
と瞳がアオイの質問に答えた。
てっきりまた和馬を追い回しているのかと思ったが、もしかして自分と話をするために部屋で待っているのだろうか…。
そういうことならもう少しちゃっちゃと後片付けを終えたほうが良かったか…などと思いアオイは
「ごめん。私もちょっと疲れちゃったから部屋戻るね」
と言い置いて、自分もリビングを後にした。
そして一路二階の端っこの紗奈の部屋へ。
「紗奈~、私、アオイだけど…」
シンとした部屋の前でまずドアをノックしたが返事がない。
「シャワーでも浴びてんのかな…」
紗奈の事だ。自分で呼んでおいてシャワー浴びてるなんてことは十分ありうる。
自分で呼びつけるなんて芸当できないが、したとしたらおそらく相手が来るまで一晩でもまんじりともせず待っているであろうアオイは、そういうマイペースな紗奈の自分とは真逆な性格が嫌いじゃなかった。
「どうしようかなぁ…」
誤解解いて小川を引き取ってもらう気満々で珍しくやる気な状態で来ているアオイは、なんとなくここで引き返すのも嫌な気がした。
ドアの前で待つか…と思って30分ほどドアの前で立ち尽くしていたが、なんとなくドアノブに手をかけたら鍵がかかってない。
「紗奈…入るよ~」
一応声をかけてドアを開けてみるが真っ暗だ。
シャワーにしては…部屋の明かりもつけないのはおかしい。
「…?」
不思議に思って一歩部屋に足を踏み入れたアオイの目にうっすら映ったのは床に仰向けに倒れた人間…紗奈だ。
「え?…ええっ??紗奈っ、どうしたのっ?!!!」
思わず声を上げた時、後ろから
「どうかしたの?」
と瞳の声がした。
「あ、瞳。なんで?」
「えと二人また何か揉めて話しあいなのかなと思ってあがってきてみたんだけど…どうしたの?」
と、瞳は答えて部屋の中に目をやって息を飲んだ。
「アオイっ、救急車!あと下の男子達に伝えてきてっ!!!」
咄嗟に何もできないアオイと違って瞳がキビキビと指示をする。
それに少し安心してアオイは
「うん、わかったっ!」
とリビングに向かって駆け出した。
真っ青な顔でリビングに駆け込んだアオイにまず和馬が反応した。
「どうした?」
「あのね…紗奈が…救急車っ」
慌ててそういうアオイに和馬はため息をついた。
「アオイ…動詞はどこに消えたんだ?」
「へ?」
「紗奈が救急車じゃわからん。その情報で呼ばれる救急車も迷惑だ」
非常事態に冷静なようでいて微妙に地が出る和馬。
アオイはその言い方に萎縮して言葉が出ない。
「相川さんがどうしたから救急車?怪我したとか高熱があるとか色々あるだろ?」
しかたなしに続ける和馬に、ようやくアオイはハッとした。
「えとね、部屋で倒れてたっ」
「怪我?病気?」
「わかんないっ!」
「呼吸や心拍は?」
「わかんないぃぃ!!!」
「あ~もういいっ!」
アオイから情報を引き出すのは無理と悟った和馬はリビングから出て自ら紗奈の部屋へと足を運んだ。
部屋のドアの所には呆然と立ち尽くす瞳の姿が…。
「相川さん…倒れてるって聞いたんですけど怪我ですか?病気ですか?
外傷とかあります?心拍や呼吸は?」
矢継ぎ早に聞く和馬に、瞳は青い顔で倒れている紗奈を黙って指差した。
その指の先を目で追って和馬は息をのむ。
「殺人…まじか…」
床に倒れている紗奈の左胸にはピックが突き刺さってる。
胸にちらりと目を落とすが上下していないところを見るとおそらく呼吸をしてない…つまり死んでいる。
「必要なのは救急車より警察ですが…知り合いにいるので呼びます。
それまではここに入らないように」
和馬の言葉に瞳は
「え?」
と不思議そうな目を向ける。
それに和馬は微笑んでみせると
「件の友人の元生徒会長…現警視総監の息子です」
とやんわりと瞳を部屋の外にうながした。
瞳にはそのまま全員リビングに待機するように伝えてくれるよう頼んで和馬は自分の携帯を手に取る。
そして迷わずダイヤルを回した先は…コウ。
「もしもし、どうだ、そっち」
電話の向こうから機嫌の良い声が聞こえてくる。
「ああ、ご機嫌に…殺人事件だ。今すぐ来い」
「え?」
和馬の不機嫌な声にさすがにコウも驚いた様子だが、即困ったように言う。
「今日中には…悪い、無理だ。今一条家と北海道。この時間だと飛行機飛んでない」
「お前は…俺に愚民の恋人役押し付けて自分は暢気に彼女と旅行かっ?!」
まあ和馬の怒りももっともなわけだが…押し付けたのは正確にはコウではない。
「…明日朝一でそっち戻るから…」
「それじゃ遅い!
いいか、お前の愚民の妹分が最有力の容疑者だぞ?
警察が馬鹿だと下手すれば冤罪で投獄されかねんぞ?」
「ちょ…待った!またなのか?!」
「ああ、まただ」
コウとアオイ、ユートとフロウが出会うきっかけとなったのは2年前の高校生連続殺人事件で…その後何故か行く先々で嘘みたいな確率で殺人事件に巻き込まれ続け…アオイと和馬が初めて会った時もやはり4人が集まっていて殺人事件が起こっている。
その事件の時はなんとアオイが容疑をかけられていた。
ちなみに…和馬がコウを通して現在の恋人の藤と出会った時もやはり4人がいて殺人事件。
コウ、ユート、フロウ、アオイが集まるとマジやばいと和馬も用心はしていたのだが…
「殺人事件呼んでるのは4人というよりあの愚民なんだな…」
和馬のため息。
「いや…アオイが悪いわけじゃ…」
「もう…この際誰が悪いと論じたところで意味がないな。
お前来れないならせめて加藤に部下寄越せって連絡入れろ。なんとかしてみるから…」
「わかった。アオイ頼むな」
「そんなもんは知らん!
だが…俺に許可なく俺のおもちゃを勝手に殺人犯なんかに仕立て上げようとした愚民には目にものみせてくれる」
和馬らしい了承の言葉にコウはホッとして、親しくしているOBで警察キャリア組の加藤警視正に連絡を入れるために一旦電話を切った。
数分後…加藤から部下を送ってもらう約束を取り付けた事をコウから聞いて、和馬はコウにさらに幾つかの依頼をすると、いったん通話を打ち切ってリビングへと降りていった。
「金森さん、どうなったんですかっ?!」
和馬がリビングへ入ると全員が一斉にかけよってくる。
それを軽く制すると、和馬は
「まあ皆さん落ち着いて。まずは状況を説明しますから座ってください」
と全員を席にうながした。
全員が席に着くと和馬は自分も椅子に座って静かに話し始める。
「まず…結論から言うと、相川さんは自室で死亡してました。
状況からすると他殺なので現在警察を呼んでいます。
現場は手をつけずに維持、警察が到着次第引渡しになります。
他殺…ということは当然犯人がいるはずで、動機も人物も確定できないので安全のため全員リビング待機で。
各自色々思うところはあるとは思いますが、不確実な憶測を口にするとパニックが起きる可能性もあるので、言いたい事があれば警察が到着次第警察にどうぞ。
少なくとも全員固まっていれば銃火器でも使われない限りは安全ですし、相川さんの殺害に使用されていないということは恐らく銃火器を保持している可能性はないに等しいので、繰り返しますが警察がくるまでは事件については触れないようにお願いします」
淡々と言う和馬に周りは若干不安そうな様子は残るが落ち着いてくる。
「金森さん…東大生だけあって冷静だな…」
と、沈黙に耐え切れなくなったのか中田が口を開いた。
それに対して和馬は少し笑みを浮かべて
「東大生だから…というよりは、例の友人が現警視総監の一人息子で…何故か殺人事件に巻き込まれる事も多くて…さらに言うなら俺もとばっちりで何回か巻き込まれた事があるので普通の人間より不本意ながら若干慣れてきてるんですよ」
と答える。
「ほ~~」
感心する中田。
瞳も少し驚いたように目を見開く。
そんな彼らをさらに驚かせたのは…到着した警察がまず和馬に挨拶をしたことだ。
「なんだ、今日は赤井じゃないのか…」
敬礼する若い婦警に当たり前に言う和馬。
「はい。赤井は今日は別件で出ておりまして…本日は私、常田風子が担当させて頂きますっ」
偉そうな和馬の態度に思い切り緊張気味に敬礼したまま言う婦警。
それに対して和馬は当たり前に
「邪魔はするなよ?言われたことだけやればいい」
と、事件現場である上の階へと続く階段を指して自分が先に立って歩き出す。
それを呆然と見送る一同…。
「アオイの彼氏ってさ…いったい何者?東大生っていうのは世を忍ぶ仮の姿とか?」
という中田のつぶやきがシンとしたリビングの静けさをわずかに破った。
部署内ではまだ新米の部類に入る風子にとっては警視正など雲の上の人だ。
本来は上司の赤井を通してくらいにしか口を聞く事もできないくらいだ。
しかし今日は赤井が珍しく休暇中で…風子にお鉢が回ってきた。
殺人事件…普通なら風子が仕切れるレベルのものではない。
それがあえて風子に回ってきたのは…同期の中では出世街道まっしぐらな加藤警視正の鶴の一声。
「出来る奴は現場にいるから、素直に協力できる奴ならかまわん。
赤井の下にいたろ、何度か碓井の事件に同行した新人。あれでいい」
かくして加藤に呼ばれて風子はワクワクしながら警視正のデスクへ。
(碓井さん、うっすいっさんっ♪)
鼻歌まじりに足取りも軽い。
加藤の高校の後輩の東大生。
和馬やアオイはコウと呼んでいるが、他の場所では当然本名である碓井頼光として認識されている。
容姿端麗スポーツ万能、頭脳明晰で、なんと現警視総監の一人息子というお坊ちゃまなのに腰が低く礼儀正しい紳士。
今年27歳の風子よりは7歳も年下のはずだが、そんじょそこらの同僚や上司よりよほど大人で落ち着いている…というのが風子のコウに対する評。
そんな彼は何故か事件に巻き込まれる事が多く、彼を自分の側に引き入れたい加藤は彼が事件に巻き込まれるたび、彼が動きやすいように自分の部下を送って協力させていた。
結果…コウは見事な推理力で関わった難事件を次々スピード解決して、それは当然一般人の彼ではなくその時同行した赤井の…ひいてはその上司である加藤の手柄になる。
その中にはなんと“あの”日本屈指の大財閥風早一族のお家騒動なんていうものもあって、加藤の異例の出世には彼が確実に貢献しているはずだ。
そしてそのコウの指示で手足のように動く役割を常に担っていたのが風子の上司の赤井である。
上司が行くわけだから…当然部下である風子も同行する。
顔もスタイルも声も全てがスクリーンの向こうの俳優も真っ青なくらいカッコいいその人が華麗に謎を解き明かしていくのを見るのは楽しい。
もううっとりだ。
たまに用事があって声なんかかけてもらえた日には、それで一週間は幸せな気分が持続する。
もちろん、まず指示を受けるのは仕切っている赤井で、風子が声をかけてもらえるのは赤井がその場にいない時の伝令くらいなのだが…今回はその赤井がいない。
それどころかいつもの赤井の役割を風子が担うということで…
(うっわ~。声かけてもらい放題だぁ♪神様ありがと~!!)
風子はもうスキップしながら加藤のところへ向かったわけだが…
「え?…碓井さんじゃないんですか?」
最初にまず今回の現場にいるのがコウではない事を告げられる。
加藤が普通の手順をすっ飛ばして部下を送る場合は大抵相手はコウだったわけだが…
というか、まずコウじゃないというところから始めるくらい頻繁に当たり前になっていたのがすごい。
風子はもう浮かれていただけにがっくりだ。
端から見てもそうとわかるくらいに肩を落とす風子に加藤は苦笑する。
「まあそう露骨にがっかりするな、新人。
今回は碓井じゃないが…全く無関係な人物というわけでもないぞ。
奴が海陽で生徒会長やってた頃の奴の右腕だ。
お前も風早家のお家騒動の時とかに会ってるはずだぞ」
言われて風子はわずかに記憶をさぐった。
正直…他の人間にはあまり興味がなくて気にしてなかったので記憶に薄いのだが…。
せいぜい彼の恋人だという女の子が壮絶美少女で、ああ、やっぱりなと思った事くらいか…
思い出せない様子の風子に加藤は小さく息をはいて付け足す。
「お前…本当に碓井しか見てなかったんだな。
あの事件、風早の孫娘とその恋人が狙われてたろ。その恋人の方だ」
「あ~そういえば…」
なんとなくそんな人物がいた気がする。
人物としての印象はないが、風早財閥の跡取り娘の恋人といえば大した人物だ。
「あのあとな…奴を気に入った風早老に青田買いされて現在風早の跡取りとして勉強中らしいぞ」
「それは…すごいですね。将来の大財閥総帥ですか…さすが警視正の後輩でいらっしゃいますね」
お世辞でなく本当に…加藤の人脈はすごい、自分とは縁がない世界だと風子は思った。
「ま、そういうわけで、性格は鬼のように悪くて一度会ったらもう二度と会いたくないくらい嫌な陰険な奴なんだが頭だけはいいから。
ひたすら嫌味に耐えて手足のように黙々と働いてれば事件自体は奴が勝手に解決するだろ」
「へ??」
続く加藤の言葉に風子はぽか~んと口をあけて呆けた。
「碓井さんの…右腕だった方じゃないんですか?」
選び放題選べる風早の跡取り娘に愛されて現総帥の印象も良く…という時点でコウのような人物像を想像していた風子だったが、加藤はあっさりその夢を打ち砕く。
「右腕だからといって本人に似ているということはないぞ。むしろ正反対のタイプと言ってもいい。
少しでも不興を買うような事言うと100倍くらいになって嫌味が返ってくるからな、奴は。気をつけろよ」
天国から地獄というのはこのことである。
「なんでそんな人とつきあってるんですか?警視正」
期待が大きかった分ショックも大きくて、普通ならとてもじゃないが言えない失礼な言葉を吐く風子だが、元々細かいことを気にしない加藤はそれに対して怒る事はなく、ただ少し困ったようにその太い眉をひそめた。
「ん、俺は個人的につきあいあるわけじゃないが、碓井の頼みだからな。断れん」
“碓井さんのお願いっ…碓井さんの…”
風子の頭をまたあの美麗な顔がクルクル回った。
「わ、私頑張りますっ!」
いきなりまた元気になって敬礼をする風子。
かくして…常田風子27歳は泥沼にどっぷりと両足を突っ込むことになったのだった。
「なんだ、今日は赤井じゃないのか…」
それが鑑識や後輩達と共に現場に到着して挨拶した風子に投げられた最初の一言だった。
相手はコウほどじゃないにしてもまあ美形な大学生。
でも確かに少し意地悪そうな印象も受ける。
そもそも大学生の分際でノンキャリアではあるがそれなりに出世の早い上司の赤井を普通に呼び捨てにするあたりがコウとは違う。
コウは自分の手足として動くように送られてきた赤井にも…それどころか風子にすら“さんづけ”で、腰を低くして丁寧な応対をしてくれていた。
しかし風子は若干ムッとしつつも、これも仕事だと割り切って
「はい。赤井は今日は別件で出ておりまして…本日は私、常田風子が担当させて頂きますっ」
と、やや緊張気味に敬礼する。
休暇で…などと言ったら何か言われそうな予感がするので、別件で、と言っておく風子の判断は確かに正しい。
そんな風子にその大学生、金森和馬は
「邪魔はするなよ?言われたことだけやればいい」
と、事件現場である上の階へと続く階段を指して自分が先に立って歩き出した。
まあ…コウが丁寧なだけなのだろう。
彼らが事件を巻き起こしたわけではなく、それを自分が解決してもなんの恩賞があるわけでもなく、本来は警察の自分達が解決しなければいけない事件を解決してもらっているのだ。
彼らからの依頼で…と加藤は言うが、実際にそれで恩恵を受けているのは彼らではなく警察側だ。
風子はそう思いなおして、先へ行く和馬を追いかけた。
「犯人はわかっているが状況証拠だけで物証がどこにあるかまだわからん」
2階の廊下を歩きながら和馬は後ろを歩く風子に言う。
「もう…わかってるんですかっ?!」
驚く風子。
連絡を受けてから風子達が到着するまでわずか1時間弱だ。
さすがに…偉そうなだけある、と、風子は尊敬の眼差しを前を歩く大学生にむけた。
2階の最奥、紗奈の部屋の前で和馬はぴたりと足を止めて、遺体が発見されるまでの状況や人間の流れを軽く説明したあと、風子に向かって手を差し出す。
思わず差し出された手に自分の手を乗せる風子。
少し目を見開いて沈黙すること約10秒。
和馬は冷ややかな視線を風子に向けた。
「何をしてるんだ?愚民。
お前は手を引いてもらえないと歩けない老人か子供なのか?
あ~それともあれかっ?犬か?ポチなのか? “お手” なのか?」
その言葉に風子は思わず発作的に泣きそうになった。
「犬としては確かにお利口だな、褒めてやろう。
だが今俺が求めてるのは一発芸じゃなくてな、現場に指紋を残さんための手袋なんだが?
俺は推理オタクのNOUKIN男と違って日々事件に遭遇するのを前提として手袋を持ち歩く習慣はないんでな」
緊張と恥ずかしさと諸々がクルクル回る風子。
事件の現場も見てないのに、すでに逃げ出したい気分になってきた。
「す、すみませんっ!」
言ってびくっと身をすくめる風子の後ろから、後輩の一人夕凪が
「気が付かなくて申し訳ありませんっ!」
と、あわてて手袋を出して手渡す。
和馬は黙って受け取るとそれを身につけ、ドアノブに手をかけた。
中は明かりが消えていて暗い。
後輩達と鑑識を廊下に待たせて部屋の中に足を踏み入れる和馬と風子。
明かりをつけようとスイッチに手を伸ばす風子に
「お前は馬鹿かっ!!」
とまた和馬の叱責が飛ぶ。
その叱責に風子は何故怒鳴られたのかもわからないまま
「すみませんっ!!」
と、もうほとんど反射的に身をすくめて謝った。
「ポチ…お前もしかして新人か?」
呆れたため息をつく和馬に
「警察官になって7年目…赤井さんの下に配属されて3年目…ですが…」
涙目でおそるおそる答える風子。
「わかった…。オツムの程度がまだ新人なんだな。
というか…まだ人類に進化すらする前だな」
何故ほとんど口もきいた事もなかったくらいの7歳も下の大学生にここまで言われないといけないのかわからないのだが…そんな疑問も口に出せないほど風子は緊張していた。
上司の赤井や…下手すると雲の上の人間なはずの加藤といてさえここまで緊張したことはない。
そんな感じで硬直したままの風子に和馬は少しかがんで視線を合わせた。
そしていきなり頭をなでこなでこ。
「いいか、ポチ。ペットにもわかるように説明してやろう。
人を殺すという場合な、加害者が被害者に直接危害を加えるという方法の他に、何かをスイッチにして相手に危害を加えられるように仕掛けを作っておくという方法もあるのな。
その仕掛け自体が証拠になる場合があるというのもあるが…むやみにあちこちの物を動かしたりすると仕掛けが発動したりとか言う可能性もあるからな?
検証のプロの鑑識以外は、現場はある程度状況が確認できるまでは可能な限りいじらない。
証拠集めの観点からも安全性からもそれが基本だ。
もうペットに自主的に判断出来ることは期待せんから、これから躾けられた事は守れよ?ポチ」
…思い切り上から目線…だが返す言葉がない。
「…すみません……」
しょぼんとうなだれる風子に
「わかればよし。時間ないから先進めるぞ」
と、和馬はくるりとまた死体のほうを振り返り、用意しておいたらしい懐中電灯で遺体を照らした。
床の上に仰向けに倒れた若い女性の遺体。左の胸元にはピックが刺さっている。
和馬はその横にしゃがみこむと、ピックがささっているあたりを照らして風子に手招きした。
「これをどう見る?」
唐突に投げかけられた当たり前すぎる質問。
ピックがささっている辺りは左胸だ。
質問の真意を捉えかねて風子は不思議そうな視線を和馬に向ける。
「どうって…心臓をピックでひとつきですよね?死因はそれで…」
おそるおそる答える風子に和馬の冷ややかな視線。
「す、すみませんっ!何か変な事言いましたかっ?!」
もう本当に条件反射だ。
身をすくめて謝る風子。
それに対して和馬は笑みを浮かべる。
「さすがポチだな」
その言葉に風子はドッと冷や汗が噴出すが、心底ホッとして
「ありがとうございますっ」
と礼を言う。
しかし…また失敗したらしい。
続いて冷ややかな声音…
「おい…誰が褒めてるんだ?」
「は?」
「さすが犬並みに足りない脳みそだなと言ってるんだが?」
……もう無理だ…逃げたい。風子の目には本気でもう涙があふれてきた。
「目から垂らした涎は床に落とすなよ?現場荒れるから」
それにも容赦のない言葉が振ってきて、風子は慌ててハンカチであふれてきた涙を拭いた。
「いいか、ポチ。よく見てみろ。被害者は抵抗した痕跡がない。
ということはだ、抵抗する暇もなく一突きだ。
知人だと思って安心していたにしても相手がピック振り上げたなら何らかの反応はするよな?
特定の訓練を受けた人間ならともかく一介の大学生が相手に気づかせる間もなくここまで綺麗にピックで刺せると思うか?
ま、心臓からは少しずれてるけどな、これ。さすが素人といったところか。
プロの仕事じゃないことは確かだな」
和馬の言葉に風子は
「…あっ…」
と初めて気づいてハンカチを持った右手を口に当てた。
「ということで…だ、ピックは抵抗できない状態で刺されている。
抵抗できない状態という場合、どういうパターンが考えられるか?
抵抗できないように拘束されている。
意識を失っている。
死んでいる。
この3パターンくらいだ。
で、遺体に拘束されていた痕跡が全く見られない…ということは、意識をうしなっていたか死んでいたかなわけだが、そこであらためてキズを見てみろ。
傷口からほとんど出血していない。
このことからどういうことがわかる?」
いきなり振られて風子は動揺した。
「えっ?…えっとぉ……」
オロオロと動揺する風子に和馬はハ~とわざとらしいため息をついた。
「悪かった…お前は“警察官”じゃなくて“警察犬”だもんな。
“お手”はできても推理はできんのは当たり前だよな。
“犬”に人間様のような思考を求めようなんて俺も疲れてるんだな…」
普通なら激怒しそうな言葉なわけだが、許容量を超えた緊張のために風子は怒るよりもどうやら答えを出さないで良くなったらしい事に対する安堵が先にたった。
「いいか、ポチ。覚えておけよ?
生き物が死ぬとな、心臓が止まるんだ。
それは俺達人間でもお前達犬でも変わらん。
でな、心臓が止まると血管内に圧力がなくなるから出血しないんだ。
つまり…ほぼ出血のないこの傷口はな、死後に出来た物と推測できる」
なんで普通の大学生がそんな事知っているんだろう……
この説明を耳にした時の風子の第一印象だ。
次に思う。
ああ…“普通の”大学生ではなかったか…。
“偉そうな”大学生…。
風子がそんな意味のない思考の波につかっている間も和馬の説明は続く。
「ピックの傷が死因じゃないとするとだ、他に死因があるはずなんだが、この被害者、相川紗奈が自室に引きこもってから第一発見者の佐々木葵がこの部屋にきて死体を発見するまで全員が一階のリビングから出ていない。
ということで…被害者は一人でいる時になんらかのしかけで殺された可能性がある。
で、最初に戻るわけだ」
「最初に?」
「そこらを不用意に触るとその仕掛けを発動させる可能性があるってこと」
(うっあああ~~~~!!!!)
今更ながら状況を把握してパニックになり、明かりのスイッチに触れかけた指をぶんぶん振る風子。
「落ち着け。踊るな、ポチ」
「はいっ!じっとしてますっ!」
呆れた目を向ける和馬に敬礼して硬直する風子。
和馬はそんな風子を放置でポケットから携帯を取り出して電話をかけている。
「ああ、俺だ。今現場を改めて検分してみたところだ。
遺体の状態は今写メで送った通り。
遺体発見までの状況は警察来る前に送ったメールの状況と変わらん。
で、新たな情報。ピックがフェイクは確定。
状況からの推測に加えて生活反応見ても出血ほぼないくらいだから刺されたのは死後。
ということで…送った写真の状況から本当の死因探る上でチェック入れたらよさげな場所わからんか?
場数踏んでない俺じゃ見える部分の分析はできてもそれ以上は想像つかん。
仕掛けあるかと思うとうかつに明かりもつけられんしな」
かけてる相手はいうまでもない。コウだ。
電話の向こうでは送られてきた写メを凝視してコウが考え込んでいて、和馬は答えを待っている。
数分間続く沈黙。
風子は少しパニックから立ち直って
「電話の相手…もしかして碓井さんです?」
とか聞き始めて和馬に睨まれて黙る。
その声は電話の向こうのコウにも聞こえていたらしい。クスっと笑う声が聞こえる。
「今の声…常田さんだろ?」
「ああ、知り合いか?このポチ子」
と和馬はうんざりした口調で言い、
「はいっ!覚えてて下さったんですか~!!」
と、風子は狂喜乱舞だ。
ポチ子…という和馬のセリフにコウはまた笑みをもらす。
かなり年上の人間に失礼だとは思うものの、小柄な風子が上司の赤井と自分の間をチョロチョロチョロチョロ走り回る図はまさに子犬のような印象があった。
「もちろん、覚えてますよ。毎回お世話になっています。
今回は所用で遠方なので駆けつけられませんが、そこにいる和馬とアオイは親しい友人なので、俺の時と同様にフォローしてやって下さい。お願いします」
コウの言葉に風子は(キャ~っ!!!)と小声で叫ぶと胸の前で握った両手のこぶしをワタワタ動かす。
「もっちろんです!微力を尽くさせて頂きますっ!」
はしゃぐ風子に和馬は
「ポチうるさいっ。コウの思考の邪魔すんなよっ」
とデコピン。
「いたたっ。すみませんっ」
風子は額を押さえてとりあえず黙る。
確かに…はしゃいでいる場合じゃない。
その後も和馬とコウは何か話し合っていて、風子は一人やることがない。
下手なものに触って自分が次の被害者になるのも…なので動きまわる事もできない。
(退屈…だなぁ…)
と、殺人現場で思っているあたりが風子生来のお気楽さだ。
触ってはまずいならせめて…とあたりを見回す。
個人の別荘らしいが…8畳くらいの部屋にベッドと机…まではいいとして、個室にバストイレがついているあたりが贅沢だな…と思う。
窓は閉まっていてパステルカラーの可愛いカーテンがかかっている。
ベッドカバーも可愛らしい感じでまるでペンションの一室みたいだ。
室内をそんな感じで事件とは全く無関係な視点でチェックしていた風子はふと自分達が入ってきたドアに目を留めた。
じ~っとドアに目を向ける風子に気づいた和馬が
「なんだ?」
と聞いてくる。
その言葉に楽しいルーム観察気分が一気に消えた。
「いえ、なんでも…」
言ったら絶対にまた馬鹿にされる…と、風子はぶんぶん音がしそうなくらい思い切り首を横に振るが、
「言え…っ」
と和馬に怖い目ですごまれて、また硬直する。
「あの…すみませんっ。
ドアノブカバーって…私の感覚だとなんとなくトイレとかのドアにつけるイメージで、廊下に出るドアにかけるってなんとなくイメージじゃなくて…。
ていうか…あれかかってたら内鍵閉めにくそうだなぁなんて…。
それだけなんです、すみません、すみません、すみません……」
頭を抱えて縮こまる風子。
トイレうんぬんはとにかくとして…このオツムの軽そうな婦警と同じ事を感じていたという事に少なからずショックを受けて和馬はため息をつくが、電話の向こうではコウがハッとしたように息を呑んだ。
「和馬、それかもしれないっ!
鑑識にドアノブを念入りに調べさせてくれ。
特につまみのあたりに何か付着物がないかどうか。
そういえば以前もそんな仕掛けの事件に遭遇したことある」
「あ~…そういうことか、だからこの位置なんだな」
コウの言葉に和馬は納得したようだが風子にはよくわからない。
しかしまあ…求められていることはわかる。
「鑑識を呼んできます」
立ち上がって部屋を出ると、廊下に待機していた鑑識を呼ぶ。
いても邪魔になるだけなので風子はそのまま廊下に待機で鑑識に色々指示をしている和馬を待った。
本当に…どちらが警察なのかわからない。
忠犬ハチ公のごとく和馬を待つ事1時間。
ドアノブだけじゃなく、色々調べさせて満足のいく情報と物的証拠を得られたらしい和馬は、廊下に出るなり
「お手柄だぞ、ポチ。1ランクアップを認めてやる」
と機嫌よく言って風子の頭をわしゃわしゃなでた。
「1ランクって…なんですか?」
やめておけばいいのに、そこで聞くのが風子だ。
もしかして犬から類人猿くらいに出世とでも言いたいのか…と卑屈に思った風子は次の和馬の答えでそれが大それた考えだったと知る。
「今までは駄犬だと思ってたが…たまには役に立つ事もする普通の犬だな。
躾けられたことを良く覚えてきちんと役に立つことすれば、次は名犬と呼んでやろうっ」
………
………
………
まだ…犬から脱出するのに1ランクあるらしい…それを受け入れている自分もおかしいと言う事にも気づかず、風子は遠い道のりを思ってため息を付いた。
「んじゃ、お待ちかね。愚民いびりに行くぞっ」
それはそれは楽しげに宣言して先を歩く和馬。
(この人…絶対に楽しんでる…)
風子はこれからいびられるであろう、和馬の言う愚民の方々に秘かに同情した。
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