温泉旅行殺人事件クロスオーバー_03

「おはようございます。お呼び立てして申し訳ありません。今回の捜査責任者の和田と言います」
母屋の、昨日事情聴取に使われていた部屋に連れて行かれると、捜査責任者らしい男が立ち上がってお辞儀をする。

「いえ、身代金要求があったそうですね」
勧められて椅子に座るとそう言う錆兎に、和田はうなづいて自分も椅子に腰をかける。

「はい。冨岡義勇さんの親御さんから身代金の管理を含む全てを鱗滝さんに一任するというご連絡をいただいてます。
義勇さんの婚約者で…鱗滝警視総監のご子息だそうですね」

婚約者というのは…正式に何かをしているわけではないのでそう言っていいのかどうかわからないが、少なくとも本人達を含む周りの認識としては間違ってはいないのだろう。

それにしても…
「父の事まで言ってましたか…」
錆兎が苦笑すると、和田は、いえ、とその点については否定した。

「それはこちらで調べさせて頂きました。
それだけではありませんよ?夏の高校生連続殺人事件の犯人を取り押さえたり、つい先日の箱根で起こった殺人事件の犯人を確保して事件を解決なさったとか、色々逸話を持っていらっしゃいますね」
と、こちらもにこりと笑みを漏らす。

「何故か昨年から妙に色々に巻き込まれてます…。
まあ…過去の事はもういいんですが…できれば現在の状況を伺いたいです」
錆兎の言葉に和田は
「そうですね」
と、うなづいた。

「実は今ここにいらして頂いたのは冨岡さんの親御さんから色々を一任されているというの確認するためというのもあったのですが、もう一つ、8時過ぎに犯人からあった電話で、身代金の受け渡す人間として鱗滝さんを名指しで指名されたからなんです。
それでちょっと問題がありまして…
まず、こちら、旅館の方で用意された新しい携帯電話です」
そう言って和田は錆兎に電話を差し出す。

「こちらで犯人から指示を直接鱗滝さんにするとの事なんです。
一応…犯人の指示で旅館内の広大な庭や周囲の山には警察を配置するなとの事で、上から人命優先の指示が出てますので基本的には従います。
それでも可能な限り警護はしたいとは思いますがなにぶん広大な範囲ですし、この田舎で同時に殺人の方の捜査も行っているので周辺の県警に応援は頼んでおりますが、それでも人員的に行き届かない面もでて多少の危険は伴う可能性がなきにしもあらずなんですが…」

「別に俺の身に関しては自分の身は自分でなんとかできるので、ご心配には及びません。
やらせて頂きます」
和田の言葉を最後まで聞く事もなく、錆兎は携帯を受け取った。

「実は…それだけではないんです」
和田は言って立ち上がりかける錆兎を見上げた。

「犯人は…身代金を受け取った時点で一人、鱗滝さんが自力で時間内に宿についた時点で一人人質を解放すると言ってるんです。つまり…」

「あ~…妨害があるかも…ということですね?それも了解です」
錆兎はとりあえず了承する。

まあ…指名されたのが自分で良かった…それが素直な感想だ。
意地でも…成功させてみせる。


「10時半に犯人からの最初の連絡が入るとの事です。期限は12時半。
まず身代金を持って自室で待つ様に指示があったのでそのようにお願い出来ますか?」

和田の言葉に錆兎はうなづいて身代金の入ったケースと携帯を手に離れに戻る。
10時30分、携帯がなる。

「もしもし…」
緊張して出る錆兎。
『始めの指示だ。今自室だな?カーテンをしめろ』
電話の向こうからは当たり前だが聞き覚えのない男の声。
「ああ」
錆兎は言ってカーテンを閉める。
そしてその旨を伝えると、男はさらに言う。

『ではお前の携帯を教えろ』
「わかった」
錆兎が自分の携帯を教えると、いったん携帯が切れ、自分の方の携帯に電話がかかる。

『まず警察から預かった電話はそのまま押し入れの布団の中にでも入れておけ。
今後はこのお前の携帯へ指示を送る』
錆兎は犯人の指示通り携帯を押し入れの布団の中に隠した。

『隠し終わったら金を持って、自分の携帯も目立たない様に持ち、庭の左側の道から露天方面へ向かえ』
「ああ」
錆兎は携帯を自分のコートの内ポケットにしまうとスーツケースを持って立ち上がった。

犯人の指示なのか、殺された小澤の離れのあたりは別にして、他の離れの周りには警官がいない。
錆兎はスーツケースを手に母屋を抜けると、指示通り左の道を通って露天方面へと急ぐ。
スーツケースを持って走る事10分。電話がなる。

『そのまま露天についたら、外の風よけ小屋にロープが置いてあるからそれを持って真ん中の道を戻れ』
「わかった」
返事をしてまた走る。

その後錆兎は露天について風よけ小屋のロープを取ると、今度は真ん中の道を急いだ。
そして走る事10分。また電話が鳴る。

『吊り橋についたらスーツケースの把手にロープを通して、ゆっくり崖下に降ろして下の川までついたらロープを抜け。その後ロープは処分して構わん』
「わかった」

崖下の川に流して下流で受け取るという事か…。
その為に水に浮く設計になっているルイヴィトンのスーツケースなんだな、と、錆兎は納得した。

現在11:10分。吊り橋までおそらく急げば5分くらいだ。
作業で5分くらいか…、それで11:20分。
ということは、タイムリミットまで40分ある。
吊り橋から走れば母屋まで5分くらいだ。
余裕で間に合う。

錆兎は走った。
なんのかんの言ってスーツケースは総重量8kgくらいはあるのだろうか…。
それを抱えてもう数十分も足場の悪い道を走り回っている。

昨日一睡もしてない上、食事もロクに取れない状態で…年末に受けた腕の傷もまだ完治していないと3拍子そろうと、鍛えているといってもさすがにきつい。
それでもなんとか吊り橋にたどりついた…はずだった。


「なんだ、これは……」
呆然とへたり込む錆兎。

それもそのはず。
昨日ギユウと一緒に帰った時には確かにあった吊り橋が壊れている。

一瞬放心したが、そこはトラブル慣れしている錆兎だけあって、急いでロープをスーツケースの把手に通して崖から降ろす。

ここまで走って15分かかった…ということは…露天に戻って15分。
そこから別ルートで走れば20分。かかる時間は35分。
10分以内にこの作業を終えれば間に合うはず。

錆兎は急いで…しかし慎重にスーツケースを降ろすと、ロープを引き上げてとりあえず崖の前に置く。
今は少しでも身軽になるため持ってはいけないが、あとで取りに戻れば証拠品になるかもしれない。

作業に予測通り5分かかった。
スーツケースがない分少しは早く走れないだろうか…。
とりあえず走り始めて5分。錆兎は異変に気付いた。
進行方向で煙が上がっている。

まさか…

もう少しだけ走って目を凝らすと、遠くの道が燃えているのが伺える。
風下の露天のあたりから付けた火が燃え広がっているっぽい。
今いる場所は風向きが途中で微妙に風上になるのでこちらまでは火はこないと思うが、このままでは露天に戻れない。

すでに吊り橋のガケを出てから14分経過。あと27分…。
そのとき携帯が鳴った。犯人からだ。

わきあがる怒り。

「…お前が…吊り橋を壊したのかっ!しかも露天側に戻る道に火をつけたなっ!」
『ご苦労だった、鱗滝君。今身代金は確かに受け取ったので君の健闘を讃えてお姫様はお返ししよう』
「…ご丁寧に退路たっておいてふざけるなっ!!」
『さあ、なんのことだ?とりあえず…そのままでは戻れないだろうから助けを呼べ。
それとも炎に飛び込んでみるか?
下手すると感動の再会のはずがお姫様が君の遺体と涙の再会とする事になるが?』

あと…23分…

「まだ20分以上ある…12時に母屋に電話しろ!
その時にフロントの電話に俺が出なければそこで初めて失敗って事だっ!」

『君の勇気に敬意を表してお姫様を返すのだから、無理はしないほうがいい。
まあ…フロントには一応私から事情を連絡しておこう』
そこで電話は切れた。

それから5分後、警察の和田から連絡が入るが、錆兎は今現在の位置は安全なため、手出しをしないように念を押す。


(落ち着け…何か手はあるはずだ…)
錆兎は考えを巡らせた。遠目でも火が強い事は見て取れる。
おおよそだが露天まで1km強くらいが燃えている気がする。

火の勢いは強く、燃え尽きるのを待っていたら時間切れだ。
水で消せるレベルでもない。
第一水なんてこの真ん中の道にはない。

右側の道なら小川があったが……
(それだっ!)
錆兎はクルリと反転した。

崖の方へ戻る事2分。
あの日…ギユウとの帰り道にのぼった木までくる。

錆兎は迷わず木をよじのぼった。
さらに一番高い位置から崖の上によじのぼる。

あと…13分。
息が切れる。
携帯がなる。

「はいっ、鱗滝!」
走りながら出る。

『鱗滝さん…二次被害につながるようでしたら…』
心配する和田の言葉に
「中央の道は脱出したっ!今母屋に向かって走ってるからあとにしてくれっ!」
と、錆兎は言うと、返事を待たずに携帯を切る。

崖をよじ登った時に無理な力がかかったのか、怪我をしている左腕がズキズキ痛むが気にしている余裕はない。
こちらの道からどのくらいかかるのかわからない。
とにかく走る。

あと…6分。母屋が見えて来た。
警察がズラリと勢揃いしている。
その中に見慣れたヒョロッと背の高い人影も混じってる。
ユートがかけよってくるが、それを錆兎は振り払った。

「自力で…たどりつかないと」
あと3分…ヨロヨロと母屋に辿り着いて、膝をついた。
シャツの左腕が赤くにじんでる。

「医者を!」
かけよるユートを錆兎はまた制する。
「まだ…電話でないと…」
ゼーゼー息を吐き出しながら、錆兎は言った。

そして12時…みんなが注目する中、フロントの電話が鳴り響く。
オンフックで出る錆兎。

「自力で…辿り着いたぞ。約束守れよ…」
錆兎は荒い息で言うが、それに対しての犯人の言葉…

『全く…お見事としかいいようがない。
申し訳ないが達成できると思ってなかったので、一人しか返す手段を考えてなかった。
もう一人については後日連絡する』

「ふざけんなっ!今すぐ返せっ!!」
怒鳴る錆兎に犯人は
『警察がウロウロする中人質を返すのはこちらとしてもかなりのリスクを伴う作業だ。
察して欲しい。
とりあえず当初の予定通りお姫様はもう返した。
使用されていない離れでお休み頂いているので確認して欲しい。
そろそろ眠り姫もお目覚めの時間なはずだ。ではのちほど』
と、電話を切る。

その言葉に錆兎は物も言わずに離れにかけだした。
もちろん警察もその後を追う。

一番端にある現在宿泊客の泊まってない離れ。
誰もいないはずなので鍵はかかっていない。
錆兎は靴もぬがずに中に入って寝室の洋室に駆け込んだ。

「…ぎゆう……」
フラリとベッドに歩み寄る錆兎。

ベッドの上にはポシェットを胸のあたりに抱えて、まるで眠り姫のようにすやすや眠っているギユウ。

「…ぎゆうっ!」
錆兎がギユウの上半身を起こして抱きしめる。

温かいぬくもり。
おそらく後ろから何かで眠らされて、そのままずっと眠っていたのだろう。
下手に抵抗する間もなかったのが幸いしたのかもしれない。
かすり傷一つない。
消えた時のまま薄桃色の浴衣。

「…起きろよ…ぎゆう」
静かに声をかけると、ギユウはちょっと可愛らしい眉をよせた。
「…ん…もうちょっと…だ…け…」
薬がそろそろ切れて目覚めかけてるらしいが、途切れ途切れにそうつぶやいてまた眠りに落ちそうになるギユウに、錆兎は少し目を細めて
「…起きてくれ…頼むから…」
と、軽く唇を重ねた。

温かく…柔らかい感触。
錆兎がそうしてギユウがちゃんと生きている事をあらためて実感していると、パチリと白いギユウの瞼が開いた。

「…おはよう、ぎゆう」
感極まって少し潤みかけた目で微笑む錆兎をギユウは不思議そうに見上げてパチパチと二度まばたきをする。
そのままポカ~ンと硬直するギユウを錆兎は抱きしめた。

「どこも…痛いとか苦しいとかないか?」
「…?」
抱きしめられたままきょとんとするギユウ。
「えっと…どうしたんですか?ユートさん」
少し離れた所でたたずんでるユートを見つけて、ギユウは聞いた。

本気で…ずっと寝てたらしい。
状況がホントにわかってないらしいギユウにユートは苦笑して答えた。

「えっとね…ついさっきまで魔王に拉致されてたんだよ、姫。
で、今勇者が救出したところ」
「…??」



その後、母屋の取り調べ用の部屋に移動し、錆兎の腕の手当をする横で和田がギユウに事情を聞いたが、結論からいうとギユウは何も覚えてはいなかった。
アオイとベンチに座ってからの記憶が全くなく、気付けば目の前に錆兎がいたとのことだ。
おそらく…座った瞬間眠らされたらしい。

何度か行方不明になるまでの記憶を確認したあと、そちらの方の質問は諦めたらしい。
和田は
「冨岡さん、別件の質問なんですが…」
と切り出した。

「あなたは昨夜露天風呂に忘れ物を取りに行かれたとの事ですが…その時ご自身の忘れ物の他に何かみつけられませんでしたか?」

当日…錆兎にした質問だ。
その言葉にギユウは、あ~っと声をあげた。

「はいっ。時計を…これなんですけど…」
と、ポシェットから腕時計を出す。

「洗面台においてあったので忘れ物かと思ってあとでフロントに届けようと思って忘れてましたっ」

ギユウの手から時計を受け取ると、和田は
「ありがとうございます。さらに確認させて頂きたいのですが…この時計はあなたが露天に入られた時にはありましたか?」
と、さらに聞く。
それに対してギユウはフルフルと首を横に振った。

「確かですか?」
とそれに再度確認をいれる和田。
それにもギユウはコックリうなづいて言う。

「はい。丁度私のポシェットのすぐ横に置いてあったので…。
さすがにあればポシェット置く時に気付きます」
「そうですか、大変参考になりました。ありがとうございます」
和田はにっこりと笑みを浮かべてギユウに頭をさげる。


その時、警察官が一人
「失礼します」
と部屋に入って来て和田に何か耳打ちした。
和田はそれにうなづくと、その警察官は部屋を出て行く。

それを見送って和田は犯人が今度はアオイの身代金としてもう5000万、同じくルイヴィトンのスーツケースに入れて今日中に用意するよう要求して来た旨を伝えた。
それに対して錆兎はまた報告もかねて蔦子に連絡をいれる。
事情を話すと蔦子は当たり前にもう5000万即届けさせる事を申し出た。
錆兎はそれをまた和田に伝える。

全てが終わると
「お疲れでしょうし、もうお戻り頂いて結構です」
と言う和田の言葉で、丁度手当の終わった錆兎はギユウと一緒に部屋を出た。



「どうだった?」
部屋を出ると外で待っていたユートが聞いてくる。

「ごめんなさい…ベンチ座ってからの記憶が全然なくて…」
アオイがまだ行方不明なのは聞いているギユウが、さすがにしょぼんとうなだれた。
「いや…姫のせいじゃないし。どっちかって言うと俺のせい。姫が気にする事じゃないよ」
ユートもうなだれる。

「まあ…結局身代金を二重取りしたいってことなんじゃないか?」
錆兎がチラリとギユウに目をやると、ギユウはうなづいて
「そのあたりは大丈夫っ。うちで責任を持って出すので」
と、請け負った。

「ごめん…。出世払いってことで…。社会人になったら働いて返す」
と言うユートだが、それにギユウはフルフル首を横に振る。

「アオイちゃんは…私にとっても大事なお友達です。
大切なのは誰が出すかじゃなくて…誰が運ぶかな気が」

「あ~、その時はまた俺が責任持ってやるから」
それに対しては錆兎が即請け負うが、ユートは首を横に振った。

「今度はタイムトライアルとかもないだろうし、俺がやるよ。
錆兎傷開いちゃったし…重いもん持たない方がいいって」

「いや、平気。蔦子さんにも一任されてるし…」
「でも…」

男二人が言いあう中、ギユウはきっぱり
「それ決めるのって…私達じゃなくて誘拐犯なんじゃ?」
と、彼女にしては珍しく真っ当にして鋭い意見を述べた。

「確かに…」
二人して苦笑する錆兎とユート。

「とりあえずさ…錆兎いったん部屋戻って休めば?寝れてないっしょ?昨日から。
俺も部屋で寝とく」
と、運び屋論争に一段落ついたところでユートが提案した。

「そうだな…。」
錆兎はそう言った後に、
「ユート、どうせなら部屋来ないか?」
と誘う。

自分はギユウが戻ってきて落ち着いたが、ユートは一人だと色々嫌な想像もまわるだろうと思った錆兎の言葉に、ユートは苦笑。

「いや、起きてる時は大勢の方がいいかもだけど、寝る時は一人の方がゆっくり寝れるから。気持ちだけもらっとく」
と、自分の離れに戻って行った。



しかたなしにギユウと共に錆兎は自分達の離れに戻る。
部屋に入るとギユウがまず宣言する。

「とりあえず…寝る前にさびとはお風呂かも?
あちこちボロボロだし…髪の毛とかも葉っぱやクモの巣や色々ですごい事になってるから」

確かに…あちこち走り回って木登り崖登り色々やったからそうかもしれない…が…

「ん~洗面台で髪だけ洗って体はタオルで拭くからいい」
一瞬でも目を離すのが怖いくらいなのに、ギユウを部屋に残して一人で風呂なんて入れるはずがない。
そう言うとギユウはきゃらきゃらと笑い声をあげる。
「そんなお風呂入ってる時間くらいでいなくなったりしないから」

本人は眠っていたから全く無自覚なわけだが…ユートが目を離したほんの5分ほどの間に拉致られてるわけで…。
さらにそれを主張するとギユウは、ん~、とちょっと首をかたむけた。

「じゃ、私も一緒に入るね。
どっちにしてもさびとも左腕濡らさない様にしないとだから、一人で頭洗うの大変そうだし…」

「ぎゆう…それ俺が無理。一応な…俺も男だから…。
裸とかきわどい格好とかで一緒に風呂入られたりしたらきつい…」

もうわかってもらえるかどうか自信はないのだが、一応説得を試みる錆兎。
真意がわかってるかどうかは別にして、一応どうして欲しいか…いや、正確にはどうして欲しくないか、か、は、わかってもらえたようだ。

「えっと、じゃあね、私普通の地の厚い物着てなるべく濡れないようにするね。
それならもし濡れちゃっても雨にふられた程度の感覚ですむでしょう?」

結局…一度彼女がこうと言い出したら聞かない性格なのは自分が一番よくわかっている。
錆兎はそこがお互いのぎりぎりの譲歩ラインと判断して、それに従う事にした。


かくして…たすきがけをして備え付けの羽織を羽織った浴衣姿のギユウと一緒に風呂場へ。
自分はもちろん腰にタオルを巻いた状態でかけ湯だけして湯船に入り、頭だけ出して髪を洗ってもらう。

マッサージするように髪を洗ってくれるギユウの柔らかい手の感触はとても気持ちいい。

「たまには…こういうのも悪くないな」
と思わずつぶやくと、
「東京帰っても洗ってあげるっ♪」
とギユウは笑みを浮かべて言った。

昨夜から今までの悪夢が嘘のようだ。
幸せが体の奥底から湧き出てくる。
髪だけ洗ってもらうと、体はもう湯船で洗ってしまって最後にシャワーを浴びて風呂をあがる。
バスタオルで体を拭いて下着をつけると、錆兎はちょっと迷ったが結局備え付けの浴衣を手に取った。
それを身につけるとギユウがちょっと目を丸くして、次の瞬間ふわりと笑う。
着慣れない浴衣はなんだかスースーする気がするが、それでも目の前で嬉しそうに微笑むギユウがいれば何も問題はない。

「やっぱり♪さびと絶対に和装似合うと思ってた♪」
ふわっと抱きついてくるギユウを錆兎が抱きとめると、ギユウはちょっと首をかしげた。
「どうした?ぎゆう」
不思議に思って聞く錆兎から体を離すと、ギユウは浴衣の置いてあった備え付けのタンスの下のスペースを覗き込み、香が炊いてあった香炉を手に取って匂いをかいだ。

「香の匂い…だったんだ…」
その一言で理解した錆兎は、浴衣の袖を顔に近づけて匂いをかぐ。
「ああ、そうだな。その匂いが浴衣にも移ってる」

それからギユウは自分もタンスから着替えの浴衣を出して
「浴衣やっぱり濡れちゃったし、私も着替えるね♪」
と宣言するなりいきなり着替え始めたので錆兎はあわてて後ろをむいた。

そこで初めて錆兎は玄関を始めとして、各部屋に置いてある香炉に気付く。
床の間には掛け軸や花が飾ってあるのにも、それまでは全く目がいってなかった。

「これで同じ香り♪お揃い♪」
その錆兎に後ろからふわりと抱きつくギユウ。

その言葉に錆兎はつくづく…自分は実利的な物しか目に入らない、情緒のない人間なんだと実感する。
少なくとも…香りをまとうという感覚は自分では思いつかない。

疲れた…その柔らかな香の匂いと確かに腕の中に存在する小さく温かい幸せを自覚してくると、一気に疲れが押し寄せて来た。

「…眠い…」
つぶやいた錆兎にギユウは
「ベッドで休んで?」
と言うが、錆兎はちょっと悩んだ。
一瞬でも目を離すのが怖い…。

「目が覚めた時に…またぎゆうがいなくなってたら今度こそ俺死ぬ…」
言ってぎゅっとギユウを抱きしめる右腕に力をいれる。

その言葉にギユウは
「心配性よね、さびと」
と、言いつつ
「じゃ、添い寝してあげる♪」
と、ベッドのある洋室に錆兎をうながした。

徹夜…は別に珍しい事ではないのだが、本気で色々ありすぎた。
ベッドに倒れ込むように潜り込む錆兎。

ギユウはその右側に寄り添うように横たわって、疲れきっている錆兎より先にちゃっちゃと眠りにつく。
昨日からずっと眠りっぱなしだったのに、よくまだ眠れるものだと錆兎は感心した。

ベッドに入るまでは隣で寝られたりしたら色々気になって眠れないのではと心配だったが、おかしな気分になる気力もないほど、疲れきっているらしい。
ギユウが寝るのを確認した次の瞬間には自分ももう目を開けていられない。
抱き枕のようにギユウを抱え込むと、錆兎はそのまま深い眠りへと落ちて行った。

目が覚めたのは鳴り響く内線でだ。
疲れきっていたせいか、錆兎にしては長く寝ていたらしい。
14時にベッドに入って時計に目をやるともう18時だった。
起きてまずしたのは、腕の中のギユウの確認。
気持ちよさそうに腕の中で眠っているその寝顔は可愛くて、胸が高鳴る。
急いででないとならない内線で起きたのは、そういう意味では幸いだった。
すぐ注意がそちらにむけられる。

「はい、鱗滝です」
内線を取ると
「お休み中でしたか?申し訳ありません」
と和田の声。
これでもう事件関係決定だな、と、錆兎の頭は切り替わって行く。

「いえ、何か進展がありましたか?」
完全に目も覚めて情報を収集する体勢のできた錆兎が聞くと、和田が
「はい、犯人から身代金の受け渡しについての連絡が入りましたので、母屋までご足労願えますか?」
と言うので、錆兎は電話を切り、洋服に着替えてギユウを起こした。


母屋に行くと各宿泊客が母屋の広間目指して集まっている。

殺人事件があったので、従業員でも暗くなってから離れのあたりを何度も料理を運ぶためにうろつくのは色々な意味でよろしくないということで、宿泊客は夕飯は母屋の広間で取る様になっているためだ。

OL3人組、老夫婦、氷川夫妻がそれぞれ並んですれ違った時、ギユウがふいに立ち止まって首をかしげる。

「どうした?ぎゆう」
錆兎は遠ざかる3組の宿泊客とギユウを交互に見て、ギユウに声をかけた。
錆兎の声は考え込むギユウには届いてないらしい。

そのまま無言で首をひねるギユウに
「ぎゆう?」
と、錆兎が声をかけて少しかがんでその顔を覗き込むと、ギユウは初めて気がついたらしい。
「ううん、なんでもない。行こう」
と、いつものぽわわ~んとした口調で言って、錆兎の腕を取った。




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