姉の企みにのせられて熾烈な女の戦いに巻き込まれるは、初体験のチャンスは逃すは、あろうことか殺人事件にまで巻き込まれるなんて、本当に年末は散々だった。
それでもまだ年度内に片がついて彼女のアオイ、親友のサビトこと鱗滝錆兎と、そして友人で錆兎の彼女のギユウこと冨岡義勇の毎度おなじみの4人で初詣にこれただけマシなのだろうか…。
(今年こそ…アオイと無事初体験終えられますように。
ついでにこれ以上おかしな事件に巻き込まれません様に)
と、これまた彼にしては随分真剣にお祈りをした。
もうどちらも切実である。
隣ではアオイも気合いの入った祈りを捧げている所を見ると、なんだか同じ事を祈ってる気がしてくる。
一方で錆兎とギユウはサラっとお祈りをすませたらしく、さっさとおみくじなど引いている。
「むふふっ、大吉♪」
とヒラヒラとおみくじをかざすギユウに、
「末吉…」
と、ちゃっちゃとそれを枝に結びつける錆兎。
その後ユートとアオイも同じくおみくじを引く。
「う~ん…末吉だ~」
というアオイ。最後にユートはゲゲっ!と声をあげてのけぞった。
「ありえんっ!凶ってなに?凶って!」
滅多に出ないらしい凶をよりによって初詣に引くあたりが…なかなか波乱な幕開けである。
その後は年末の事件の発端になった聖星女学院の校舎屋上のマリア像見物に行ったあと、ギユウの家へ向かう。
「アオイちゃん、ユート君、いらっしゃい♪義勇、錆兎君おかえりなさい」
豪奢な洋館のドアが開くと、そういって迎え入れてくれるのはギユウにそっくりなギユウの母、蔦子。
もうギユウのうちで当たり前におかえりなさいと言われてる錆兎は、これまた当たり前に
「ちょっと部屋で着替えてくる」
と、ユートとアオイを残して自分用に用意されている私室のある2Fへと上がって行った。
それを見送ってユートは思わずため息をつく。
「いいよなぁ…錆兎は…。いつでも彼女と二人きりになれて…」
その言葉にギユウはキョトンと首をかしげた。
「二人きり…になりたかったんですか?今日」
「いや、今日の事じゃなくて、普段ね」
ユートは苦笑して訂正する。
「姫ん家広いしお互いの部屋で二人きりになるとほぼ邪魔入らないだろうし、錆兎の家なんてもっと完璧に二人きりになれるでしょ。
俺らなんて年末はたまたまお泊まり旅行できたけど、そうじゃなきゃお互い自分の部屋でも常に家族の気配あるし…。
静かに二人キリなんて次はいつになるやら…」
ユートがそう言って大きく肩を落とすと、丁度紅茶を運んできた蔦子がにこやかに言った。
「あら、ユート君、静かに二人きりのお泊まり旅行したかったの?」
「え?あ、いや、あのっ!!」
いきなり振ってきた声。
大人に言われてさすがに慌てるユートだが、蔦子はにっこりと
「じゃ、丁度いいから義勇も行ってらっしゃいな♪
明日から私とタカさん旅行だから錆兎君とお留守番だし、義勇達も旅行でもいいんじゃない?
お友達がやってる旅館あるから借りてあげるわ♪
部屋がそれぞれ離れになってるから静かよ~♪」
と、ギユウに言う。
ちなみにタカさん…というのはギユウの父親である。
代々ギユウの実家の家系の女は天然で、しっかり者の男を、それだけはきっちり選んで続いている不思議な家系というのもあって、非常にしっかりとした”出来る男”である父、貴仁は、やはり娘の選んだ男を信頼しきっていて、しばしば自分が帰宅できない時に錆兎を留守番に呼んだりしている。
ゆえに何故か親戚でもなければ幼少時からの古いつきあいとかでもない娘の彼氏である錆兎の私室が冨岡家には用意されたりしているわけで…今回もその留守番の予定だったらしい。
ここん家の親は相変わらず…と、ユートとアオイは内心苦笑する。
まあそれでもその申し出はありがたいわけではあるが…。
「えと…よろしいんですか?」
チラリと見上げるユートに
「旅行はね、行ける時に行っておくものよ♪
今と未来じゃ同じ季節に同じ場所に行っても感じ方違うしね♪見える景色も違うわよ、きっと♪」
と蔦子は上機嫌で言いつつ、
「じゃ、予約いれてくるわね~♪」
と、パタパタと電話に駆け寄った.
錆兎の意見は…いつものことではあるが、すでに考慮されないらしい。
降りて来た錆兎は話をきいて大きく大きくため息をついた。
「蔦子さん…相変わらず画策してるな…」
その言葉にユートが反応する。
「画策って…何かやばいことでもあんの?!」
去年…2度も殺人事件に巻き込まれていると、さすがに怖い。
おまけに今年は初っぱなから凶のおみくじなんてひいてるので、楽観的になれない。
その言葉に錆兎は
「あ~別にユート達は気にしないでいい」
とまた小さく息を吐き出し自分もギユウの隣に座ると、入れてあった紅茶を口に含んだ。
「そう言われても…気になるんだけど?」
うながすユートに錆兎は少し嫌そうな顔をする。
「母はあと4年ほどで40なんです。
でね、30代のうちにおばあちゃんになりたい…って思っちゃってるわけなんですよね…」
錆兎の代わりにギユウがサラリともらす言葉にアオイが紅茶を吹き出した。
「多分…TVか何かでそんなのがやってたとかだと思うんですけどね…」
と、さすがに呆れた様に付け足すギユウに、ユートは
「親公認でやりたい放題っ?!」
と身を乗り出す。
「お前…馬鹿か…やりたい放題やったら終わるぞ…」
それに錆兎がまたがっくりと肩を落とした。
「生活力がない…っていうのを別にしても、まだ法的に籍もいれられない年だぞ。
子供って言うのは籍入れてない状態で産まれたら認知しても非嫡出子だ。
それは後日籍入れても変えられるものじゃないから子供に一生正規の婚姻関係の間以外で産まれた子ってのが付いて回るんだぞ」
「錆兎って…なんかすげえ色々考えてね?」
その言葉にユートがポカ~ンと口をあける。
「当たり前の事だ。お前も考えろ。
というか…籍いれてないうちにやるなら常にそのくらい考えとけ」
そこまで考えてるのかと呆れるユートと、そんな事も考えてなかったのかと呆れる錆兎。
双方が正反対の意味でため息をつく男二人。
そんな事を話しているうちに蔦子がハタハタと戻って来て、予約し終わった事を告げた。
「とりあえずね、二人きりでゆっくりしたいって言うユート君の希望通り、それぞれが離れになってる旅館予約したから♪
一つの離れに和室2部屋と洋室1部屋あってね、洋室にはベッドがあるからいちいち旅館の従業員さんがお布団敷きに来たりもしないし、思い切り二人きりでゆっくりできるわよ♪」
「おお~」
ウキウキと説明する蔦子と歓声をあげるユート。
そこで錆兎が眉間に手をやりながら、ため息をついた。
「蔦子さん…まさかとは思いますが部屋割り…」
「ちゃんと2棟予約したから♪ユート君とアオイちゃん、錆兎君と義勇で♪」
にこやかに宣言する蔦子に、錆兎はやっぱり、と、ガックリと肩を落とす。
「蔦子さん、嫁入り前の娘の親がそれって普通にありえません!」
「あらぁ、いいじゃない?
錆兎君だって別に義勇が嫡出子だから好きなわけじゃないでしょう?
大丈夫♪錆兎君に似ても義勇に似ても絶対に可愛い子供が産まれるから♪」
確かにそうなんだが…だからといって…。もう…泣きそうである。
この台詞はもう随分前から言われていて…このあり得ない浮世離れした女性は貴仁がいても誰がいても平気でそれを言っていて…
でも誰が忠告しようと聞きたい言葉以外は華麗にスルーできる高いスルースキルは娘と本当に瓜二つで……
そして能力的には彼女を遥かに上回るはずの貴仁が彼女にだけは弱いのもギユウに弱い自分と一緒だったりして…
「…青少年にはなかなか拷問だよな…。でも錆兎君の理性は信じてるから…」
と、コソコソっと避妊具を渡してくるのが、せめてもの貴仁の良心らしい。
でもまあ…それがなければ非常に温かい良い人達ではある。
産まれてすぐくらいに母を亡くし、父も仕事で忙しくて滅多に帰宅しないという環境で育った錆兎にとっては、ここが唯一の家庭、この人々が唯一の家族と言ってもいいくらいだ。
あまり他人になじまない錆兎でも違和感なくとけこめる温かい何かがこの家にはある。
もちろん、彼女のギユウは錆兎にとっては最愛にして唯一無二の絶対者。
自分の幸せの全てが彼女にあると言っても過言ではない。
そんなわけで…行かないという選択は錆兎にはほぼできないわけで…なし崩し的に4人で旅行と相成った。
東京から電車で3時間。
山間の駅に着くと、そこからはマイクロバスで旅館に向かう事になっている。
紫葉荘…と書いてあるマイクロバスを見つけると、錆兎がまずギユウを乗せ、アオイ、ユートとうながして、最後に自分とギユウの荷物を手に自分が乗り込んだ。
中にはすでに老夫婦が一組、中年…30代後半から40代前半くらいだろうか、の男性が一人、それからOLらしき女性3人組が乗っている。
「ね、あの男の子、すっごい美形♪隣の子…彼女かなぁ…」
などと女性陣がコソコソと錆兎の噂をするのはいつもの事。
「もう一人の男の子もまあいい線いってるけど…やっぱり彼女連れだよね。
惜しいなぁ…二人とも彼女いなければちょっと声かけちゃうのに…」
と、こちらはユートの事らしく、アオイがピクンと硬くなる。
それに気付いたユートは、アオイの肩を少し抱き寄せて
「あ~ホント若い男とかいなくて良かった~。
いたらアオイ気になって俺一人でトイレもいけないしっ」
とニカッと笑った。
そのユートの態度にアオイはちょっとホッとする。
そんなカップル二組のユート達に興味が失せたのか、OL達の関心は今度は一人でいる男性へ向かった。
男性は中年といってもまあ整った顔の、イケメンと言ってもいいくらいの容姿で、少し沈んだ様な憂いを帯びた表情が、OL達の関心を呼んだようである。
「こんにちはぁ♪一人旅ですか?私達都内のOLなんですけどぉ…」
と、いきなりOLの一人が声をかけた。
男性は考え事をしていたらしく、声をかけられて驚いた様子でビクっと顔をあげる。
「え、ええ。まあ…」
男性が笑みを浮かべて曖昧な返答を返したその時、最後の一組らしい、男性と同じくらいの年代の夫婦が乗って来た。
「お嬢ちゃん達、彼に騙されちゃだめよ~。
そいつはすっごいタラシなんだからっ」
最後にのって来た夫婦の女性の方が、そう言って、その中年男性に
「光二、おひさ~♪相変わらずじゃない♪」
と手を振った。
手を振られた光二と呼ばれた男性は幽霊でもみたかのように目を見開いて硬直する。
「澄花…どうして…」
それだけ言って言葉をなくす男性の横を通り過ぎて、その後ろに夫と共に座ると、澄花と呼ばれたその女性は、
「お待たせしてごめんなさいね。出して下さって結構です」
と、前の運転手に声をかけて、バスは発車した。
バスが動き出すと、その二人の態度にOL達は興味津々だ。
「お二人お知り合いなんですか~?」
ときゃいきゃい声をあげる。
中年男性はそのまま硬直しているが、女性の方はにこやかにうなづいた。
「20年も前に別れた彼氏よ~♪
もうね、浮気はとにかくとして、彼女の親友に手だすって神経がしんっじられないわっ。
別れて正解♪
今の旦那は結婚15年になるけど一回も浮気なんてしたことないわよっ」
あっけらかんと言う女性に、さらにはしゃぐOL達。
言われた中年男性はやっぱり硬くなって無言だ。
その女性の隣に座っている夫の方は、そんな妻に少し苦笑している。
「…女…こえぇ…」
思わず小声でつぶやくユートに、錆兎はクスっと
「なんか…あの夫婦、映とヨイチに似てるよな」
と、やはり小声でささやく。
「あ~そうかもっ!奥さん豪快で、旦那さん優しそうだよねっ」
錆兎の言葉に先ほどまでOL達の事で少し硬くなっていたアオイも笑顔を見せてうなづいた。
「もしかしてっ、お二人誘い合ってなんですか?」
「こら、旦那様に失礼でしょっ」
ユート達がそんな会話を交わしてる間もOL達の黄色いおしゃべりは続く。
(空気読めよ…OL)
と、ユートも錆兎も思ったが、妻も夫も気にしてないらしい。
妻はまた豪快に笑って
「そそ!旦那見せびらかしにっ!
顔はあれだけど、むっちゃ誠実そうでしょ?
結婚するならやっぱり不実なイケメンより普通の誠実な男よっ?」
と夫を振り返って、振り返られた夫の方は
「よさないか、澄花。みなさん、すみません」
と低いちょっとしゃがれたような小さな声で言うと照れ笑いを浮かべた。
「奥さん…今すっごく幸せなんだね」
アオイがそれを聞いて嬉しそうに微笑む。
「だねぇ。なんか昔浮気された男に幸せ見せびらかしにってのがいいよなっ」
と、ユートも笑った。
OL達も同じ事を思ったのか夫婦を冷やかしたりしながら、なごやかな空気で3時過ぎに旅館到着。
高級旅館紫葉荘はフロントとロビー、ラウンジ、厨房その他がある母屋と7棟の離れ、そして広大な庭園で成り立っている。
広大な庭園は散歩道にもなっていて、母屋や離れなどから30分ほど歩いた先には海の見える鍵付き露天なんてものもあったりする。
もちろん、そこまでは頼めば送迎車を出してもらえるが、散歩がてら歩く人がほとんどだ。
「露天…一緒に入る?」
ロビーについてユートは思い切り期待して言ったわけだが…
「それは嫌っ」
と、アオイに即却下されてしょぼ~ん。
「だって…さすがにお風呂は恥ずかしいよっ。ギユウちゃん一緒にはいろっ」
と、アオイは赤くなってそう言い訳をするとギユウを誘う。
それを見てユートは
「錆兎、姫と入りたいでしょ?」
と、錆兎に助けを求めるが、こっちも
「それは嫌だ」
と即答される。
「錆兎~、青少年のくせに夢なさすぎ~!」
ユートはブーイングだが、錆兎はきっぱり
「風呂は落ち着いて入りたい。
ぎゆうはどこでもじゃれつかずにはいられない女だから、無理」
と、返す。
結局…男性陣はそこで断念。
アオイとギユウだけ5:00~5:40の予約を入れた。
4人は他の宿泊客同様2対2に分かれて母屋から徒歩2~3分の離れへ落ち着く。
そしてそれぞれ荷物を置いて落ち着くともう3時半だ。
(露天…5:00だから母屋出るのが4時半くらいかぁ…。
あと1時間くらいじゃ無理だな。
戻って6時過ぎ。
夕飯が6時半からで8時から花火見えるって旅館の人言ってたからそれ見に行って…。
ムード盛り上がったとこでか…)
女性だけのサービスの部屋の名称にあわせた模様の浴衣をはしゃぎながら着込んでるアオイを背に、もう頭の中はその事一色なユート。今日の予定をたてている。
「見てみて、似合う?」
この離れの名称、花火の間にちなんだ花火模様の浴衣を着て自分の前に回り込むアオイにユートの頭の中はさらに妄想でいっぱいに。
着物を着た状態で…というのは男のロマンだよなぁ…などと親父のような事を思いながら内心ほくそ笑んでいるが、よもや目の前の男がせっかく着た浴衣を脱がせる事しか頭にないなどとは、アオイは夢にも思っていない。
「すっごくいいねっ」
という言葉を言葉通りに取って嬉しそうに笑っている。
そのまま仲居さんが入れて行ってくれたお抹茶を飲みつつアオイの着替えを持って4時15分に錆兎達の離れ蝶の間を訪ねる。
入り口で声をかけると
「ほら、姫。ユート達来たからいい加減放せっ」
と、錆兎がシャツにしがみついたままのギユウをひきずったまま出てくる。
「錆兎…もしかして襲われてたん?」
ボタンがいくつか外れてる錆兎のシャツにしがみついてるギユウを見て、目を丸くするユートを指差して、錆兎はため息をついた。
「ほら、ユートだって着てないだろっ。別に俺はこれでいい!」
「え~せっかくなんですし、浴衣着ようよっ」
というギユウはもちろん、淡い桃色に蝶の模様の浴衣着用。
ちなみに…男性用のはただの紺の浴衣だ。
「そういうのは女のためにあるんだっ。
ていうか…そんなもん着たら俺雑用できないぞっ」
という錆兎にギユウはプゥっと可愛らしく頬を膨らませた。
「とにかく放せっ」
と、ギユウの手を外させて、錆兎は外れてるシャツのボタンをはめ直す。
そして渋々着替えを取りに行って戻って来たギユウを連れて出てくる。
「さびと…絶対に着物似合うのに…。戻って寝るだけになったら…着てくれる?」
口をとがらせて、それでも上目遣いに見上げるギユウに、錆兎はきっぱり
「パジャマ持参してきた」
と、却下の意を表明する。
「ぎゆうといる限りいついかなる時に雑用できるかわからんだろ」
不満げなギユウにそう宣言すると、錆兎はアオイ達の方にギユウを促した。
それから母屋を通り抜けて4人は散歩がてら露天へと向かう。
露天は外鍵と内鍵がついていて、外鍵は貸し出し用が2セット。
露天に向かう前に母屋で借りて、帰ってきたら返す。
なので部外者が露天に入る事はできない。
そして内鍵は文字通り内側からの鍵なので、現在使用中だと早めに行って外鍵を使っても内鍵でロックされているため入れないという仕組みだ。
「結構…遠いよね。足場も悪いし、夜なんてめっちゃ歩きにくそう」
もう景色なんてどうでも良いユート。
確かに道は細い木でできていて二人並んで歩くのがやっとな上に曲がりくねっているので歩きにくい。
「ん~これだけ広いと安全管理どうなってんだろうな。
部外者でも忍び込めそうな気がする」
と、こちらも景観をそっちのけな様子の錆兎。
確かに…母屋から奥、離れのある中庭は全体を塀がおおっているものの、母屋より手前に外庭はその気になれば部外者でも簡単に入り込めそうだ。
もっとも四方を山でかこまれているため、山を越えてこなければいけないので大変なのは大変そうだが…。
「小川…水綺麗…冷たっ」
ギユウは道沿いに流れてる小川に少し指先をつけて、あわててひっこめる。
「馬鹿…風邪ひくだろ」
錆兎は自分のハンカチでその指を拭いてやると、指先を包むように手を握った。
「なんか…山に囲まれてて木と小川と空しか見えなくて建物も全然なくて、ホントに旅行してるって感じ♪ほら、ひな菊とかも咲いてる♪」
楽しげにその手を大きく振りながら、可愛い声でメロディを口ずさむギユウに、錆兎がちょっと微笑む。
いつでも楽しそうなその可愛い少女の様子が、物理的なものにしか目がいかない錆兎にも景色が綺麗な事を気付かせてくれる。
ギユウがいなくなったら自分にとって世界というのは…おそらく白と黒の無機的な味気ないものになるだろうと錆兎は思った。
彼女がいるから世界は幸せで明るくて楽しい。
ギユウがそこにいるだけで、ただ状況把握しながら危険そうな場所をチェックしていた道のりが本当に楽しむために散歩している遊歩道になるから不思議だ。
そんな風に散歩を楽しみ始めた錆兎とは対照的に、ユートにとっては相変わらずただの長い道のりだ。
錆兎達がいなければ少し道を外れて外でできたかも…でも寒いかぁ…などと、浴衣のため普段とはちょっと違って色っぽく見えるアオイの襟裳をチラチラ見ながら妄想にふけっている。
ここで出来ないなら早く露天について、早く入って早く上がってもらって帰りたいなぁというのが本音だ。
それでもまあ…賢明なユートはアオイにリラックスしてもらわない限りは上手くいかないのはわかるわけで…錆兎と同じく彼女の手を取りながら、長い道のりを表面上は楽しげに歩く。
そして露天に到着。
「じゃあ行ってきま~す」
と、露天へ消える女性陣。
錆兎は待ってる人間のために用意された風よけの小屋にある椅子に座ると、準備良く持参した魔法瓶に入れたお茶を紙コップに注いでユートに渡す。
「サンキュ~、準備いいなぁ」
と感心するユート。
「ん~、蔦子さんが露天遠いって言ってたからな。
女性陣入る時は不用心だし、どうせこうなると思ったからな」
それだけの情報でここまで気が回るというのも錆兎ならではだと、ユートは思う。
波の音と露天に入る女性陣の楽しげな笑い声だけが聞こえる。
手持ち無沙汰だ…。
ユートはふと思い出して話始める。
「錆兎…俺前回さ、夜にアオイが幽霊みたとか騒ぎになったし、落ち着かないだろうなと思って翌日に持ちこそうとしたら、いきなり殺人事件で帰る事になって、結局できなかったんだけどさ…ヘタレ?」
少し肩を落とすユートに、錆兎は
「…わからん。でもそんなもんじゃないか?
お互い初なら余計にそんな落ち着かない状態じゃ無理だろう」
とまたお茶をすする。
「でも…錆兎はそういう挫折してないだろ?」
ユートがチラリと錆兎の表情を伺うように視線を送ると、錆兎はあっさり
「してないから、挫折もまだないな」
と言う。
「ええ??!!」
驚くユートに錆兎は肩をすくめた。
「言っただろう。今万が一子供でもできてもまだ籍入れられんから。
避妊ていうのはどれも100%じゃないし、中絶は論外。
かといって自分の都合で子供の一生に関わるようなハンデ与えるのはやっぱり気がひけるしな。
もちろん蔦子さんが言う様にそれが全てを決めるわけじゃないけど、ハンデはなければ無い方がいい。
男ならまあ…自分の人生は自分で切り開けって放り出す気にもなるんだが、姫に似た女の子とかだったら絶対に後悔する気がするから。
女にもそういう欲ってあるらしいけど、ぎゆうは今の時点であんまりそういうのなさそうだし、俺の問題だけなら俺がしばらく我慢した方がいい」
錆兎らしいと言えばこれ以上なく錆兎らしいわけだが…自分にはとてもそんな選択はできないと思う。
たぶん…錆兎は自分のような事で悩まないのだろう。
まだしてないとか、できないとかいうのを格好悪いとかも思わない。
焦る事もなく、流される事もなく、常に自分の信念に従って行動している。
そして…たぶん何より彼女を大切に思っているんだろうなと思う。
「錆兎の話聞いてるとさ…俺すごい自分が自己中で馬鹿などうしようもない人間な気がしてくんだけど…」
アオイの事を考えてないわけじゃない…つもりなんだが…はたして自分はちゃんとアオイの気持ちを大切にしているんだろうか…。
「ん~ユートは考えてると思うぞ。しかも…頭いいからな。
俺より相手が望んでる事を的確に汲み取れる分、相手の為になる事できてると思う」
「でもさ…俺そこまでアオイの事考えて、”やらない”って選択なかったし、今もないんだけど…」
もう…このまま何もしないで帰るなんて、錆兎の話を聞いてもやっぱり考えられない。
しかし、それに対して錆兎は非難するでもなく呆れるでもなく、ただ小さく笑った。
「あ~それは…普通じゃないか?普通はそこまで悲観的に考えんと思う」
「自分で…悲観的だからって思ってるんだ?」
ユートの問いに、錆兎は
「普通にさ、家族と友人に囲まれて育って来たユートにはさ、わからんかもだけどな」
と苦笑する。
「俺にとって…例えば死ぬって事は特別な事じゃなくて…常に身近にあった事なのな。
物心ついた頃には母親死んでたし…父親の職業柄、死について聞く事も多かったしな。
生が必ずしも幸福で死が必ずしも不幸とは限らないけど、自分にとって必要だっただろう人間が、自分が物心ついた時には死んでるって場合の死っていうのはまぎれもない不幸だろ?
で…誰かにとって必要だった人間が殺されて不幸に死を迎えた話とか聞いて育つと、死ぬとかそういうレベルの不幸が、自分の身の回りだけ絶対に起こらないなんて確信が持てなくなるんだよな。
今は俺の人生の中ではありえないくらい幸福に囲まれてると思うんだけど、突然不幸が訪れてそれを奪って行かないっていう自信がない。
今の俺の幸福とかって完全に姫に支えられてるからさ。
姫をなくしてあの一人の生活に戻るのがめちゃくちゃ怖い。
だから姫の周りからは不幸の要因になるものを全て排除したいし、自分がその元を作るなんて論外。
ユートはアオイ以外にも普通に家族も友人もいるけど…俺は何もないからな…」
最近…妙に落ち着いて来たから忘れていたが、そう言えば錆兎の孤独な生い立ちを知ってからまだ4ヶ月。
人間なんてそんな短期間に早々変われるものでもない。
「なあ…確かに姫には敵わんし家族ではないけどさ…」
しばらく黙って話を聞いてたユートはそこで口を開いた。
錆兎はその声にちょっと視線をユートに向ける。
「忘れんなよ、何もなくはないぞ。もう友人はいるだろうがっ。
自慢じゃないが…俺はこんななさけない話、親友以外にはしないぞ。
一応見栄っぱりなんだからなっ」
ボソボソっと言うユートの言葉に錆兎は
「そうだったな」
と破顔した。
そんな話をしていると女性陣が露天から出てくる。
「さすがに…そんなに長く入れるもんじゃないねぇ…」
真っ赤な顔で言うアオイ。
一応5;40分までだが、まだ5:30だ。
「ですね。たぶん…寒い場所なのでお湯の温度を少し高めにしてあるんでしょうね。
のぼせちゃいます」
ギユウも真っ白な肌を少し薄桃色に染めて、アオイの言葉に同意する。
「まあ…でもあんまりのんびりしてると湯冷めするぞ。行こう」
錆兎は言ってみんなを促した。
「明日は…さびととユートさんも入ってきたらいいのに。
海が見えてすっごく気持ちいいですよ~♪」
行きとは別の道を通りながらギユウはニコニコと笑顔で言う。
「うんうん、すっごく景色いいよ~♪」
アオイも言うが、錆兎はきっぱり
「送迎車出してもらうにしても往復20分弱。
入ってる時間考えたら1時間弱も姫を一人で部屋に残すなんて危ないだろ。
かといって…ついて来られても外で待つのは宿で待つより危ないし。俺は内風呂で充分」
と言い切る。
「錆兎…」
「さびと…」
「錆兎ってば…」
ユートもギユウもアオイも…錆兎本人以外の3人はその言葉に苦笑した。
「子供じゃないんだから…」
と言うギユウだが
「子供より危ないだろ、お前は」
と錆兎はさらに言う。
確かに…否定はできない、と、ユートとアオイはそれには無言の賛同を贈った。
そんな話をしながら宿に辿り着く。
「腹減った~。今何時?」
ユートの言葉に錆兎がチラリと腕時計に目をやって答えた。
「18時13分32秒」
その答えにユートが呆れたように
「あのさ…時報じゃないんだから…秒まで要らんて。
ま、夕飯6時半に頼んどいたからあと17分かぁ」
と、お腹をさする。
「食いしん坊だね、ユート」
そんなユートに楽しげに言ったアオイは、
「あ…」
と叫んだ。
「何?」
とユート。
「露天の鍵返し忘れた~。ちょっと返してくるねっ」
と、止める間もなく走り出して行く。
「んじゃ、夕飯は錆兎達の部屋だし、もう直接行っちゃうか」
食事は錆兎達の部屋に運んでもらって一緒に食べるように手配してるため、ユートもそのまま錆兎達の離れに向かう。
「遅いな…アオイ。母屋まで行って帰ってくるだけならいい加減来てもいい頃だよな…」
18時20分を過ぎて仲居さんが食事の支度を始めると、錆兎はチラリと時計を見て立ち上がった。
「ちょっと見てくる」
と、錆兎が心配性なのはギユウに対してだけではなく、仲間全般に対してだ。
まあ…去年の大騒ぎを考えると、彼が特別心配性なだけとは言い切れないのだが…。
そして錆兎が部屋を出かけた時
「遅れてごめ~ん!」
と、アオイが入って来た。
「迷いでもしてたのか?」
アオイならあり得る…と錆兎は言うが、アオイはそれは
「ううん、実はね…」
と否定をして、しかし部屋に入って
「うっわ~綺麗♪」
と料理をみて歓声をあげた。
もう…こうやって関心がコロコロ移るのは、周りの女性陣の特徴だ。
錆兎はそれ以上聞くのはあきらめて、黙って自分の席につく。
「ギユウちゃん…何やってるの?」
食事が始まるとおもむろにパシャパシャとデジカメで写真を撮るギユウ。
「あ~気にするな。単に綺麗な飾り付けとかはデジカメで撮って保存して、自分が料理する時の飾り付けの参考にするだけだから」
と、真剣な顔でシャッターを切るギユウの代わりに錆兎が答える。
その作業が終わるとようやく食事に入るギユウ。
しかしその顔は真剣そのもの。外見を撮り終わると今度は匂い、味を調べてるらしい。
「ギユウちゃんてさ…いつもこうなの?」
パクパクと料理を頬張りながら聞くアオイに錆兎は苦笑してうなづく。
「ギユウだけじゃなくて蔦子さんもそうだぞ。ここん家の女は料理に命かけてるから。
味覚はもちろん、嗅覚もすごい」
そんな事を話しているうちにようやくチェックが終わったらしい。
いつものぽわわ~んとした表情に戻って楽しそうに食事を始めるギユウ。
まあ食べられる量は少ないので、半分くらいはユートと錆兎の胃袋に収まったわけではあるが…。
そのかわり時折
「これ好きっ♪」
と言うと、錆兎が自分の分をやってたりするのが微笑ましい。
まあ…それはたいてい錆兎が食べられない甘い物だったりするわけだが…。
そんななごやかな夕食がすむと、気持ちは花火へ。
「早めに行っていい場所探そうぜ」
というユートが立ち上がった時、支度をしていたギユウが
「あ…」
と声をあげた。
「今度はお前か。なんだ?」
苦笑する錆兎。
「お風呂に…ポシェット忘れて来ちゃった…」
「今…7:20か。急いでフロント行って車出してもらえば7:30の人が入る前に取って来れるな。急ごう」
錆兎が行ってギユウを連れてフロントへ急いだ。
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