確かに殴られたはずみで口の中を切って唇に血がついていたので、錆兎にはひどい怪我のように思われてそう聞いたのかもしれないが、他はせいぜい打撲くらいだ。
だからそのくらいで病院になんて、そんなところが錆兎の叔父らしいが心配性だなと思ったのだが違ったらしい。
必要なのは“暴力によって怪我をした”という証拠のようだ。
もちろん病院では小さな傷も丁寧に手当してくれて、左右を錆兎と耀哉に囲まれ労わられながらの移動ではあったのだが…。
錆兎と2人で会っていた時もいつも思っていたが、叔父の耀哉が加わって2人にエスコートされて改めて思う。
彼らといると本当に自分が姫君にでもなったみたいだ。
病院を出て車で移動中、次の行き先が自分の家だと聞かされて思わず固くなる義勇に、
「「大丈夫、お姫さん(姫君)の事は何があっても守るから(ね)」」
と、口を揃えて請け負うあたりは、雰囲気は違っても同じ血筋だと思った。
「まあこういう交渉ごとは大人に任せておきなさい」
と、穏やかな紳士が鷹揚な様子で言う。
決して威圧的だったり声高だったりするわけではないのに、どことなく頼もしい。
そんなところは錆兎に似ている気がした。
実際色々が準備万端で、実は昨日のうちに義勇の親にはすでに義勇を保護していること、遅いから泊めることを電話で伝えたうえで、今日すこし話をしたいのでとアポイントをとってあるとのことである。
それと並行して知人の医者にアポイントをとって怪我を診て診断書を書いて欲しいこと、さらに知人の探偵に義勇の家の身辺についての調査依頼をしていたというから驚きだ。
何もかもが全て整えられていて、義勇が何か怯えたり心配したりする事は何もないのだと、錆兎から説明を受けて、正直この人達はいったい何者なんだろうと思った。
義勇1人のためにいつのまにか完璧に整えられていた保護体制。
おとぎの国には王子様だけではなく、王様までいて、みんなで義勇を守ってくれるらしい。
こうして昨日飛び出した義勇の自宅に到着。
呼び鈴を鳴らすとまずアオイが飛び出て来て、泣きながら義勇に抱きついてくる。
それにわずかに遅れて出てくる母親。
耀哉に礼を言いつつ、リビングへと案内した。
義勇も一緒に行こうとしたが、母にアオイと一緒に自室にいるように言われたので、それに従う。
自分について自分がいないところで話し合われる事に不安がないわけではなかったが、錆兎が居れば大丈夫という思いと、何より普段気の強い妹がずっと泣きながら離れないのに心が痛んだので、アオイと手を繋いで自室へと戻った。
「…心配かけてごめん……」
と、アオイと並んでベッドに腰をかけると、まず謝る。
兄妹喧嘩をした時も、互いに何かスレ違いがあった時も、いつでもまず謝るのは義勇だった。
アオイは素直に謝るのが苦手で、そう言えばあまり直接的に謝って来た事はない。
それでも口で言えない分、何かしら行動で埋め合わせをしてくれるので、2人の間ではあまりそれで揉めたことはないのだが、今回は違った。
「…ごめん……ごめんなさい。
私が悪いの…」
と、泣きながら首を横に振る妹。
そもそもこんな風にアオイが感情的に泣くのも珍しい事だ。
だからちょっと驚いて、でもいつも一緒の双子の片割れがいきなり一晩帰って来なかった事はそれだけ彼女のショックを与えたのだろうと、義勇は申し訳なく思う。
「いや…女の子の格好に関しては俺も楽しんでたから…」
と、だからきっかけを作ったアオイのせいではないと言うつもりだったのだが、アオイは首をまた横に振って言った。
「違う…違うの。
パパがね、キレた一番の理由はその服なの」
「へ?これ?」
義勇は改めて自分の服に視線を落とした。
そして次のアオイの言葉で納得する。
──その服ね、亡くなったお祖母様の服だったのよ
なるほど、それでか。
大切な人の遺品を勝手に、しかもおそらく父はふざけてだと思っている女装に使われたら、怒るだろう。
そう納得しかけたのだが、話はそう単純なものではなかったらしい。
義勇が出ていったあと、母は大変だったそうだ。
アオイの目から見ると、父は怒っていると言うより錯乱していると言った方が良いレベルで、結局母が宥めて宥めて、最後には何か薬を飲ませて寝かせたようだった。
その様子をドアの影からおそるおそる覗いていたアオイに気づくと、母はため息交じりに言ったのだ。
──あの衣装ケースを開けてしまったのね…
と。
そこで母は父が寝ついたのを確認後、アオイを伴ってリビングへ。
「紅茶を一杯淹れて頂戴…」
と、疲れたようにソファに身を投げ出した。
アオイは料理は出来なくとも、紅茶を淹れるくらいは出来る。
しかしそれは飲んで差し支えのないという程度のモノで、母や義勇のように美味しく淹れられるわけではないので、母はいつもならまずアオイに紅茶を淹れるようには頼まない。
義勇に頼むか、義勇が居ない場合は自分で淹れるかだ。
そんな紅茶にはこだわりのある母が自分にそれを頼むくらいには、疲れているらしい。
アオイは黙って紅茶を淹れてきたのだが、礼を言ってそれを受け取った母は、そんな時でも一口飲んで微妙な顔をして、二口目は口にしなかった。
父に毛嫌いされる義勇は可哀想だが、いつでも口では文句は言わないが黙って態度で母にダメ出しをされる自分も大概可哀想なんじゃないかとアオイは思う。
まあ、今はそれを口にして良い時ではない気がするので、言わないが…。
本当に…アオイは母が苦手だった。
物腰が柔らかくて趣味も外見も女性らしくて、不満があっても直接的に嫌な事を言ったりはしないが、言われないだけにこちらも言い返せない。
いっそのこと父のようにキレてくれた方がこちらも怒鳴り返せるだけ楽だと思う。
母といるといつも自分が女失格の烙印を押され続けているようで、気が滅入るのだ。
だから最初は
「親子でもどうしても受け入れられないってあるのよねぇ…」
と言う母の言葉は自分と母の事だと思ったのだが、続く
「義勇が産まれた時から不穏だったけど…育つにつれてどんどん悪化してきてるのよね…」
とため息交じりに続いた言葉で、それが今回の諸々についてのことなのだと悟った。
「そのことなんだけど…パパは何故あんなに義勇を嫌うの?
それにさっきの服の事、あれはなに?」
グダグダと愚痴に付き合うつもりはない。
端的に気になる事を聞いてくるアオイに母が、なんて情緒のない…と言わんばかりの視線を送って来たがスルー。
そういうものが欲しいなら義勇に求めて欲しい。
自分には無理だ。
「理由がわからないとトラブルも避けようがないわ」
と、さらに促すと、母の方が諦めてくれたようだ。
「そうね…あなた達ももう自分で色々考えて行動して良い歳だものね」
と言うので、
「まったくもってその通りよ。
だから包み隠さず教えてちょうだい」
と頷いたら、すごく嫌な顔をされた。
──義勇はね、お祖母様に似すぎてるのよ……
母はそう言って語り始めた話は、確かになかなかヘビーなものだった。
父の母、つまりアオイ達の祖母は父が子どもの頃に亡くなったと聞いていたが、正確には父の9歳の誕生日に亡くなったらしい。
元々は良家の子女で、18歳の誕生日にいわゆる政略結婚で親子ほども年の離れた祖父に嫁がされたのだそうだ。
世間知らずの箱入り娘だった祖母には秘かに恋慕う相手がいたらしいが、親からは
──10年我慢しなさい。10年も連れ添えば、きっと先様に愛情が沸いてくる
と、言われ、嫁いで1年目に父を出産。
その後なにごともなく、夫には尽くし、子どもにも優しく、平穏に暮らしているように見えたが、結婚10年目。
父の9歳の誕生日の日。
学校を終えて帰宅した父が誕生祝いが用意されている広間に駆けこんだ時、祖父が笑顔で迎えてくれたその後方、バルコニーにいた母は言った。
──10年です…
と。
当然父にも祖父にもその言葉の意味は分からなかった。
すると祖母は
「昔…結婚時に両親に言われました。10年は我慢しなさいと。
10年我慢しました。
だから…もう私は自由になります」
そう言ってバルコニーの柵から身を躍らせた。
即死だった。
そう、9歳の誕生日に目の前で母親に死なれたのである。
どこか儚げで少女のようだった美しい母。
いつもいつも優しくて愛されていると思っていた。
それがただ我慢して期限を待っていたのだ。
自分に優しくしていたのも我慢してだったのだ…。
ただ死なれただけでも衝撃的なのだが、その日、その理由は幼い子どもに深い傷を残すには十分すぎた。
その後カウンセリングを受けたり、精神科の治療も受けたりしたが、トラウマは消えることなく、父は結局、実家を捨てて海を渡ってこの国に来て、母と出会って結婚したらしい。
祖父とは違う国で、財産も何もない身一つの状態で結婚する。
自分の父親と同じ轍は踏むまい。
万全を期しての結婚のはずだった。
妻は普通に自分を愛してくれている。
普通に会社勤めをし、小さいながらも家も買った。
全ては順調だった。
そうして産まれる待望の子ども。
双子だと言う事も自分との違いにホッとした。
ところが…産まれた子ども達を見て血の気がひいた。
正確には子ども達のうちの片割れである。
透けるように白い肌に澄んだ泉のようにきれいな青い瞳。
そして全体的にどこか儚げな優しい顔立ち。
それは亡き母に似ている気がした。
いや、似ているどころではない。
生き写しだ
それでもまだ男だから…男の子だから…と、それがギリギリのバリケードだった。
見るのが辛い。
でも自分でせっかく切望した家庭を壊す事はしたくない。
だから母の面影を見ないように、男らしくハキハキとした子に育って欲しかった。
なのに容姿も性格も、成長すればするほどそっくりになっていく。
そんな綱渡りのような精神状態の中、昨夜の出来事が起こったのだ。
それは実父が亡くなった時、資産はそのまま相続を放棄して親族が継いだが、実家にしまわれていた実母の服をその親族はご丁寧に遺品だから欲しいだろうと送ってくれてしまったのだ。
もちろんそれを見たくはないが、どうしてか捨てる気にもならず、送られてきた衣装箱に入れたまま、倉庫に入れておいたのが間違いだったのだろう。
珍しく早く帰れた日、ご機嫌で愛娘に土産をと部屋を訪ねたら、そこに亡き母がいたのだからパニックだ。
何故?どうして?!!
心が壊れていく音がする。
それが実は何故か亡き母の服を身につけた息子だとわかった時、もうダメだと思った。
この息子がいる限り、自分は母の亡霊から逃れられない。
──…そんな風に思っちゃったみたいなのよね……
と、母は心底疲れたようにそう締めくくった。
「どうしたらいいと思う?」
と、言われても、アオイだって寝耳に水の話に呆然だ。
「わかんないわよ、そんなの」
とは答えたものの、今のままではまずいということだけはわかる。
本当は義勇が祖母とかけ離れた性格になっていってくれるのが一番平和なのかもしれないが、それでも容姿が劇的に変わらない以上、父は彼に祖母の面影を見て荒れるのだろう。
正直、長年父と連れ添った母ですらどう対処して良いかわからないものを、自分がわかるはずはないとアオイは思った。
…と、それがアオイから聞いた事情の全てである。
アオイは話し終わった後、困ったような不安げな顔をしているが、義勇は逆にそれを聞いてホッとした。
自分が何かしてしまったわけではない。
自分の好きな生き方が否定されたわけでもない。
義勇がこういう容姿でこういう性格であるということが、単に父親側のトラウマに触れてしまうというだけだった。
そう、どうしようもないことだったのだ。
その事実は、常に自分が悪いのではと思い続けていた義勇の心を随分と楽にした。
そして結論についても…。
単に自分の事を見るのが嫌という事なら、自分の方が出ていけば良い。
元々そのつもりで来たのだが、父の側に引きとめる理由がないなら、錆兎やその叔父がしてくれようとしている交渉は随分と簡単になるのではないだろうか…。
法的に言えばまだ未成年なので、そのあたり、どうやっても親の許可が必要な事を思うと、良い情報と言っても良いくらいだ。
これで自分も救われるし、視界にいれるたびトラウマを掘り起こされる子どもを持ってしまった父も救われるのではないだろうか。
2人の人間が救われる…それはとてもめでたいことに思えた。
しかし実際はそんな簡単な事ではなかったらしい。
それは随分とあと、正式に籍をいれるくらいまでは義勇には知らされなかったが、義勇が別に暮らすことには父は反対だったようだ。
母はそれを見越して父を出かけさせて同席させず、事情と父が反対するであろう事を話して、親としては自分が許可するからと、とりあえず説得は先送りにして義勇を錆兎に託してくれたのである。
もちろん最終的に説得はしなければならないので、耀哉は母に診断書の写しを渡して、状況によっては虐待になること、そうなれば義勇だけではなくアオイにとっても良くない影響が出る可能性もあることなど、色々説得する材料になりそうな情報を提示して、学校の諸手続きだけ頼んで戻って来たらしい。
そんな諸々を皆義勇には言わなかった。
ただどこか怒ったような泣きそうなような、そんな顔をした錆兎が部屋に迎えに来て、珍しくひどく心細げで不安げなアオイを残して、すでに母が荷造りしておいてくれたらしい荷物を車に積んでもらって、そのまま早々に家を跡にした事は記憶している。
とにかく全てにおいて耀哉や錆兎はまいってしまっている義勇の負担にならないようにと、色々心を砕いてくれていたようだ。
自宅からの帰り道、耀哉が
「そうだ!せっかくお姫様が我が家の子になったわけだから、可愛い服を買い込もう!
殺風景な男所帯が一気に華やかになるような可愛い服をたくさんね」
と、思いついたように言うと、車を街中の方へと走らせて、休日のデパートへと駆け込んだ。
そこからはまるで毎日がお出かけか?と思うような可愛い服をめいっぱい買い込む。
店の人間には男所帯に紅一点の娘と思われたらしく、耀哉はお父様、錆兎はお兄様と呼ばれていたが、2人とも敢えて否定をしないので、義勇も黙っていた。
そうして耀哉と錆兎が両手いっぱいの袋を持って、店内のカフェでお茶。
「妻は欲しいと思った事はなかったが、甘やかさせてくれる娘はいたら楽しいね」
と、耀哉が笑って、みんなで食べよう!と、パフェ全種類を注文する。
そうして注文しておきながら、テーブルにところ狭しと並べられたそれを、まずは好きなだけ食べなさいと義勇に食べさせてくれた。
錆兎と違って耀哉自身は甘い物も嫌いじゃないようで一緒に食べていたが、甘い物がどうやら苦手らしい錆兎はそれを蒼褪めた顔で見ていて、耀哉はそんな錆兎に
「お前達はつきあってくれないし…中年のオジさん1人でこういうカフェは辛いからね。
本当に良い子を連れて来てくれたよ。
今度はお姫様とスイパラに行こう!」
と、笑って言った。
そうして錆兎の家に戻ると、炭治郎が美味しい夕食を用意して待っていてくれる。
「今日はデザートも作ってみたのだが…良ければ食べて欲しい」
と、少し照れくさそうに言いつつ、料理を並べる炭治郎。
エプロン姿でいそいそと可愛らしいデザートの数々を出してくる様子がなんだか可愛い。
食後は耀哉がフルート、錆兎がバイオリンを披露してくれて、義勇もピアノなら弾けるので申し出て、3人で演奏した。
3人3様に義勇を気遣ってくれるおとぎの国の住人達。
父親に受け入れられない、姿を見たくないと言われた義勇を気の毒に思ってのことかもしれないが、実は義勇自身はその事についてはそれほどショックは受けなかったように思う。
現金なようだが、嫌いなら嫌いで構わない。
嫌な顔をされながら顔を合わせないとならなかった事を考えると、こうやって笑顔を向けてくれる人達の中で暮らせるのは幸せだ。
もちろん人間の子どもは1人では生きていけないので、嫌っていようと今までちゃんと生きていけるだけの衣食住を与えてくれた事は、父に感謝はしている。
ただ、その相手が絶対に父が良いと言うだけの思い入れが父親に対してなかっただけだ。
血がつながっている相手でなければ絶対に嫌だと言うには、おそらく自分と父は気が合わなすぎたのだと、義勇は思った。
実際は…父親側は嫌いだから見たくない、そんな単純な感情ではなく、色々拗れていたのだが、それは義勇には伝えられなかったので、この時の彼は知る由もなかったのだが…
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