はあぁぁ~~……
朝から盛大にため息をついている鱗滝課長補佐…。
どんなに大変な時にもきびきびと仕事をこなす彼のそんな姿に、フロア内がざわめいた。
すわよほどやばい事態が発生したのか?!
と、皆気になるものの、それを本人に訊ねる事ができる勇者はない。
気になる…だが、知るのが怖い……そんな中で特攻隊員として選出されたのは、公私共に彼と親しいと言われる宇髄課長である。
こういう時になまじ空気を読めてしまう自分が口惜しい。
そんな事を思いながら
「錆兎…?…どうしたよ?」
と、おそるおそるデスクの隣に立って声をかければ、端正な顔に女性陣なら叫びだしそうな憂いに満ちた表情を乗せて宇髄を見あげた錆兎の口から出た言葉は、
「あぁ、宇髄か…。実はお姫さんが……」
で、宇髄は一番大事な事は察した。
そしてクルリとフロアの中央の方を振り返ると部長に向かって
「大丈夫。プライベートです」
と、一言。
はあぁぁあああ~~~~
…と、それで皆安堵のため息をつき、各自仕事に戻った。
そんな周りを見て宇髄も仕事に戻ることにする。
ただ、その前に一言、
「昼にでも話を聞かせろよ?」
と、フォローを入れるのは忘れずに。
今ため息をついている理由が仕事の事でないにしても、彼は何かあればこれだけの人間が恐れを成す程度には、仕事に影響をされると終わる優秀な人材なのだ。
仕事では正直敵う気がしない。
だが、そんな彼のフォローは間違いなく直属の上司である自分の仕事だろう。
(まあ…仕事の事でなければ、亀の甲より年の功って言うしな…)
と、心の中で呟いて、宇髄も今度こそ自分の仕事に戻って行った。
そして待ちに待った昼休み!
ため息をつきながらも仕事には影響させる事はなく淡々とこなす部下を、今日は珍しく昼のチャイムと共に宇髄が食事へと促した。
どこか物憂げな様子の課長補佐に、女子社員達の視線が熱い。
イケメンは悩んでいてもイケメンってことだよな…などと感心しつつ、宇髄は秘かに自分が女性ではなくて良かったと思う。
自身も大変顔の宜しい男なのでセットで愛でられているが、もしこれが女性なら視線を送って来ている女性陣に殺されそうだ。
ホッとしつつも、いつものように肉だけ目いっぱいピックアップするが、いつもなら飛んでくる、野菜不足の注意が飛んでこないあたりで、錆兎も大概参っているようだと察する。
それでも彼は相変わらずきっちりと栄養バランスの良い食事をピックアップしていたが、さて、人目を避けてバルコニーにでもと誘導して2人向き合って座っても、心ここにあらずと言った風情で、互いに黙々と食事を済ませた。
そうしてとりあえず栄養の摂取と腹ごなしと言うやらなければならない事を済ませたところで、
「さあて、いったい何があったんだよ?」
と、宇髄は聞く気満々で錆兎に向き合った。
興味津々に身を乗り出しつつ訊ねる宇髄に、いつも自信に満ちあふれて何があっても動じることなく冷静だと思っていた優秀すぎる部下が、なんといきなりまるで思春期の男子学生のように顔を真っ赤に染めて俯いた。
(はぁ?えええ???!!!)
あやうく叫びだしそうになった。
「…お前がそんな顔するとは思わなかったんだけど…
なんでも余裕顔でこなすし…」
と、驚きを口にすれば、錆兎は片手で口元を覆って
「…俺だって色々想定外なんだっ」
と、拗ねたように言う。
こうなるとますます好奇心をそそられる。
「お姫さんて…ユウちゃんの事だよな?
彼女と何かあったのか?」
と、朝の会話を思いだして訊ねてみれば、錆兎は視線だけ宇髄に向けて、思い詰めたような顔で言い放った。
──お姫さんな…婆さんじゃなかった…
「はあ??」
さすがにわけがわからない。
「どういう意味だよ?」
とさらに訊ねれば、錆兎はとうとう両手で顔を覆って、
「ありえないレベルのすごい美少女だった…」
と、声を低くして続けた。
「え?????」
「お姫さん、本当にお姫さんだった。
本当に天使だったっ!!」
「はああぁ???お前、いつのまに会ったんだよ???!!!」
宇髄の驚きももっともだと錆兎も思う。
自分だって驚いたのだ。
でもあれは確かに“お姫さん”だった…
その日は友人のため息から始まった。
一昨年の秋、とても欲しい人材を見つけて内定を出した。
そして猛プッシュをしておいたおかげで、社内では無事、その人材を自分の部署に配属する事を認められて安堵する。
しかし、そこで新たに沸き上がる不安。
早すぎる内定にもし途中で気が変わって辞退してきたらどうしようか…
もうこればかりは仕方ないとやきもきしながら、無事1年半弱経って3月になり、いくらなんでもここに来て内定辞退はないだろうと、今度こそようやくホッとする日々。
今回の新人は自分の手元で育てようと思っているので、入社してしばらくはおそらく落ちつかない日々になるだろうと思う。
だから今のうちにゆっくり飼い犬と遊ぼうと、久々に実家に戻って来た。
錆兎が社会人になって実家を出て1人暮らしを始めてから早7年経つが、時折りこうやって顔を出す事もあり、犬達はきちんと家族だと認識してくれているらしい。
錆兎が門をくぐってドアの前に立っただけで、ドアの向こうから嬉しそうな鳴き声が聞こえて、思わず笑みがもれた。
「ただいま、炭治郎、善逸、伊之助!
元気にしてたか~~!!!」
門を開けて庭に入ると並んでお出迎えをしてくれる犬達の頭を撫でまわしていると、近所のアパートに住んでいる同じ剣道の道場に通う友人が深刻な顔でため息をついて歩いていた。
「妓夫太郎!久しぶりだなっ!元気か?!」
と声をかけてみると、
「お~、錆兎。今日は実家に戻ってたのかぁ」
と、友は少し疲れた笑顔で返してくる。
いつも元気なタイプとは言い難いが、今日はいつもにもまして元気がない。
そこでもしや…と思って
「もしかして…また兄弟のことか?」
と、聞くと苦笑。
そう、妓夫太郎は男性だけの歌劇団として有名なロズプリの名門の家の息子らしい。
しかしその手の芸事でよくあるように、ロズプリも跡取りとして無条件にそれなりの役につけるのは長子のみ。
次男以下はその世界で生きていきたければある程度は自力で役を勝ち取っていかねばならない。
妓夫太郎の家も跡は長子が継ぐことになっていてその下で残ることは大変だし、妓夫太郎は容姿も舞台映えせず芸事に関しても才能がないということが始めからわかっていたので、物心ついた頃にはもう家とは関わりなく生きてきて、家を出されるように高校から一人暮らしをしていた。
そしてその頃に通っていた剣道の道場で錆兎と知り合って、自宅が近く、早朝にランニングしていたコースが一緒だったこともあって親しくなったのである。
早く経済力をつけたいのだ、と、彼は高校を卒業後すぐ就職。
錆兎より少しばかり早く社会人になっていたが、なんとなく気があって、時折食事を共にするくらいの付き合いが続いていた。
そんなずいぶんと大変な身の上な気がするのだが飄々と生きているように見える妓夫太郎が時折悩ましい顔をするのは、実家に残してきた梅という兄弟に関することで何か起こったりした時だ。
──あいつぁ俺と違ってむちゃくちゃ綺麗な奴でなぁ、家業の才能もあるんだよ
と、随分と可愛がっているらしい下の兄弟について嬉しそうに語ったあとには、たいてい
──才能があるから…家業から離れられなくてむちゃくちゃ苦労してんだけどなァ
と、言って顔を曇らせる。
妓夫太郎が実家から経済的に完全に独立をしたいと頑張ったのは、その梅がもし家業がどうしても辛くなったら引き取って面倒をみてやりたいからだというから、どれだけ可愛く思っているかがわかってしまう。
だから今回も梅になにかあったのだろうな…と思いながらも妓夫太郎が苦笑で流す以上、家庭内のことなので深く立ち入るのはためらわれて、代わりに
「なあ、なにか気がかりがあるなら聞くし、言いたくないなら言わないでも良いが、会ったのも久々だし、一緒に昼食がてらトレーニングウェアでも見に行かないか?
連休で様子を見がてら泊まりに来たはいいが父が帰宅するのは夕方以降だし、荷物を置いたら買い物に出ようと思ってたんだ」
と、錆兎は気晴らしにと妓夫太郎を誘った。
そうして妓夫太郎がそれに了承したことで、錆兎は久々に旧友と連れだって街へと繰り出したのである。
実家に居る頃は大学生と社会人と立場は違っても物理的な生活圏の近さもあってなんのかんのでよく連れ立ってでかけたが、錆兎が社会人になって自宅を出てからはぐっとその回数は減っていた。
が、こうして共に出かければ、若い頃からの付き合いということで会社関係の知人と違って気軽で楽しい。
軽くランチを取ったあとは、とりあえず当初の予定通りトレーニングウェアを見に行こうと人で賑わう大通りを歩く。
そんな時ですら2人してトレーニングは忘れないとばかりに胡桃をにぎにぎと握り締めて、
「まずいな、最近デスクワーク多すぎて握力落ちた。
80を切りそうな勢いだ」
「…80あれば十分だと思うぞぉ?」
「いや、学生時代からのライバルとしては妓夫太郎には負けたくないだろう?」
などというような会話を交わす。
そんな少し子どもじみた競争意識を持ったりするのも損得勘定のまったくない学生時代からの友人相手だからだろう。
さらに二人して
「じゃあ84以上を目指してくれぇ」
「げっ!!妓夫太郎そんなにあるのかっ!!!
ゴリラかっ!!!」
などと、他から見たら充分両方とも常人離れしているだろ!と突っ込みが入りそうな会話を繰り広げている。
それでも2人の間ではそんな会話がスタンダードだ。
2人の一番盛り上がる話題はなんと言っても筋トレなのである。
そんな風に筋トレが趣味というだけあって錆兎は体格が良いが、妓夫太郎はひょろりと細い。
男らしく整った容貌の錆兎に対して、お世辞にも美男とは言えない、薄暗い雰囲気のある妓夫太郎。
色々な意味で対象的な、反対の方向に目立つ二人を街を行く人々の何人かが振り返っていくが、二人ともそんな視線をものともせず、目指すは大手スポーツ用品のビル…のはずだった。
が、もうすぐ目的地が見えてくるという時である。
──だれか、たすけてえぇぇーーー!!!
という声。
若干機械的な感じがしなくもない。
録音したデータのようだ…と、錆兎はいたずらの可能性も考えて駆け付けるべきか一瞬悩むが、妓夫太郎の方はほんの少しの迷うそぶりも見せずに走りだしていく。
そうなれば錆兎も当然そのあとを追った。
それは大通りからほんの数メートルの先の出来事だった。
男が4人。
少女が2人。
少女の1人は男の2人に両腕を取られている。
その男の方には妓夫太郎が走っているから、そちらはすぐ救出できるだろう。
そんな状況を目の端に入れながら、錆兎が向かうのはもう一人の少女の方だ。
いや、どちらかと言うと、少女の方に向かいながら、妓夫太郎側の状況確認をしていたというのが正しい。
何故だかはわからない。
でも認識した途端、身体が動いた。
守らなければ……と、瞬時に思ったのは何故だったのか…
キラキラと揺れる漆黒の髪に大きく透き通った青い瞳。
肌は真っ白で頬は薔薇色。
確かに目の覚めるような美少女だ。
だけど、たぶん理由はそれじゃない。
どうやら連れの少女に手をあげようとしていた男の腕を必死に止めている。
1人でなら逃げられるかもしれない。
なのに、自分だって怖いだろうに、どうやっても力では敵わなさそうな男の腕にぶら下がるようにして、必死に止めているのだ。
男は少女を引きはがそうとして腕を振り回し、少女は暴風に吹かれる柳の枝のように揺れる。
それに向かって錆兎は走った。
そうして間一髪、振りほどかれて倒れかかる少女を支えて受け止める。
ふわりと香る甘い花の香り。
腕の中でぐったりしている少女の様子に怒りが沸き起こった。
──貴様ら、何しているんだ…
強い感情の昂りに目の前が真っ赤に燃える。
何故そこまで怒りに駆られるのかはわからないが、容赦する気なんて欠片も起きなかった。
感情に流されるなんて愚かな事だと常々自制して、磨きに磨いている理性が音をたてて崩れていき、中から御しきれない獣のような凶暴性が顔を覗かせる。
もう一人の少女の方は無事妓夫太郎が救出したらしい。
というか、どうやら知り合いのようだ。
かろうじてそんな状況を感じとる。
だが、脳内は怒りに支配されすぎていて、ただ目の前の敵を倒す以外のことを考えられない。
まずい…まずい…まずい…
下手に感情のまま動けば相手に怪我をさせて過剰防衛だ。
と、脳内で警報がなる。
なのにおさまらない怒りの感情…。
だが、その強い本能じみた思いは、妓夫太郎に言われて自分の方に逃げて来た少女がもう一人の少女にかけた言葉で霧散するのである。
そう、──ユウちゃん、大丈夫だった?…のたった一言で……
──え…?……ユウ…ちゃん?
それはおそらく一瞬にして…しかし錆兎の体感的には長い時間だった。
思わず腕の中の少女を覗き込んで…そして確認をする。
──さらさらの漆黒の髪に夢見るような青い瞳。
キャラがイコール、リアルなわけはない。
それはネットゲームにおける不文律である。
──真っ白な肌に桜色の唇。
ネット上では可愛い女の子だとしても、中の人はオッサンなんて事はままあることだ。
──細く華奢な手足。
だから、ネット上のキャラに恋をするなんて馬鹿げている…でも……
(…お姫さ…ん??)
あまりに似ていた。
容姿だけじゃない。
自分の身の方も危険なのに敵わない相手から友人を助けようとする、悪気なく危なっかしいところも……
──俺が来なかったら、どうしてたんだ!危ないことをしているんじゃないっ!!
…と、ネット内だったら言っていたところだ。
だって他の奴なんてどうでも良いのだ。ユウさえ無事ならば……
それでも律義に助けようとしてしまうところが、錆兎の大切なお姫さまなのだが……
似すぎていて混乱する。
…が、こんなところで、ユウに出会うなんて偶然あるわけがない…。
と、無理矢理そう納得して、錆兎はとりあえず、事態を打開すべく動くことにした。
すみやかに邪魔者を排除して、“ユウ”に確認を取るために……
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