呼吸をしても心臓が鼓動をうっても、それは単なる肉体の動きでしかない。
そこでなにをされようと、たとえ生命活動を停止させられるような事が起ころうと、もう死んでしまった冨岡義勇という人間の心とはなんら関係のないことなのだ…。
そう思えば全て乗り切れる気がした…。
自分はもう死んだんだ…生きてない…何も感じない……
痛む心は水の中に沈めてしまおう…
そうして何もかもが水の壁一枚挟んだ遠い世界の出来事で…なのに涙だけは零れ出る。
実は誰にも望まれず…むしろ疎まれるだけだった冨岡義勇という少年を他人事のように憐れむように…
姉のように汚され尽くして死んでもきっと心を痛めたりする相手はいないのだから、義勇の欠片だった自分自身くらいは、少しは哀れんでやらないと、あまりに惨めすぎる…
そう思って少しだけその死を惜しんで、意識は静かに水の中に沈んで行く…そんなはずだった…
…が……その時……
バリバリッとものすごい音がしてドアが文字通り破られた。
そのままガン!!!と、蝶つがいが取れたドアが横に放り出される。
…さび…と…
この世に魔王というモノがいるなら、まさに今ドアがあった場所に立っている男だろう。
そんな世にも恐ろしい形相で殺気を振りまく錆兎を認識した瞬間、身体の上の男が声もなく吹っ飛んだ。
本当に宙を飛んで、壁に叩きつけられている。
「義勇…義勇、来るのが遅れてすまなかった。大丈夫か?」
ふわりと錆兎の匂いのする上着に包まれて、まるで現実感のないまま錆兎の腕の中に抱き寄せられる。
強烈な光を浴びて、ブク、ブク、ブク…と、静かに水の中に沈みつつあった意識が引きずられそうになる。
いやだ…もう、つらいのは嫌なんだ…
水の中に意識を沈めてしまえば、そこは冷たく悲しいけど、痛くない…つらくない…
なのに錆兎は水の中にいる義勇の心に手を伸ばして、
──義勇、俺はここにいる。わかるな?──と、その緩やかで平和な悲しみの底から義勇を引きずり出そうとしてくるのだ。
冷え切った義勇の頬に触れる錆兎の頬の温かさが、水の中の冷たさを実感させてしまう。
本当は温かな中に居たいのだということを思い出させてしまう。
──大丈夫だ。お前はお前らしくあっていい。俺がいるから…
と、髪を撫でる手に、髪と一緒に心が絡み取られてしまった。
──辛かったな…義勇…
抱きしめてくれる腕が温かくて、涙が止まらない。
…みんな俺なんて要らない…みんな俺がいないほうが良いんだ…
…消えたい…このまま自分が消えた方が幸せになれる人がきっと大勢いる…
なのに大勢の人間を不幸にしてまで自分が存在する意義がどこにあるんだ…
と、そう泣きながら訴えれば、
──それならお前の人生はまるごと俺がもらってやる…これからお前の人生は俺のものだから不幸になんてなれると思うな、俺はお前を幸せにするつもりだからな!
などというのだ。
錆兎…錆兎…錆兎……
義勇は錆兎にしがみついて泣いた。
ここが唯一自分が生きていていい場所だと言わんばかりに…。
その後…警察が来ても錆兎は一貫して義勇を守ってくれた。
常に他の人間と義勇の間に立ち、言うべきことは錆兎が伝えてくれる。
当事者は義勇だと言うのに、義勇がやったことと言えば錆兎に確認されたことを錆兎に伝える、それだけだ。
姉の時にあれ程震えながら通訳を介してだが自分自身で心の痛みをえぐられながら事情を説明していたのが嘘のようだ。
そうして事情を話し終わったあと、今度は錆兎に連れられて錆兎の家に行くことになった。
すごく立派な日本家屋で、その門構えだけでも萎縮してしまう義勇に、錆兎は苦笑しながら
「今、家に誰もいないから気を使うことはないぞ。楽にしろ」
と、当たり前に厳重そうなセキュリティを経て、中に入っていく。
家の中も随分と立派で、錆兎の上着を羽織らせてもらってはいるものの、義勇の服は前が破かれてしまっていたので、錆兎がすぐ湯を張ってくれた風呂にいれてもらったのだが、それも檜風呂で、まるで旅館の風呂のようだと感心してしまった。
浴槽は檜のいい匂いがして、洗い場のところにある石鹸は清潔感のある錆兎の匂い。
それで洗えば錆兎と同じ匂いがするのか…と思うと、自分でも変態じみているとは思うのだが、なんとなく嬉しい。
そうしてゆっくりと湯船にも浸からせてもらって風呂を出ると、おそらく錆兎のものなのだろう。
パジャマと、それは帰る途中にコンビニに寄って買った新品の下着が置いてある。
下着はとにかくとして、パジャマは実際に着てみると結構大きくて、なんだか改めて体格差を感じてしまった。
石鹸とシャンプーとパジャマ…と、錆兎の香り3点セットに包まれた時点で、本当に単純なのだがどこか安心して眠くなってきた。
風呂から上がって広い居間に案内されて、勧められるまま座椅子に座って用意された冷たい麦茶を飲んでいると、後ろから新しいタオルを手に錆兎が丁寧に洗って濡れた義勇の髪を拭いてくれる。
なんだか蔦子姉さんがいた頃みたいで懐かしさと安堵で、ますます眠くなってしまった。
そんな義勇に錆兎は
「今日はどうする?客間に布団敷くか?
俺の部屋の方が落ち着くようなら俺の部屋で一緒に寝てもいいけど…」
と聞いてくるので、そこは間髪入れずに
「錆兎と一緒がいい」
と主張しておく。
それが許される間は可能な限り一緒に居たい…。
そこで錆兎が今度は自分の部屋に連れて行ってくれる。
なんと今どき珍しい純和室。
押し入れから布団を出して敷くと、綺麗にピシッとシーツをかぶせる。
枕だけは別室から持ってきて、それにもカバーをかけると出来上がり。
「じゃ、俺もあとで寝るけど、その前に色々と話をしておかないとならないし父の帰りを待つから義勇は先寝てていいぞ」
そう言って机の方に向かいかける錆兎のシャツの裾を義勇は思わず掴んだ。
錆兎はそれに少し驚いたように目をして、すぐ苦笑してその場に膝をつく。
「添い寝してやるから、良い子で寝ろ」
と、口に出さない義勇の気持ちを正確に読み取って、錆兎はそう言うと布団をめくって義勇を寝かせてまた掛け布団をかけると、自分は布団に入らずにその隣に横たわった。
そして布団の上からぽん、ぽんと軽く叩くリズムが疲れ切った義勇の眠気を誘う。
全身錆兎の香りに包まれながら、義勇はいつのまにか心地よい眠りに落ちていった。
翌朝…目を覚ますと錆兎が隣にいなかった。
正確には広い部屋の中で素振りをしている。
…錆兎…カッコいい…
ジャージの上下というラフな格好ではあるが、竹刀を握って一心にそれを振り下ろしているその姿は服装など気にならないほど凛々しくて、思わず見とれてしまう。
布団に横たわったままそんな錆兎を眺めていると、視線に気づいたのだろう。
「おはよう、義勇。着替えは枕元な。
あと、それ、そろそろいいか?」」
と、竹刀を振るう手を止めて歩み寄ってくる錆兎が指差したのは義勇の手の中。
何故かしっかりと握っているサビトの寝間着。
え?何故??と目をぱちくりしている義勇の様子がおかしかったのか、錆兎は
「それな。俺が起きようとしても義勇が離さないからそのまま脱いで握らせておいた」
と、笑う。
うあ~~!!
さすがに恥ずかしくて
「ごめんっ!」
と、ぱっとそれを手から放すと、錆兎は布団の横に膝をついてそれを拾いがてら、
「いや、可愛かったから別にいい」
などとニコリと微笑む。
うあ~うあ~うあ~と、思わず布団をひっかぶる義勇に、錆兎は布団の上から頭の辺りをポンポンと軽く叩いて
「じゃあ俺は風呂で軽く汗を流してくるから、義勇も着替えておけよ」
と言って、離れていった。
その後の朝食はなんと錆兎の父が同席していて、義勇は最初はびっくりして固まったが、その男性は義勇のことをまるで旧知の親戚の子どもででもあるかのように接してくれて、そのせいだろうか…どこか懐かしさすら感じてしまった。
穏やかなのにどこか一本筋が通ったような男性で、この人に育てられたら錆兎みたいな立派な男に育つのか…としみじみ思う。
普段は誰よりも大人で頼りがいのある男の錆兎が、この人の前だと年相応の高校生の息子に見えるのもすごいと思った。
「事情は錆兎から聞いた。
編入試験に関しては錆兎が受かると判断したなら受かるだろう。
結果が出て手続きその他が終わって入寮出来るまで、学校に連絡を取って錆兎もこの家から通わせることにするから、この家にいなさい。
君の両親には私から事情を説明しよう」
と、錆兎と同様、義勇の事を気にかけてくれる。
普段は仕事が忙しくて帰らないらしいが、今回は誘拐事件のこともあり、また、錆兎から義勇についての事情を聞くために帰ってきてくれたらしい。
こうして今度は義勇のマンションから義勇の着替えやPCを運び出して、鱗滝家で過ごすことになった。
昨夜は絶賛取調べ中だったのでログインできなかった旨は、錆兎がタンジロウに連絡しておいてくれたらしい。
その夜ログインすると、二人からはいたわりの言葉をもらって、しかし第二のイヴが出る前に魔王を倒そうと、怒涛のレベル上げが始まった。
そうして0時、疲れ切ってログアウトする。
そして錆兎が敷いてくれた布団の上…昨日は疲れすぎて眠ってしまったが、義勇は今日いっぱいずっと考えていた事を錆兎に伝えることにした。
一日中、絶対に伝えようと思っていたことだ。
戸締まりを確認してくる…と言って部屋を出ていった錆兎を布団の上で正座をして待っていると、部屋に戻ってきた錆兎は
──義勇?何をしているんだ?寝るぞ?
と、頭の方向の床におかれた淡い光を放つ間接照明だけを付けて部屋の明かりを消した。
錆兎はいったん寝ると朝まで起きないので普段は使わないこの間接照明は、慣れない家で不安もあるだろうと義勇のために別の部屋から持ってきてくれたものだ。
こうして薄暗くなった部屋で隣に錆兎が来てもなお正座を崩さない義勇に、
「義勇?どうした?」
と、錆兎は義勇の隣にあぐらをかくと、不思議そうに義勇に視線を向ける。
「あの…」
「うん?」
さすがになんと切り出したらいいのかわからない…。
でも義勇には絶対に必要で重要なことだった。
正座した膝の上に握りしめた手を置き、ぎゅっと目を瞑っていると、錆兎の方から近づいてきてくれる。
「どうした?義勇。
言いたいことがあるなら、なんでも言え」
と、肩に温かい手がおかれたところで、何かが決壊して、ぽろりぽろりと涙が溢れ出た。
「義勇?!」
と、ほんの少しだけ驚いた錆兎の声。
さらに驚かせるであろうことはわかっていたが、黙っていることは出来ず、義勇の口から言葉がこぼれ落ちた。
「…嫌じゃなければ……抱いて欲しい……」
言った瞬間に、今度こそ思い切り驚いたように錆兎が固まった。
拒絶もしなければ肯定もしない。
それは錆兎の優しさなのだろうと思ったら、そんなことでひどく気を使わせている事が惨めで辛くなってきた。
だから慌てて離れようとしたのだが、錆兎に腕を取られて引き寄せられると、そのままぽすんと錆兎の腕の中に閉じ込められる。
「…義勇…お前にとって辛いことかもしれない事を聞くが……」
と、どこか怒ったような声で言う錆兎に、義勇は身を固くした。
もしかして…軽蔑されたのか?
そう思うと震えが止まらない。
怖くて怖くて逃げようと身をよじるが、抱きしめる錆兎の力が強くて抜け出せなかった。
「…逃げるな。大丈夫…俺はお前に何があろうと受け止める覚悟がある。
お前が何か重いものを抱えているなら、俺が引き受けてやるから寄越せ」
背と頭の後ろに回った手に力がこもる。
「お前がいきなりそんな事を言い出したのは…もしかして俺が助けに行くのが遅すぎたから…か?」
錆兎は少し身体を離して義勇の顔を覗き込むようにそう言った。
「遅すぎ…?」
「…つまり…その……シャツは破かれていたが他の着衣の乱れはなかったから、それ以上のことはないと思ったんだが……その前に不埒な事をされていたとか……」
錆兎にしては珍しく視線をそむけて眉を寄せると、言いにくそうに口ごもる。
「されたことは、錆兎が見たとおりのことだ。
シャツを破かれてベッドに押し倒されただけだが…」
「そうか…」
義勇の答えに錆兎は心底安堵したように息を吐き出して、
「じゃあ、何故いきなり?」
と、聞いてくる。
「…昔から…電車とかで触られたりすることはよくあったんだ……
それでもそれがどういうことかとか具体的にあまり考えてなくて…放っておけば駅についたし……
でも…今回、はっきりそういうことをするって言われて…その時は自棄になってたからやっぱり考えてなかったんだけど…あとになってから怖くなった……
そういうことってやっぱり好きな相手とすることなんだろうから…もし今回みたいなことがあって、好きでもない相手にされたら、一生、初めての相手は好きな相手じゃなくなるんだなって…。
それは死ぬまで…死んでも消えないんだなって思ったら、できる機会があってしてないと後悔するんじゃないかって……」
本当に今更ながらだが、あそこで錆兎が助けに来てくれなかったらと思うとゾッとする。
「…たぶん…そんなことになってたら…今、死にたくなってると思う……
錆兎には迷惑かもしれないけど…俺はっ…初めては全部…錆兎がいい……」
ここで泣くのはずるい。
本当に錆兎が困るだろう…
そう思うのに涙が止まらない。
「…義勇……」
義勇が泣くからまた錆兎がぎゅっと抱き寄せてくれる。
「迷惑ならっ…最初の一度だけでいいからっ……」
と、もう本泣きになって言うと
「違う。迷惑なわけじゃない」
と、頭の上から困惑したような声が降ってきた。
「迷惑じゃない。抱きたい……でもダメだ…」
と、ぎゅうっと頭を胸元に抱え込まれる。
「なんで?」
「俺がまだ社会的に子どもで未熟者だからだ…」
「………」
「日本では18になるまでは法的には親の庇護下にあるとみなされるし、実際にそうだ。
法的にもまだ認められず、物理的にも自分でちゃんと責任をもってやれない…そんな状態なのにいい加減なことをするのはダメだ。
大切な相手に対する態度じゃない」
「でも…じゃあ何かあったら…」
「………」
「何かあったら?!」
泣きながら見上げると、眉根を寄せて苦しそうな顔の錆兎と視線が合う。
困らせている…と思うものの、譲りたくない…譲れない。
迷惑ではない…その言葉に後押しをされるようにポロポロと泣きながらもさらに言い募ると、錆兎の目が揺れる。
初めて見る迷う錆兎の顔。
少し辛そうに眉根を寄せ、そしてぎゅっと目を瞑る。
そんな表情もなおカッコいい…と、義勇は見惚れた。
──責任なんて…取らなくていい…
──ダメだ
──未来が来る前に、現在が終わることだってある…
──…っ…!…
錆兎が息を飲む。
そして詰めていた息を吐き出した。
──…触れる…までな…
──…え…?
「最後までは…ダメだ。それはちゃんと18になってから。
表面的に触れられる部位に触れるまでだ。いいな?」
と、それに返事をする間もなく、布団に押し倒された。
──俺だって余裕なんてない…優しくなんてしてやれないかもしれないぞ?
と、上から見下ろす顔は怒っているような、あるいは何かに耐えるような、そんな表情をしている。
それでも怖いとは思わなかった。
──それでも、いい。錆兎がしてくれることなら…触れてくれるならなんでもいい
義勇がそう言うと、
──義勇…お前ほんとうにそういうとこだぞ…
と、はぁ、と、ため息をつき、片手で義勇の頬にそっと触れ
──なるべく優しく触れる努力はする…
と、困ったように微笑んだ。
──義勇、起きろ。朝飯できているから、着替えて顔洗え!
額に降ってくる軽い口づけ。
それは義勇が以前寝ぼけて亡くなった姉と間違ってねだった時から何故か毎日続いている習慣だ。
いつもならのんびりと布団のぬくもりを惜しみながら起きるところだが、今日は思わず飛び起きた。
あまりにいつもと同じ朝。
あまりにいつもと同じ錆兎。
そう思ったが、部屋を出ていく後ろ姿をよくよく見ると、耳が赤い気がする。
それになんだか嬉しくなって義勇は小さく笑いをこぼす。
優しくなんて出来ないと散々言ったくせに、昨夜は錆兎の手も唇も…何もかもがありえないほどの優しさで義勇に触れていた。
まるで大切な壊れ物でも扱うように…
体中をそっと確認するように触れられるのはとても心地よくて、最後に錆兎の手で二人してのぼりつめて終わったのだが、はて…と、そこで義勇は不思議に思う。
錆兎の言う最後まで…というのはなんだったのだろう?
これ以上の先が何かあるのだろうか?
こてん…と首をかたむけてしばし考え込んで、でもまあいいか…と思い直す。
18になるまでは…と錆兎がいったということは、18歳になったら嫌でもわかるのだろうから。
とりあえずまずは朝食だ。
そして錆兎と少しでも長い時間を共に過ごせるよう、編入試験にうかるために勉強をしなければならない。
義勇は服を着替えると布団を畳んで押し入れにしまい、急いで錆兎の待つ居間へと足を運ぶべく寝室をあとにした。
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