複数の鬼の気配がしない。
するのは巨大な鬼一体の気配だけだ。
実際目の前にしてさえ、それがまるで別の個体の気配として感じられないのだ。
それが錆兎の自信をかなりなくしていた。
錆兎の家は神社だった。
それも普通の神社ではない。
御神刀を頂いて剣術を極める神社である。
刀を祀る神社だけに、その長子として生まれた錆兎は幼い頃から剣術の修行にあけくれたが、それを別にすれば、山奥の神社に住んでいる、ごくごく普通の子どもだったと言っていい。
父は厳しかったが尊敬できる人間で、母は優しく、4つ年下の妹はただひたすらに可愛かったし、他には住み込みの手伝いの老婆がいて、錆兎は剣術の合間によく彼女の家事の手伝いをしたものだ。
だが、父が居て母が居て、妹がいて、山や川からの恵みと、裏庭の小さな畑、それに参拝者のお布施で暮らしていた小さな錆兎の世界は、あることをきっかけに瓦解する。
あれは錆兎が7歳の誕生日を迎えて少し経った頃のことだった。
祀っていた御神刀がいきなり折れた。
いや、砕け散ったというのが正しいのか…
パリン!といきなり四方に散った刀の中からは強い光のタマのようなものが飛び出て浮かび上がり、それが父と共に祈りを捧げるために同行していた錆兎の中に吸い込まれていく。
それに父が青くなり…そして
「…時が来てしまったのか……」
と、嘆息した。
それから父は慌ただしく誰かに手紙を書くと、それを錆兎に手渡して言った。
「これは私の古い知人に事情を話してお前の事を頼んだ手紙だ。
これを持って、狭霧山の鱗滝左近次という男を訪ねて世話になれ。
そして…今後は決して我が家の名字を名乗ってはならぬ。
それはお前に無用な災いの手を伸ばさせることになる。
さあ、行け。
男として生まれたからには決して振り向かず、御神刀の力を世のため人のために臆せず使える男になれ」
と、わずかな着替えと路銀、そして老婆が握ってくれた握り飯二つだけを持たされて、もうすぐ夜だというのに、追い立てられるように家を出された。
夜には鬼が出る…そんな話もよく聞いていたのに子ども1人で不用心な…と思わないでもなかったが、不思議なことにその夜は…いや、その夜からというのが正しいのか…
錆兎には様々なものの気配が手にとるようにわかるようになっていた。
だから鬼らしき気配のある方向は避けて通れたし、多数の邪悪な気配がさきほど出てきたばかりの自分の家に向かうのも感じられた。
もちろん戻りたい…と思わないわけではなかったが、そうして気配を感じられるようになっているということで、自分のみを逃した父の意志がわかってしまうほどには、錆兎は聡い子どもだった。
父が、母が、妹が、喰われる気配も読み取れてしまう。
それでも折れるな、自分が為すべきことをなせ。”男として生まれたならば”
錆兎はそう心の中で繰り返し、ぐっと歯を食いしばって山を下り、狭霧山を目指して走った。
そんなわけで何も持たずに家を出されて全てを失った錆兎にとって、広範囲の気配を読み取るその御神刀の力は家族の形見であり、財産であり、そしてそれを世のために使うことが生き残った錆兎の義務にもなった。
絶大な信頼を置いているそれ…なのに、ようやくそれを世のために使おうというこの時に、何故いつものように働いてくれないのだろうか…
それでも…錆兎は男だ。
御神刀のちからが機能していないにしても、ひとたび任を与えられたからには、最善を尽くさなければならない。
不安と重責で心臓が痛いが、自分1人がそれに耐えれば、他はそれを感じずに速やかに動ける。
となれば、耐えるしかないだろう。
大丈夫、男ならできるはずだ。
頑張れ、頑張れ、頑張れ!折れるなっ!!
錆兎は自分を叱咤する。
それに自分は1人ではない。
義勇がいる。
大切な大切な…全てを失くした錆兎にとって、この世で唯一大切な幼馴染だ。
そもそもが、姉に慈しまれて育ったおっとりとした性格の義勇は、本来は戦いも、ましてや刀をふるうことも好きではない。
それでも錆兎がその道に進むならと、錆兎のために同じ道を歩む決意をしてくれた。
共に死ぬ覚悟までしてくれたのだ。
自分が折れるということは、その義勇の優しく綺麗な命も摘み取られてしまうということだ。
それは避けたい。
どうあっても避けたい。
そんな風にそれは緊張を解すものでは決してなかったが、それでも錆兎があと一歩踏ん張れる気概にはなった。
そしてその義勇とは別に、今回はもうひとり同行者がいる。
同期だが、おそらく1,2歳は年上なのだろうか…
村田という男だ。
これが不思議なことに、能力はそこそこなのに、錆兎を変に上に見ない。
それどころかたまに生温かい目で見られている気もする。
距離がないくらいにそばにいる義勇しか気づかない錆兎の緊張に気づくし、錆兎のことをしょっちゅう無茶だとやんわりと怒りつつ、自分の無理のない範囲で助けてくれる。
そう、この自分の無理のない範囲という一線を崩さないのが、この村田という男の貴重ですごいところだと思う。
錆兎が気遣う必要もなく、でもちょっと人手がほしいなと思う時に何故かいつもそこにいる、良い意味で空気のような存在だ。
その村田が今回もやってくれた。
討伐隊の救出と増援が来るまでの鬼の足止めにと村の中央を再び目指す道中、他の隊員がいない気楽さでついつい
「それにしても…何故首を落としても死なないんだ?」
と、気になっている不安要素の1つを口にすると、村田はそんな錆兎に呆れ返ったように
「おま…今更それ言う?」
と突っ込みを入れてくる。
こんな風に突っ込みを入れてくる人間なんて本当に初めてだ…と、錆兎はなんだかホッとした。
村田は自分の出来る範囲というのをきちんと把握しているのと同様に、錆兎の可能な範囲というのもちゃんとわかってくれている気がする。
出来ることが当たり前じゃない。
怒られるたび、呆れられるたび、生温かい視線を向けられるたび、錆兎とて出来ないことはできなくて、無茶は無茶なんだと許容されている気がして、心が軽くなった。
そうやって張り詰めて切れてしまいそうだった糸に少し緩みが出来て余裕が戻った時、村田はさらにすごいことを言ってくれた。
──…実は首に見えて首じゃないとか?
虫の擬態のようなものじゃないか?と言うその村田の言葉を、一体だけならそういう進化を遂げたというのもわかるが、多種多様にいるこの村の鬼が全部か?と否定してみたのだが、そこでハタと気づいた。
多種多様…じゃないのかもしれない。
そう言えばどの鬼も地面から生えてきたし、地面から身体が離れることはなかった。
1種類分しか感じられない気配……これはもしかして……
錆兎は義勇に協力を求めて耳打ちする。
不確定要素が多すぎて、ハッキリ言って自分が倒せる確率など微々たるものだ。
が、たとえ倒せなかったとしても、その不確定要素をはっきりさせることによって、増援に来る手練の隊員達が倒せる確率が数段にあがる可能性が高い。
自分になにかあったとしても、ついてきたからには村田がなんとしても情報を持ち帰って次につなげてくれるだろう。
そんなわけで、義勇が了承してくれた時点で、腹は決まる。
男なら…男として生まれたのなら、前進あるのみだ。
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