目を覚ますとなんだか耳心地の良い低い男性の声。
ぼんやりと視線を向けると、そこには珍しい宍色の髪にきりりとした藤色の瞳をした目の覚めるようなイケメン男性が、まるで何かのベビー用品のコマーシャルに出演している俳優か何かのように手慣れた様子で赤ん坊をあやしている。
え?ええ??なんだ?なんなんだ???
状況が一瞬飲み込めずに、義勇はぱちぱちと瞬き二回。
そして一気に記憶が戻って来た。
そうだ、引越しの挨拶に来た隣人が、あまりにひどい状態の義勇に同情したのか赤ん坊の面倒を代わってくれたのだ。
そう、こんなにカッコ良くて仕事とかも出来る男っぽいのに赤ん坊の世話も慣れていて、義勇の時は断固としてミルクを飲む事を拒否した弟が、彼が作ったミルクはものすごい勢いで飲みほしていた。
それだけじゃなく、彼に抱っこされるとあんなに不安げに泣いていた弟が安心しきったように泣きやんで、彼は手慣れた様子でおむつを変えてげっぷをさせて、その上で赤ん坊をみててやるから少し休めと義勇に言ってくれたのだ。
その言葉で疲れ切っていた義勇の記憶は途切れている。
おそらく眠ってしまったのだろう。
「あああーーーー!!!!」
と、完全に記憶が繋がって、義勇は頭を抱えた。
「ごめんっ!ごめんなさいっ!!見ず知らずの人にっ!!!」
ありえないっ!引越しの挨拶に来ただけの相手に赤ん坊を預けてグーグー寝てたなんて、我ながらほんっとうにありえない。
しかし相手は呆れることもなく、綺麗な顔に優しい笑みを浮かべて、おそらく義勇の記憶が定かではない可能性も加味してくれているのだろう、ゆっくりとした口調で
「錆兎…な?鱗滝錆兎。
この隣、502号室に越してきたリーマンだ。
奥さんのことはなんて呼んだらいい?」
と、改めて自己紹介をしてくれた。
ここからは怒涛だった。
相手は大手企業のエリートサラリーマン。
1人子どもを育てあげたというし、義勇ですら知っている有名な大企業の課長だと言うので、若く見えるが実は良い年なのかと思ったら、なんと幼い頃に母親を亡くして、仕事が忙しい父親と一緒に親代わりとしてまだ赤ん坊の弟を育てていたとのことだ。
今回の引っ越しは、その弟が大学に入って1人暮らしを始めたので、相手に自立を促すとともに自分も子離れ…もとい弟離れをするために、距離を置くためだったのだと言う。
今週は有給を取っていて、開け放していた窓から聞こえた義勇の泣き声を、育児ノイローゼの若い親かと気になって来てくれたそうで…
ありがたい、本当に近所は大切だ…と実感した。
そして…イケメン、エリートという彼に対する認識に、義勇はこっそりとイクメンの文字も追加する。
神は二物を与えずと言うが、あれは嘘だ。
世の中には何でも出来る完璧な人間というものが確かに存在するのだ…と、思い知った瞬間だった。
こうして自分の側の事情を一通り説明してくれたあと、彼は今度は当たり前だが義勇の事情について尋ねてくる。
そこでそれまで美形エリートイクメンにほぉぉ~と感心していた義勇は、一気に現実に引き戻された。
そうだ、感心している場合じゃない。
義勇はこれから弟と2人きりで生きて行かないとならないのだ。
あまりに現実離れした隣人、錆兎の華やかさや安定感にすっかり忘れていたが、現実は変わらない。
今は泣きやんでいる弟も、錆兎が帰って義勇と2人きりになればまた悲しげに泣きだすのだろう…そう思ったらまた性懲りもなく涙があふれて来た。
話しているうちにどうしようもなく心細く悲しくなってきて、最後はシャクリをあげて言葉に詰まる義勇に、錆兎はびっくりしたようだったが、すぐに赤ん坊を抱きしめたまま泣く義勇を赤ん坊ごと抱きしめてくれる。
――うん…まあ…大変だったな。自分の面倒だけでもどうしよう状態なのに、心細かったよな…
ああ、そうだ、この言葉だ。
ポンポンと宥めるように背を軽く叩きながらそう言ってくれる言葉に、少し悲しさが癒されていく。
次いで聞かれる
――えっと…今後頼れる当てとかはあるのか?
という言葉に首を横に振ると、義勇はコツンと自分の頭をその厚い胸板に預けた。
今だけ…今だけでも良いから、少しでも良いから誰かに寄りかかりたかった。
しかし…そこであり得ない言葉が降って来た。
――わかったっ!俺が一緒に面倒見てやる。こう見えても育児はプロだ。任せとけっ!
「はぁ??」
え?え?なんで?何故そうなる??
両親の事故死の知らせを受けた一昨日からずっと色々現実感がなかった。
あまりに一気にふりかかってくる不幸、不安。
それが急に覆されるような言葉に、今度は別の意味で現実とは思えず、義勇はびっくり眼で錆兎を見あげる事しか出来ない。
そんな義勇に、大丈夫、これが現実だ!と言わんばかりに、しっかりとした大きな手で頭を撫でながら、
「子育てを終えた子育て経験者が今子育ての手が必要な奴の隣に越してきたってのは、いわゆる神様のお導きだ。素直に従っておけ」
と言う錆兎に、緊張に張り詰めていた糸が一気にほどけた。
ぎゅうっと錆兎に抱きついたまま、自分の方が泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。
気が付いたらソファの上。
ブランケットが上からかけられていた。
「おう、起きたか。
今、義一のミルクやってるから、終わったら大人の飯な。
温め直せばすぐ食えるから、ちょっと待っててくれ」
と、すぐ側の椅子で義一にミルクをやりながら言う錆兎。
ついさっき初めて会った赤の他人だと言うのに、そこに彼が1人いるというだけで、昨日までの心細さ、寒々しさが嘘のように温かい。
「よ~し、良い子で飲んだな。おむつ替えてすっきりしような」
と、錆兎はにこやかに赤ん坊に話かけながら、アフガンを広げてそこに赤ん坊を寝かせると、手早くおむつを替えてやって、すっきりした顔の義一を
「ちょっと抱いててやってくれ。飯の準備するから」
と、義勇に手渡してきた。
お腹がいっぱいでおむつもすっきり。
周りの大人の精神状態も安定していて安心感があるのだろうか…
先ほどまでと違って義勇の腕の中でもご機嫌な様子の義一。
あぶあぶ言いながら小さな手を義勇の顔に伸ばして来る姿は愛らしい。
「ははっ。義一、お前可愛いな」
と、思わず義勇が笑いかけると、にこぉっと目や口元が笑みの形を作る。
「笑ったっ!!」
義勇は驚いて声をあげた。
あれほど悲しそうに泣いてばかりいた赤ん坊が、上機嫌でわらっている。
その様子に不思議なくらい気持ちが軽くなった。
「ん~。早い奴だと2カ月くらいで笑うぞ。
義一はそのくらいか?」
と、パスタやサラダの皿をリビングのローテーブルに並べつつ言う錆兎。
本当にそこにいるのが当たり前に思えるのが不思議である。
決してパーソナルスペースが狭くはない、人見知りの義勇に全く緊張させる事なく場に馴染めるなんて、すごい人物だと改めて思った。
――越してきたばかりだからあり合わせのモンしかなくて悪いな。
と、言う食事だって、ガーリックトーストにパスタにサラダにスープは全部手作りで、日々コンビニの弁当で済ませている義勇からすると御馳走だ。
その良い匂いに昨日から食べることを忘れていた義勇の腹は一気に何も胃に入っていない事を思い出したらしい。ぐぅ~っと大きく鳴った。
その音に錆兎はちょっと目を丸くして、そして次に
「少しは元気になって来たかっ」
と、優しく笑って頭を撫でてくれる。
こうしてだいぶ落ち着いた義勇達だったが、それでも錆兎はその夜は心配だからと布団を持ってきて泊まってくれ、翌日からの手続きやら義一に必要な物の買い物やらを手伝ってくれたのであった。
0 件のコメント :
コメントを投稿