そう言ったのは叔母だった。
突然事故で亡くなった実父と実父の再婚相手の女性。
この義理の母は若くて父とはほんの1年前に再婚したところで、大学に通うため1人暮らしをしていた義勇とは数回会ったきりだったが、優しそうな女性だった。
父とその女性との間に生まれた弟はまだ生後2カ月。
確かに大学生の義勇1人で育てるには荷が重いと思うのは当然だろう。
警察から連絡が来て、1人奇跡的に無事だった赤ん坊の弟を手渡されて、呆然としつつ義勇が連絡を取ったのは亡き実母の妹、義勇の叔母である。
彼女にとっては弟は全くの他人だ。
それでも彼女はとりあえず育児経験など当然ない義勇の手から一時的に預けられた弟にミルクをやり面倒をみてやりながら、しかしそれは一時的なこと、義勇の手助けをするためにやっているのだという事を明らかにするがごとく、冒頭のように言ったのである。
義勇の実の両親は格差婚で、母は財閥の令嬢、父は身よりのない一介のサラリーマンだったので、その婚姻は一族からは認められてはいなかったし、母が義勇が幼い頃に病を得て亡くなった時には、ほら見た事かと後ろ指を指された。
そんな中で唯一遺された義勇を心配して何かにつけて気をかけ、手をかけてくれたのがその叔母だった。
だから今回も義勇は彼女を呼んだわけなのだが、彼女にしてみれば弟の義一は完全な他人どころか、姉を死なせた男がその後に他に女を作って産ませた赤ん坊だ。
情がわくはずもない。
そもそもが義勇の実母が家同士の政治的な理由で決められていた許嫁と実家を捨てて義勇の実父に走ったあと全てを被って実家を継ぐことになった叔母は、義勇に手を差し伸べてくれていた時点で、彼女自身もその事について親族から色々言われてきたくらいなのだ。
それでも実の甥で姉の忘れ形見だから…と、なにかにつけて面倒をみてきてくれた彼女は十分に優しい女性だ。
しかし彼女の夫はそうやって義勇の実母が捨てた実母の実家の仕事上重要な関係にある財閥の次男だし、これ以上義勇の家の方の諸々に手を差し伸べれば彼女自身の立場もひどく悪くなる。
それでももし遺された赤ん坊が姉の実子である義勇だったなら、彼女は手元に引き取り、育ててくれただろう。
しかし繰り返すが義一は彼女にとっては赤の他人よりもまだ距離のある赤ん坊だ。
今こうやって義勇が呼んだら駆け付けてくれて、葬式が終わる間まででも世話をしてくれるだけ、ありがたいことだ。
それが分かってしまう程度には義勇は大きくなっていた。
「義勇の生活費は亡きお父様の遺産の中で本来は姉さんのものだった分の一部から出てるしね。
あなたの父親の諸々に関しては全部放棄してしまいなさい。
施設にいれる手続きまでだったら、あたしも手伝ってあげられるから…」
弟と言っても半分しか血がつながっていないし、この子はあなたの人生の重荷にしかならない。
愛情深く義勇を慈しんでくれてきた彼女は、やっぱり慈しみ深い様子でそう言う。
彼女にとっては義勇は愛すべき存在で、その分、赤ん坊はその愛する甥の人生の厄介な重荷なのだろう。
でも…と義勇は思う。
母を亡くした幼い自分にとって、仕事がある父の代わりに保育園の運動会や授業参観、保護者会に来てくれる叔母は心強かったし温かかったし、今もだがいざという時に頼れる相手がいるという安心感は何ものにも代えがたいものだ。
一方で弟は…両親を亡くし、その両親は片や身寄りがなく、母方は大学生の息子がいる一介のリーマンとの結婚には反対で、縁を切られていると聞く。
現に亡くなった事を知らせても誰も駈けつけてはこない。
おそらく明日の葬式にも来ないだろう。
そういう意味ではこの赤ん坊である弟が心の拠り所にできるのは、この世でたった一人、自分だけなのだ。
そう思うと、見捨てる事なんて出来やしない。
両親の仕事関係の知人と叔母、そして自分だけの本当にささやかな葬式を済ませた後、義勇は叔母に礼を言うと、それでも彼女の反対を振り切って、彼女が赤ん坊の面倒をみるために買いこんでくれていた諸々のベビー用品を積みこんで、タクシーで自宅へと戻った。
…疲れた……
普通なら親の葬式だけでも十分疲れるし、落ち込むものだ。
しかし義勇には落ち込んでいる暇さえない。
何もできない赤ん坊の面倒をみてやらねば…
まず赤ん坊が眠っているうちにミルク用の電気ポットをセット。
そしてネットで色々調べてみる。
(ふんふん…母乳に足りないのはビタミンKで…K2シロップ?薬局に売ってるかな?
いや、キャベツに含まれてるのか…ビタミンK…。
家にキャベツあったっけ…)
よくわからない上に疲れている中で適当に字面だけ追う情報…。
ビタミンKが足りないのは母乳であって粉ミルクではない。
そんな事すら読みとれず、疲れきってぼ~っとした頭で冷蔵庫を探ると、見つかったのは紫キャベツ。
(…これもキャベツだから…いっか…)
と、取りだして、ふと考えた。
赤ん坊は歯が生えてない。
かじれない…
………
………
…ミキサー使うか……
それを迷わずハンドミキサーに放り込み、ついでに栄養がありそうなので人参も放り込む。
そして…粉ミルクを半分お湯で半分その液体をいれて溶かした。
そうしてミルクが出来た頃、ちょうど寝ていた赤ん坊が目を覚まして泣きだしたので、哺乳瓶を持って駆け寄る。
「ごめんな。大丈夫。お前は俺がちゃんと守ってやるから…」
事情なんてわかっているとは思えないが、あまりに悲しそうに泣いている赤ん坊を見て、自分も唯一残った父親が亡くなって弟とこの世に2人きりになった事に今更ながら気づいて、義勇も悲しくなってきた。
大丈夫…なんて誰が言える?
言えるほど自分は強いのか……?
自分の身一つだってどうすればいいかなんて自信はない。
それでも義勇1人なら…このマンションは叔母が確保してくれた本来は全くもらえないはずだった実母側の遺産で購入した物でローンなどもないし、成績だけは良かったので大学は来年卒業だが、学費は給付型奨学金が出ていた。
そのあとは…就職すれば自分1人が食べて行くくらいの食費と光熱費くらいはまかなえるだろうし、生きてはいけるだろう…。
でも…弟はどうする?
これから保育園だって探さないといけないし、なにより小学校、中学校、高校、大学と出さなければならない。
その学費は?
それ以前に、自分が学校に行っている間はどうすればいい?
自分が育てるから…と引き取ってはきたものの、何から手をつけたら良いのか、どうしたらいいのか、わからない。
…怖い……心細い………
不安で涙があふれてきて、義勇は泣きながら、それでも弟を抱き上げた。
何をするにしてもしなければならないにしても、まずは今日の食事だ…。
そう思って真っ赤な顔をして泣く弟の口元に哺乳瓶の乳首を押しあてるも、赤ん坊は嫌がって顔をそらせる。
…え?
と、義勇は目を見開いた。
「…お腹…空いてるだろ?ほら、ミルクだぞ」
と、さらに反らした顔を覗き込んで口元に乳首を持って行くも、やっぱり嫌がるように赤ん坊はさらに顔を反らして悲しげに泣く。
…何故…?……どうして?
…俺はお前のために……
まるで自分自身が拒絶されているように感じて、義勇はさらに悲しくなって泣きだした。
確かに母親ではないけれど…一生懸命やろうと思っているのに…
…どうして…?どうして?
「…俺じゃ…ダメ…なのか………」
最後はワンワン泣き出して、泣いて泣いて泣いて……
義勇の涙も枯れ果てた頃、赤ん坊の方は泣き疲れたように眠ってしまう。
マンションに戻ってきたのは夜だったが、そうやって泣いているうちに気づけば朝日がのぼっていた…。
しかし事態は変わらない。
赤ん坊は悲しそうにちゅぱちゅぱ指をしゃぶっているが、ミルクを作りなおしてもやっぱり飲んではくれない。
どうしよう…どうしよう……
気持ちは焦るし不安だし…なにより悲しくて、なにもかも投げ出したくなった。
二度目もダメ…三度目に作りなおしたミルクをやっぱり拒否されたところで、もう枯れ果てたと思っていた涙がまた溢れてくる。
…助けて…誰か…誰か、助けて……
と思うものの、唯一義勇が頼れる叔母に助けを求めたら、やっぱり面倒を見られないのだから弟を施設に…と言われるのは目に見えている。
それは出来ない…いやだ……
…しっかり……しっかりしろ……しっかりしなきゃ……
と、自分に言い聞かせるように呟くが、もう4度目のミルクを作りなおす気力もわいてこない。
でも…何か飲ませてやらなければ……
自分自身も泣きすぎて目の前がくらくらする。
そんな中で鳴るドアのチャイム。
ぴんぽ~ん…と鳴るそれが、一瞬何か遠くの出来事のように思えた。
しかしぼ~っとしていると、もう一度鳴るそれに、ようやく誰かが訪ねてきたのだと理解する。
――……はい…?
普段でも滅多に誰かが訪ねてくる事などないのに、こんな時に誰が?
そう思いながらおそるおそる応じると、ドアの向こうからは
「すみません、隣に越してきた鱗滝です。引越しのご挨拶に来ました」
との声。
ああ…そう言えば隣の空部屋に誰か入るようで、引っ越し屋が来ていた気が……
回らない頭でぼんやりそんな事を思いつつ、義勇はフラフラとドアを開けた……
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