赤ん坊狂走曲_ver錆義_1

(…お~、結構広いな)

がらんとした部屋。
以前住んでいたワンルームから越してきたこの部屋は3LDKもあるので、以前から使っている家具を置いてもまだスカスカ感が否めない。

まるまる1室空いている部屋はいっそのことトレーニング器具でも置いて、それ専用の部屋にしてしまおうか…

そんな事を思いながら、錆兎は荷解きをしていった。




鱗滝錆兎26歳。
大学を卒業後、学生時代の友人が早くに亡くなった親の跡を継いで学生社長を務めていた大手企業に入社。

現在4年目。
能力主義の会社でその才能を如何なく発揮し続けてめでたく課長に就任したところで、ちょうど早くに亡くした母親の代わりに面倒をみてきた8歳年下の弟が大学入学を機に実家を離れることになったので、実家から近い今までの賃貸マンションを出て、会社から近いこのマンションを購入した。

弟もここ最近はもう手のかからない年にはなってはいたものの、それでも健康は大事だと、高校までの間は弁当を作って出社前に実家に届けたりしたものだが、それももう終わり。

これからはむしろ手を完全に放して、自分の人生を思い切り歩めるように一定の距離を置いてやらねばならない。

そう、子育ては壮大な趣味である

とてつもない時間とお金がかかり、そして責任も生じるが――錆兎の場合は金銭は父親負担だったが――育てる過程を楽しんで完成したら、あとは手を出さずに遠目にでも見て楽しむに留めるべきだ。
それ以上意味もなくいじったら歪んでしまう。

母親が弟を産んですぐ他界したので、仕事もある父親の代わりに中心になって面倒をみる事になった赤ん坊には、母親がいない寂しさを感じないようにと愛情も手もたくさんかけたつもりだ。

すでに錆兎自身は8歳になっていたから、おむつも替え、ミルクもやり、離乳食だって手づくりして、風呂にだっていれてやった。

読み聞かせた数々の絵本。
自分の勉強の合間の気晴らしにと、自分も幼い頃から習っていて弟にも習わせた剣道の竹刀は未だに実家に大切に保管してある。

居心地の良かった自分の勉強部屋を出て、弟の面倒をみられる茶の間で勉強する事が圧倒的に増えた。

生活は自宅で唯一の子どもとして何もかもが自分中心に回っていたものから、自分のことはとりあえずおいておいて、幼い弟の都合で動くものへとシフトした。

父親はそんな錆兎に――必要だったら家政婦さんを雇うなりなんなりするから、無理をしなくていいんだぞ?――と言ってくれたが、違うのだ。

それは確かに自己犠牲で自分の何かの欲求を我慢するものではあったが、楽しい我慢だったのだ。

友人と遊ぶ時間が弟の面倒で減った。

でも錆兎が抱っこすると嬉しそうに笑う赤ん坊を見るのが楽しかったので、それは友人との時間が減るというデメリットを、赤ん坊の可愛さというメリットが上回っただけのことだ。

幸いにして弟はそんな風に注ぎこんだ愛情をそのまま糧にしてまっすぐ育ってくれたため、兄馬鹿かもしれないが優秀で真面目で責任感もある立派な青年に成長した。

自慢の弟だ。

会社でもよく『俺の弟世界一だぞ!』と自慢しては、こちらも学生時代からの悪友である同僚達に生温かい目でみられたりしている。

弟は可愛い。世界で一番可愛い。
それでも…手を放してやらねばならない。

だから実家近くにいたらどうしても手を出してしまいそうと言うのもあっての引っ越しだ。


寂しい…と感じないかと言えばそうではないのだが、子育てもどきが早く終わった錆兎はまだ幸いだ。
これから自分の人生において重要視するものを探す時間はまだたっぷりある。

それが見つかった頃には、この必要最小限の物しか置かれていない部屋も、それに関連するもので埋め尽くされているのだろう。


そう気持ちを切り替えて、錆兎はとりあえず片付けを終え、コーヒーをいれて一息ついた。
手入れが難しい物は実家に置いて来てしまったので、興味が多岐に渡るため膨大な量になっている本がぎっしり詰まった棚を置いた部屋以外はガランとしている。

リビングのローテーブルの上には菓子折り。
いまどきそんな事をやる人間も少ないのかもしれないが、一応ここで長い時…もしかしたら生涯住むかもしれないので、隣人との折り合いは大事だと、挨拶用に購入しておいた物だ。

錆兎自身は引っ越しの関係で今週は有給を取っているが、今日は平日だ。
なので、挨拶は夕方以降に勤め人が帰って来た頃に行こうと思っていたのだが、掃除をする間の換気にと開け放した窓から風に乗って響いてくる、ぴえぇぇ…というか細い泣き声。

(…あ…隣、赤ん坊いるんだな。懐かしいな…)
と、遥か昔を思い出してクスリと笑みを浮かべながら、その愛らしい声をBGMにコーヒーをすする。

赤ん坊の声が煩いなどと言う人間もいるが、錆兎のように育児経験のある人間からすると、本当に小さな赤ん坊の泣き声などか細くて小さくて可愛らしいものだ。

これが幼児、児童になってくると、身体も声も大きく強くなってきて、それが思い切りあげる声は凄まじい事になってくる。

それをきちんと躾けて行く難しさ。

弟は母親が亡くなって色々行き届かない自宅の状況をきちんと理解していて聞きわけの良い子ではあったが、それでも色々大変な事もあった。

当時は正直投げ出したくなるような時もあったのだが、全てが終わって自分の手から離れてしまった今では、そんな大変さが懐かしくも愛おしい。

自分自身も子どもであった頃と違い、社会人になって仕事にも随分慣れて落ちついた今ならもっと色々やってやれたのに…と、思ってしまうあたりが自分は子離れ…もとい弟離れ出来ていないのだろうか…。

そんな風に少し感傷的な気分になったところにコーヒーから出る湯気が目に染みる。

(しっかりしろよ)
と、自分で自分を叱咤して、軽く目頭を押さえた時…赤ん坊の声とは別に小さな啜り泣きが聞こえて来た。

…しっかり……しっかりしろ……しっかりしなきゃ……
と、嗚咽の合間に聞こえる声。

そこで錆兎はピタと手を止めた。
そしてカップを置く。



(…これ…やばいんじゃないか?)

と、思った瞬間、菓子折りを手に立ち上がった。


隣の家では泣きやまない赤ん坊に泣いてる若い親というシチュエーションが繰り広げられている気がする。

育児ノイローゼとかじゃなければ良いが…と、おせっかいと思いつつも様子を見たくなって、慌てて部屋を飛び出した。

そして鳴らす隣の家のチャイム。

少し間を置いて、――はい?――と、おそるおそると言った風に返ってくる声に

「すみません、隣に越してきた鱗滝です。
引越しのご挨拶に来ました」
と、笑みを浮かべて言うと、ガチャッと鍵の開く音がした。




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