帰宅前
「アーティ、ちゃんと上着着てかなあかんよ。
それから外行く時はちゃんと言うてってや。心配するやん」
柔らかな日差しに誘われて散歩に出たついでに、いつもオレンジを差し入れてくれる隣人の老婦人にお礼の刺繍入りハンカチを届けたまま立ち話に興じるイギリスに、慌てて走り寄ってきたスペインが上着を羽織らせる。
と口をとがらせるイギリスだが、
「アーティ…兄ちゃん心配しとるんやで?
どっかで倒れてたらと思うと、生きた心地せえへんわ」
と真面目な顔で言われて、小さな小さな声で
「……ごめん…」
と謝罪を述べてうつむいた。
――兄ちゃん心配しとるんやで?
その言葉は少し面映いが温かな気持ちになった。
幼い頃自分が実兄達に切望して得られなかった優しい関係がここにある。
保護し、慈しんでくれる家族…。
「ホンマ、アントーニョちゃんはアーサーちゃん好きなんやねぇ」
訪ねてきた老婦人の家族やら知人のおばさん達がそんな二人を見て微笑ましいと笑うと、スペインはイギリスを後ろから抱え込むように抱きしめて、
「そりゃあ、この世でたった一人、守ったらなあかん家族やしな」
というので、アーサーはただ赤くなってうつむく。
こんなふうに兄に温かく親愛を示された事がないため、どう返して良いかわからない。
でも嬉しい…。
好意を向けられるのも、こうしたスキンシップも、スペインが与えてくれるものは何故か怖くなかった。
「…とーにょ……腹減った…」
なんだか泣きそうな気分になって、それを押し隠すように後ろから抱きしめているスペインの腕を振りほどいてシャツの裾をツンツンとひっぱると、
「そやな。そう言えばメシにしよ思うて呼びに行ったらおらんかったから、慌てて探しに出たんやった。ほな、帰ろか」
と、スペインが太陽のような笑いを浮かべる。
暖かくてぽかぽかしていて優しくて…太陽のしたにいるのは存外気持ちが良い。
老婦人や近所のおばさん達に別れを告げると、イギリスはスペインと連れ立って、もう10日以上滞在している温かな小さな家に戻った。
良い兄だ…と近所の人達に言われるのは、彼らがスペインの国民で、ゆえにそうと知らなくても無意識に祖国であるスペインに好意を感じているというだけではないと思う。
こんな男に育てられたなら、こんな兄を身近において育ったなら、きっと幸せだっただろうと、イギリスもつくづく思った。
それと同時に、ああ…ダメだ…とも思う。
自分はたぶん性格が悪いのだろう。
これだけ燦々と降り注ぐ太陽の日差しのように愛情と好意を注がれると、それに満足して穏やかな気持になるどころか、それを他に取られないよう、自分に注がれる分が減らないよう、独り占めしたくなる。
それを自覚した瞬間から、スペインの休暇が終わって家に帰るのが怖くなった。
戻ればいずれ可愛い子分とかち合う事も出てくるだろうし、そうすればスペインの目は可愛がっている子分にいってしまって、今はここに自分しかいないから注がれている愛情が半減してしまうに違いない。
いや…半分残ればまだいいほうだ。
下手をすればほぼ残らないかもしれない。
――嫌だ…悲しい……。
一度温かい空間に慣れてしまうと、それはとてつもなく恐ろしい事に思えた。
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